歴史の旅・真実とロマンをもとめて

龍馬の手紙発見で、広島藩・御手洗の4藩秘密の盟約が確定された

 きょう(2017年1月10日)、朝日新聞、NHKニュースなど、あらゆるメディアが、「龍馬の手紙が見つかった」とトップで報じた。暗殺5日前に、龍馬が中根雪江(なかね ゆきえ)に手紙を出していた、という。

 慶応3年11月10日である。

 私は「学者って、いい加減だな」と腹立たしくなった。

 これまで、この手紙の存在は長く知られており、慶応3年11月5日に、福井の中根雪江(あるいは松平春嶽)宛てに出された、と言われてきたものだ。

  左:由利公正  右:坂本龍馬
【NHKテレビより】

 慶応3年は、幕末史で最大の年である。片や、大政奉還(10月14日)から、王政復古(12/9)まで、歴史の空白だった。この間に、三つの事実がある。


① 坂本龍馬が11月15日に暗殺された。

② 「新政府綱領八策」という、明治政府の基本政策となる八か条が作られた。「慶応丁卯十一月 坂本直柔」と本名が入ったものが、二通は現存する。
 11/1~11/15の半月間に作成されたもの。

③ 11月下旬には、御手洗港(広島県・大崎下島)に、薩長芸の最新鋭の軍隊約6500人が集まり、京都へと挙兵した。
 約1か月後に、鳥羽伏見の戦いを起こす。

 ①~③は、いずれも坂本龍馬で連結されている。


  薩長芸の6500人もの大規模な兵が挙兵する。この事前の密議はどこで行われたのか。明治時代以降も、あまりにも謎すぎで、歴史学者や大物歴史作家はふれてこなかった。

 その資料が広島藩側にあった。『御手洗条約』、『3藩進発』と呼ばれている。もうひとつ、新谷道太郎が、60年後に証言した『四藩軍事同盟』だった。


 新谷道太郎著『維新志士』(口実筆記)によると、慶応3年11月3日~7日、御手洗・大長の新谷家(寺)で、『四藩軍事同盟』がむすばれたと記す。参加したのは、

 広島藩は、池田徳太郎、船越洋之助、加藤種之助、高橋大義、

 薩摩藩は、大久保利通、大山格之助、山田市之丞

 長州藩は、桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介、

 土佐藩は、坂本龍馬、後藤象二郎
 

 なぜ、これだけの大物が参加する必要があるのか。6500人の出兵の打ち合わせだけではない。大政奉還後の新政府の政権づくりである。組閣である。

 新しい国家トップをだれに決めるか。「新政府綱領」の八策は決まったが、重大な人事構想のトップは決まらず、「○○○自ら盟主と為り此を以て朝廷に奉り始て天下萬民に公布云云」とした。
 この代表署名は、坂本龍馬の実名・直筆である。(国立国会図書館、長府博物館)


 なぜ、重大な会合が御手洗だったのか。長州は大政奉還後も、まだ朝敵だから、京都では会合ができない。新政府のトップが絡む重大会議ゆえに、朝敵だからと言い、不参加ともいかない。


 桂準一郎(桂小五郎、木戸孝允)は、岩国から芸州広島藩・豊安号で、11月1日に広島に赴いた。そして、広島城で浅野長勲と出兵関連の密談をおこなったうえで、御手洗にむかった。

 藩の世子が認めた上だし、瀬戸内の離島ならば、警戒の目など無きにひとしい。


『四藩軍事同盟』と『新政府綱領八策』は御手洗で結ばれた。

 わたしは7年まえに、雑誌連載『龍馬と瀬戸内海』および、東京新聞「2010年10月31日(こちらは特報部)で、見開き2面をつかって、それを発表した。


                      東京新聞「2010年10月31日『こちらは特報部』


 御手洗という密貿易港が、世のなかに出たことで、反響が大きかった。片や、学者からはつよい反論が出た。
坂本龍馬は10月末日に福井藩の由利公正(謹慎中)に会っていた。そして、11月5日には、福井藩の中根雪江(松平春嶽)宛ての手紙を、土佐藩・京都藩邸にとどけている。11月3日に、芸州広島藩・御手洗にいくのは無理である』 物理的に不可能だと言い、わたしにつよい批判をむけてきた。

 この11月5日が曲者だった。
 龍馬から中根雪江宛ての手紙はあるのか、と学者に問い合わせても、物証は確認できないが、伝承として確かなものはある、という。
 その上で、「新谷は90歳になってモウロクしている」と年齢のせいで切り捨てた。

 桂小五郎の御手洗参加は、「木戸孝允公逸話」からほぼ裏がとれた。


 龍馬の裏もとりたかった。実名をだして申し訳ないが、高知・坂本龍馬記念館になんどか問合せしても、「龍馬が、瀬戸内の御手洗に立ち寄った記録は確認できていません」と複数の学芸員が応えた。
「確認できていないのは、行っていないことですか」
「手紙や記録、ほかの文献からも、確認ができていません」
 
 未確認。それは龍馬=御手洗の否定なのか。それすらも不明瞭だった。


 御手洗は薩摩藩の密貿易港だった。鹿児島がわの文献にはあまり残っていない機密の島だ。しかし、同島には密貿易の資料、伝承はごろごろ転がっている。

 島津家老・小松帯刀と龍馬はふかい関係にあるから、手紙にはいっさい機密・御手洗を記さなかったのだろう。手紙が幕府の隠密に奪われる恐れがあるので、重大なことは書かない。(密使を使う)

 当時、この海域は御手洗航路と呼ばれていた。(海図でも確認できる)。御手洗には米相場もあるほどで、西日本の経済の要だった。
 龍馬自身が船乗りなのに、御手洗に立ち寄らないわけがない。


 ここは調べどころだと思い、取材したり、文献をさぐったりしていると、鳥取藩の河田左久馬が「いろは丸事件を起こした龍馬が、長崎にむかう途中で、御手洗に上陸していた。ばったり出会った」と日記に残っていると判明した。

「やっぱり、龍馬は御手洗に来ているじゃないか」
 と思ったが、同館には教える気すらならなかった。


『二十歳の炎』の執筆に入った。
 学者たちが「新谷道太郎は大ぼら吹きで、自己自慢で、60年後に語った内容は矛盾に満ちている」と聞かされた。どこまで信じるべきか。龍馬は11月5日に京都にいたと主張することばが耳にひびく。


 竹原市の小学生時代に、新谷道太郎の講演を聞いた、という人物に巡り合えた。その方は、池田徳太郎研究者だった。
「新谷さんの目は薄かったが、全体としてしゃきっとして声が大きかったですよ。壇上でマナ卵を一つのんで、この滋養がたいせつだと言った。話の内容はおぼえていませんが、年寄なのに、頭がしっかりしていた、という記憶は残っています」
 と聞かされた。

 私は「二十歳の炎」でふたたび新谷道太郎の資料を採用した。

 「二十歳の炎」は発刊してから、すでに4刷になった。

 中国新聞がことし正月特集号で、(2018年)1月3日『オピニオンで』、岩崎誠論説副主幹が「大政奉還150年と近代日本」と称した中で、「二十歳の炎」関連を大きく取り扱ってくれた。

 わたしは講演で「4藩軍事同盟」を語る。内心、龍馬が11月5日に京都で福井藩・中江雪江(松平春嶽)宛に手紙を書いていたと、学者は言うし、龍馬が御手洗に物理的に来れていなかった、それが事実だったら、小説とはいえ嫌だな、とずっと思っていた。

 こんかいメディアが一斉に、慶応3年11月10日の龍馬の手紙を映像や写真で報じた。大政奉還150年だからと、都合よく出てきたけれど、
「学者たちはその手紙の存在を知っていたのだから、もっと早くに公表してほしかったな」
 とつぶやいた。
 11月5日でなく、11月10日がどれほど、重い存在だったか……。


 龍馬の手紙の内容は、『新政府が成立した。由利公正(当時・謹慎)だが、1日も早く出仕してほしい。由利が1日遅れれば、ご会計(財政)が1日先になる』、と綴られているようだ。


 『二十歳の炎』においても、ほぼ同じ内容で、由利公正はふれている。

 新谷道太郎が、なぜ昭和になって語ったのか。慶応3年11月3日から7日まで、4藩のメンバーが御手洗の同家(実家)で会合し、軍事同盟を結んだという。そして、

「この密議は60年間黙っていよう。しゃべれば暗殺の危険が及ぶぞ」
 龍馬が全員に約束させた。

「なぜ、60年間も待つのか」
 新谷道太郎が訊いた。

「これから60年経てば、みな死んでしまう。いかに佐幕派のものでも、その子孫までが怒りを継いで殺しに来ないだろう。この参加者のなかで、60年生きたものだけが、この御手洗の4藩密議から歴史が大きく動いた、と語るとよい。そなたが一番若い、山奥に逃げて長生きしてくれ」

 道太郎は60年間、それを忠実に守り、島根の山奥に隠遁し、そして昭和11年6月に世に発表したものだ。

 龍馬は11月8日の早朝に御手洗を発ち、京都に入っている。同月10日にはこんかい発見された龍馬の手紙、そして広島藩の安保 清康(あぼ きよやす)に手紙を書いている。
 安保とは、近江屋(おうみや)で坂本龍馬・中岡慎太郎が血の海になっていた、最初の発見者である。


 11月8日早朝に御手洗で解散したメンバーは、まさに7日後に60年間黙っておれよ、と言った龍馬自身が死んだのだから、永久に口を塞いでしまった。
 だから、慶応3年の大政奉還(10月14日)~王政復古(12/9)まで、明治初年からしても、歴史の永久の空白だった。学者も、作家も、だれもが龍馬暗殺しか書けなかったのだ。


 ことしは大政奉還から150年、来年は明治維新から150年、さらには来年のNHK大河ドラマが「西郷隆盛」となると、今後とも新事実、通説をひっくり返す史実も出てくるだろう。

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