A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

姫路城(白鷺城)あのいじめられっ子は健在かな、どうしていのかな? 

 小学生のころから、姫路城はいちどは行ってみたかった。

 それは広島の離島に転校してきた少年(小学4、5年?)が「白鷺城は真っ白できれいだ。毎日、見ていた」という語りが、私にはずっと記憶に残っていたからだ。
 
「城をみてみたい」と思った最初が、姫路城でもあった。しかし、わたしは歴史小説を書く作家になっても、白鷺城は足がむかなかった。

 広島と東京間を往復する、かんたんに立ち寄れるルート上にあるけれど、姫路下車はいちどもなかった。

 その少年は、転校後に、すぐに登校拒否児になった。

 広島の島っ子たちは、いじめは上手だ。乱暴だ。

 近年、メディアなどで、いじめ問題がでてくると、「最近はひどい。むかしはそんなことはなかった」という。

 それを聞くたびに、「嘘つけ、むかしのほうが、もっと酷(ひど)かった」とおもう。コメンテーターのいつものいい加減な発言にうんざりしながらも。

 と同時に、白鷺城を思い浮かべる。

 少年の名前は忘れてしまった。もう半世紀もまえのことだから。

 学校の先生に命じられて、朝は交代で、登校拒否児のかれを迎えに行く。

 女郎屋の裏手の小さな借家だった。

 しかし、少年は家から出て来ない。


 なぜ、登校拒否児になったか。

 クラスメートは、すべてわかっていた。

 「おまえの母さん、女郎だ。女郎ょっ子だ」

 「迎えにきたぞ、女郎ょっ子」

 これでは、学校に来るはずがない。

 「早くでて来い、女郎ょっ子」
 

 島の遊郭は、内航船の船員をあいてに繁盛していた。

 母親はそこで身を売る。生きていくため、子育てのために。姫路から流れてきたのだろう。

 子どもは残酷だ。そんな家庭の事情など、みじんも理解していない。

 戦後の男の子は、乱暴だ。喧嘩が遊び道具の一つだ。

 理由は簡単だ。周囲の大人の男性はかつての軍人経験者ばかりだ。

 教職員だって、数年前まで、銃剣で人間を殺していたのだから。
 
 教師に殴られなかった生徒は、いるのかな? 男子生徒ではきっといないだろうな。


 「全体責任だ。全員ならべ」と言われて、殴られた。1度や2度ではない。

 当然のこととして、耐えた。親など話すわけがない。

 不愉快だったら、殴る、という軍人の残影が、子ども社会にまで伝染していた。

 だから、子どもたちは平気で喧嘩を売る。

 「女郎ょっ子」は、転校当初は、白鷺城をなつかしげに語って聞かせていた。

 しかし、田舎の島っ子には、都会っ子として、鼻持ちならなかったのだ。

 なにかと都会からの転校生には、ささいなことで喧嘩を売る。

 喧嘩して、泣いて、しょげる奴は弱虫だ。笑いの種だった。

 負ける奴が悪い。

「くやしかったら、かかってこい」

 男だったら、喧嘩を売るのが当然だった。

 
 日本は敗戦だったけれど、軍人精神、任侠の世界がまだ持てはやされていた。清水次郎長、国定忠治、鞍馬天狗が英雄だった。

 日本はアメリカに負けた。しかし、中国や朝鮮が戦勝国だと認めていない。かれら軍人を蔑視する風潮があった。
 日本人はアジアで最も強いんだ。そういわれて、子どもたちは信じて育ってきた。

 そんな大人の空気が、子ども社会にも影響を与えていた。

 「弱い子をより叩きのめす」
 
 日本軍人はつよい、アジアは弱い。その誤認識と妙に共通していた。

 私は全国津々浦々、かなり城をまわっている。歴史作家としても、城は研究対象だ。

 このたび、『家康と播磨の藩主』(播磨学研究所)の共著の伊藤康晴さん(鳥取)から謹呈された。「西国の将軍、姫路城主・池田輝政」というタイトルで執筆されていた。

 伊藤さんとは1-2年にして、鳥取市に出むいて飲んで語る近代史家だ。

 これを機会に、姫路城主に行ってみよう、と決めた。8月12日に出むいた。
              
 わたしは少年の面影をどこか探していた。姫路駅から白鷺城の往復で、少女の裸身がやたら目立った。このくらいの年齢のときかな。

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