A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】西郷隆盛&米軍司令長官、戦いのちがい=横浜・三溪園

 横須賀~横浜の幕末取材に出かけた。私にとって、約半世紀ぶりで三溪園(さんけいえん)に立ち寄ってみた。

 根岸線関内駅から、ややあてずっぽうで、定期バスに乗った。
 終点です、と運転手にいわれた。

「三溪園はどこですか?」
「この路線はちがいますよ。(バス停)3つほどもどるか、ここから歩かれても、距離はおなじくらいかな?」
 私は、見知らぬ街を、適当な勘で歩くのが好きだ。ちょっとした登山感覚、というか地理勘を磨けるし、おもわぬ発見があるものだ。
「方角はどっちですか」
 それさえわかれば、自分自身を納得できる。
「きっと、こっちの方角でしょう。くわしい道のりはわかりませんが」

 運転手とのやり取りを聞いていた乗客がいた。60歳半ばくらいの男性だった。バスを降りると、すぐに声をかけられた。
「三溪園なら、この道をまっすぐ行って、つきあたったT字の道路を左にいくと、早いですよ」
 という親切心に感謝し、道のりを再確認してから、あるきはじめた。


 横浜には坂道が多く、階段状の道もある。曲がりくねっている。T字の道路は見あたらない。行き止まりもある。やや複雑怪奇になってきた。

「どうも怪しいな。あの男性のおしえてくれた地形とは、ちがうな」
 私は、自分の勘にギブアップした。スマホをとり出すと、グーグル・マップで現在地を確認した。周囲は、複雑な網の目で、とてつもない場所だった

 先刻のバスの終点から、地図から判断すると、『T字の道路を左にいく』というかんたんな話しではない。
「堂どうとした物言いだったから、信じてしまった。どうも認知症のひとだったらしい」
 それを見ぬけなかった私自身にもうんざりした。
 
 もはや地理勘はあきらめて、グーグル・マップで約20分ほど、歩いた。

 三溪園(さんけいえん)では、園内ガイドの案内を乞うて、園内を一周した。(通常は半周らしい)。幕末の造園かとおもっていたが、日露戦争のころ、貿易商が外国人の接客用に造ったという。

 作家の好奇心から、なにか知識の吸収になる、とおもいながら説明を一通り聞いていた。

 ガイドの話しが、太平洋戦争の末期の横浜空襲に逸(そ)れていった。

「米軍は、じつに正確に爆撃しています。その証拠に、根岸線(ねぎしせん)は一発の爆弾も落とさず、桜木町駅も、鶴見駅も、しっかり残っていましたから」

「えっ、ほんとうですか。米軍は無差別攻撃で、焼夷弾(しょういだん)を落としていたとばかり、信じて疑わなかったけれど……」

「ちがいますよ。米国は終戦まえから、日本の鉄道をつかうつもりで、狭軌(きょうき)のジーゼルカーとか、貨車とか、数千台も製造していたんです。マッカーサーが厚木基地におりたった後、それらが運ばれてきた。米国は太平洋戦争の終了後をしっかり考えていたんですよ」
 
「私は、広島から上京してきたばかりのころ、なんどか横浜に遊びにきました。たしかに戦前仕様の桜木町駅でした。大都会に、未だ、こんな古めかしい駅かとおどろいたものです」

「日本人の戦争は、勝ことが目的でしょう。終戦後に、どんな占領地にするか、施政(しせい)をどうするか。ほとんど考えていない」
「たしかに」
「戦後は、横浜の焼け野原のなかを、米軍の貨車がずいぶん行き来していました。横浜港に荷揚げして、全国に運んでいたんですよ」


「戊辰(ぼしん)戦争の日本人の戦いと、ずいぶんちがいますね」

 歴史に関心が薄かったころ、彰義隊(しょうぎたい)とは江戸の不法者集団だった。それらを上野にあつめた官軍が、アームストロング砲で1日で処罰した。新政府軍の武勇としておしえられてきた。

 長い間、鵜(う)のみにしていた。

 いまの私は、幕末史と正面から向かい合うようになった。
 
 慶喜元将軍が上野・寛永寺(かんえいじ)に閉じこもって、みずから謹慎(きんしん)した。それはなぜか。旧幕府軍が本気になって戦えば、英仏の戦争介入になる。日本が分断されるといい、慶喜は戦争を回避したのだ。


 慶喜は水戸家から一ツ橋家に入った。その一橋家の家臣ら渋沢成一郎、天野八郎、それに幕臣(旗本)らが、彰義隊を結成した。その目的は、慶喜の身辺をまもるためだった。

 かれら一ツ橋家は(現在の)霞が関の高級官吏たちである。通商交渉の外交、財政・金融などの大蔵、法律知識の豊富な法務など、貴重な人材だった。
 洋学(外国語)が堪能(たんのう)である。


 刀は差しているが行政官だった。戦う集団ではない。薩長土の下級藩士が、それら有能な人材だと知りながら、無差別に殺してしまったのだ。
「1日で退治した」
 と官軍の強さを誇示(こじ)していた。


 西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城と美談になっている。そればかりが強調されている。しかし、かれらは戊辰戦争後など、まったく考えていない。

 現代に置きかえれば、鹿児島、山口、高知の市役所の課長、係長、一般職の連中が、霞が関のキャリア(上級)官僚と知っていながら、抹殺(まっさつ)してしまったのだ。

 そこには戊辰戦争後の思慮(しりょ)や施策など、まったくなかった。


 明治5年には日米通商条約からはじまり、イギリス、フランス、オランダ、ドイツ、ロシアなど次つぎに条約改正の期限がきた。
 しかし、元下級藩士の新政府の外務省役人らは、横文字が読めない。しゃべれない。外交交渉ができる人材がいない。そこで、各国に条約改定の延期をもうしでる。

 あげくの果てには、20年以上もかかってしまった。(関税自主権の完全回復は明治44年)。この間、学校では、江戸幕府が結んだ「不平等条約だ」とおしえてきた。
 それがいまだに続いている。

 米軍の根岸線の攻撃回避は、横浜だけではなかった。東京大空襲においても、鉄道路線は攻撃されていない。東京は昭和19年(1944年)11月から106回もの空襲があった。この間、東京駅はいちども直撃弾をうけていないのだ。火災の類焼ていどだった。


 昭和20年3月10日~11日に、大規模な東京大空襲があった。翌12日、大学で期末試験があった。総武線が動いていたので助かったと、私のエッセイ教室の受講生が書きのこしている。

 その方はお亡くなりになっているが、東京帝国大学・工学部の学生だったから、学徒動員がなかった。

 そのエッセイを読んだとき、戦時ちゅうとはいえ、廃墟(はいきょ)からの回復力はすごいものだな、これが日本人の底力かとおもっていた。

 それはまったく違っていた。大本営は、おおかた米軍の爆弾投下の傾向から、手掘りの粗末な防空壕(ぼうくうごう)よりも、鉄道の線路または駅舎のほうが、より安全な避難方法だと知っていたはずだ。

 それを全国民におしえていれば、地方都市の爆撃にたいしても、民間人はまちがいなく数十万人は助かっただろう。なぜ、おしえなかったのか。
 戦争といえども、人間のいのちはたいせつだ。


 現代の教育でも、それら事実をおしえてくれない。

 西郷隆盛は江戸騒擾(そうじょう:強奪、殺りく、放火)などで鳥羽伏見の戦いをひきおこし、そこから戊辰戦争を誘導した。大村益次郎は彰義隊を壊滅させた。
 かれらはしょせん地方公務員の下級藩士にすぎなかった。戦争の目的とはなにか。どんな新国家をつくるかなど考えていない。

 米軍太平洋司令長官とは、あまりにも知的な差を感じさせられた。

 若者たちが、安心して結婚し、豊な生活を送る社会を維持する。日本人はひとたび戦争になれば、玉砕(きょくさい:全員死ぬ)まで考えてしまう民族だ。
 近代史の戊辰戦争、現代史の太平洋戦争、これら歴史を知ったうえで、平和な国家として、戦争放棄しておかないといけない。

 三溪園では、その想いをつよくさせられた。

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