【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (5)
私は宮古島の取材で、学芸員に民族的な質問を向けてみた。
「私たちは琉球人です。日本民族とはちがいます」
と躊躇(ちゅうちょ)なく言い切った。
「それは、島民の全員の認識ですか?」
「そうです。宮古島、石垣島など先島(さきしま)諸島のひとは、ほぼ日本人ではないとおもっているでしょう」
島の人たちをみるかぎり、顔立ちは違う。やや小柄な体躯だ。そのうえ、宮古島は立地的にも、中国大陸には近く、那覇にいく距離とじくらい。
考古学的にも、先島諸島は縄文文化(北の日本文化)の影響がみられず、台湾に類似した土器が多く見つかっているという。
たしかに、小さな帆舟時代には、黒潮に影響されて海上交通のもどり船は逆流で難儀だ。難破の危険度が高い。
「沖縄本島とは、これまた文化圏がちがうのですよ」
学芸員の説明には、わたしは驚かされた。
取材した当日の宮古島は、台風の直撃だった。それが少し止んできた。宮古島と小島を渡す長い橋が、暴風警報の解除と渡れた。
『海外派兵とはなにか』
橋を渡りながら、あれこれ考えてみた。
外国へと大量の兵士や軍物資を往復で、くり返し、遠距離輸送する。そこには運輸業が膨大な利益を得る。政商が儲かる構造がある。つまり、海外派兵で儲かる産業があるのだ。
西郷従道の独断の強引な台湾出兵で、岩崎弥太郎の「三菱商会」が台湾出兵の頃から飛躍的に伸びた。
つけ加えるならば、兄の西郷隆盛が起こした明治10年の西南戦争(双方の死者1万4119人)では、三菱商会は軍用船を独占し、大きく儲けた。
この戦争のさなか、新しい汽船を購入する目的で、新政府から大幅な補助金を受けている。戦争終了後には、これらの船がすべて三菱商会に下附されている。
当時の日本政府は、台湾出兵の政治的な解決が成されたと信じていた。
下級藩士たちがつくった明治新政府は、德川幕府時代の外交をあれこれ難癖をつける。しかし、巨大大国の西欧諸国と修好条約、通商条約を結んできた。
切れ者といわれた大久保利通すら、下級藩士で、調停工作は上手くても、外交は未熟で拙劣だった。清国に乗り込んでも、フランス人、イギリス人外交官の手を借りても、宮古島遭難事件と台湾出兵は、琉球問題の外交上の最終決着がつかいていなかったのだ。
その大きな理由は、日本と清国の直接交渉の際、肝心な琉球王国の要人がまったく加わっていなかったのだ。
アメリカ艦隊のペリー提督すらも、琉球を独立国として流米和親条約を結んでいる(1854年)。 琉球国は江戸時代に薩摩藩が侵略した。古来から、『琉球人の島、琉球王国の島』で、日本人の島ではなかった、民族も違う、という認識だった。
大久保利通はそれがなかった。琉球を独立国として認めていない。外交交渉で、これが大きな落とし穴となった。後世にまでも、琉球問題、沖縄問題へと後を引いていく結果にもなる。
まず明治8年(1875年)、明治政府は琉球にたいし清との冊封・朝貢関係の廃止を命令した。しかし琉球国は清との関係存続を主張した。つまり、日本合併の一本化に反対したのだ。と同時に、清国が琉球の朝貢禁止に抗議してきた。
明治12(1879)年、明治新政府はの琉球処分(琉球を日本領とするので、清国との断交をもとめる)に際しても、清国は反対した。
あらためて翌・明治13年に北京で、日清双方の交渉が行われた。
『交渉として』
① 日本政府から提案として、「宮古島列島、八重山列島(尖閣諸島を含む)」は清国領土とする。「沖縄本島、奄美諸島」は日本支配とする。
※日本は分割し、清国の領土として放棄する案をだしたのだ。(古来からの日本領土ではない、と認めたことになる)
② 清国政府からの提案は、2島の領有は望んでいない、従来の冊封関係を維持していくために、2島は日本から琉球国へ返還する。そして、琉球王国を再興させる。
③ 交渉に加わらない琉球人から、日本案の分島にたいする反対運動が起きた。
①~②で、日清は仮調印寸までいった。だが、清国側から正式な調印を拒絶してきた。
最終的に決着したのは日清戦争の後だった。『琉球は日本領土とする』。戦争によって、日本の所有権は一応の決着がついたのだ。むろん、琉球人の頭越しの決着だった。
地方の下級藩士がいきなり外務大臣、内務大臣になった。拙劣な外交が、台湾出兵、日清戦争、そこから三国干渉の問題が起きて、日露戦争、ひたすら戦争の道へと突っ走る。原爆投下まで。
これも戊辰戦争で、徳川時代の実務に長けた有能な外交官たち(戦争無くして、欧米の巨大大国と修好条約、通商条約を取り交わした旗本)を殺してしまったことにも起因している。