歴史の旅・真実とロマンをもとめて

「日浦山」(広島県)から芸州口の戦いを一望=長州藩は最初が卑怯、のちに敗走

 日浦山(ひうらやま・広島県海田町)に登るほど、遠景が高くなる。

 瀬戸内海がはっきり輪郭をあらわし、宮島(みやじま)が浮上してきた。瀬戸内海の海岸線が、鮮明な線をひいて伸びる。秋晴れの絵画のような自然の造形美だった。


  慶応2(1866)年6月の開戦まえ、この海域は、幕府軍の軍艦がびっしり埋まり、当時は蒸気軍艦ですからね、煙突の黒煙がもうもうもとなびいていたでしょう。

「芸州口の戦いの先鋒は、広島藩だった。それが抜けたわけです。おどろいたのが鎧(よろい)兜(かぶと)で武装した彦根藩と越後高田藩です。かれらは広島に長期間にわたって逗留しています。厭戦(えんせん)感がただよい、戦意などなかった。最前線に押し出されてしまった」

 6月7日、幕府軍艦は周防大島(すおうおおじま)や馬関海峡(ばかんかいきょう)へとむかった。そして戦端を開きました。

  山頂が近くなり、最期の急こう配の道になった。たどり着くと、小さな白地のタオルで首すじの汗をぬぐった。

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 慶応2年6月14日の朝、幕府の攻撃命令で、先鋒の井伊家の軍勢が小瀬川を渡って岩国に入ろうとしたとき、戦端が開かれた。

「歴史書は、このように長州がわに都合よく書かれています。実際は前夜、長州軍が広島藩領に無断で侵入し、大竹の北側にある鍋倉山(なべくらやま)に陣取っていたのです」

 武器をもった侵略行為ですから、褒められたものではありません。

 鍋倉山から、臼砲(きゅうほう・曲射砲)の砲弾が、井伊家の軍勢へ撃ちこまれました。つまり、真横、後ろから砲撃をしたのです。これが戦争の発端です。

 長州藩兵が山を駆け下りながら、最新銃で一斉射撃です。井伊家の軍勢は予想外の方向の奇襲(きしゅう)におどろいてしまう。

 側面攻撃、後方攻撃をうけると、指示命令の系統がズダズダに切られてしまう。井伊家の軍勢は隊伍(たいご)を崩しました。銃声や砲弾の音に、馬たちがおどろき、乗る武将たちは転落する。もう大混乱をきたし、小方(おがた・大竹市)へ敗走をはじめます。

 井伊家は有名な赤備(あかぞな)えの旧式の軍装で、鎧(よろい)兜(かぶと)や旗(はた)指物(さしもの)が赤や朱です。井伊家の逃げる鎧兜の兵士は争って小舟に乗ろうとする。大勢が乗りすぎて浸水したり、転覆したりする。

 長州兵が最新銃で狙い撃ちです。井伊家の陸兵はもともと雑兵が多い補給部隊だった。それが先兵になったから、ひとたまりもない。

 重い甲冑、鎧を脱ぎ捨てて、ことごとく西国街道の陸路や海路を逃げていく。冠山からの子尾根が海辺までせり出し、街道の道幅が狭かったのです。
 逃げ込む兵士は押し合い圧し合いです。


 彦根藩・高田藩が敗走してきたので、幕府は幕府歩兵隊と、紀州支藩の新宮(しんぐう)藩の水野歩兵隊を芸州口に投入させた。

 第一線に出てきた水野忠幹(ただもと)は、フランスから購入したミニエー銃600丁で決死の戦いに臨んだ。死者が次つぎ出ても、水野家は紀州藩の付家老であり、主君の征長総督の面目にかけて、頑強に反撃する。

 こんどは長州軍を四十八坂まで退却させていく。そこに幕府海軍がはげしい艦砲射撃を加える。長州軍はひたすら退却で、小方の先まで退いていく。


『上記は、来年4月1日に出版予定の歴史小説「芸州広島藩」の一節です。第一章は現代から入ってきます。この作品の狙いは、大藩・広島藩からみれば、幕末史が変わるです。これまでの通説は随所で覆しています。

「芸州口の戦い」で、長州藩兵は卑怯にも前夜に広島藩領に忍び込んでいた。紀州藩が出てくると敗走していた。
 歴史家、歴史小説家は、「防長回転史」の受け売りで、長州藩が芸州口の戦いまで「勝った、勝った」とされています。
 しかし、広島側の資料をみれば、長州藩は最初が卑怯、のちに敗走です。

 多くの歴史家は薩長史観から、まだまだ脱却できていないようです。でも、ねつ造やメッキはいつしか剥げていくものです』

 
 越後高田藩は芸州口の先陣でした。井伊家の敗走に巻き込まれて戦いながらも、後退していきます。と同時に、大勢の犠牲者を出しています。

 この海田町・日浦山の山麓にある「明顕寺」で、高田藩の戦死者は150年間にわたり眠っています。

  

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