A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (4)

 明治7年4月5日に一度は、台湾征討は西郷従道(じゅうどう・隆盛の弟)に命令が下った。鹿児島県の士族は競って駆けつけた。翌日、谷千城と赤松則良の両将軍に参軍を命じた。
 西郷従道は3隻の軍艦で、兵員3658人を従えて、鹿児島から長崎へとむかった。まずは軍事物資の補給である。鹿児島の将兵は先勝気分だった。

 このとき、米国大使と英国大使パークスから、台湾征討にクレーム(異議あり)が出た。米英が清国に味方すれば、先行きが見えなくなる。政府内部で、大もめになった。木戸孝允たちはもともと台湾への出兵には反対だ。結果として、政府は台湾征討の中止を決めた。

 政府は、大久保利通を長崎に派遣し、『西郷従道に対して、台湾征討中止、出航停止』を言い伝えるように、と命じた。
 ところが、鹿児島出身の大久保は、ここで尻込みしてしまった。長崎で出航を止めようものなら、鹿児島士族の大反発を食らい、わが命が危ない。制止は不可能と思ったのだろう。
 大久保がもたもたとしている間に、西郷従道が明治7年5月2日に、長崎港から出港してしまったのだ。


 西郷軍は台湾に上陸した。そして、琉球遭難者54人を殺した部族の探索をはじめた。やがて事件発生の「牡丹社(ぼたんしゃ)」という地区の蕃社に絞り込んでいく。そして、総攻撃をかけて、集落を次つぎと焼き払った。蕃人たちは山奥に逃げ込んだ。
 日本軍は、宮古島難民事件が発生した牡丹社を制圧し、そのまま占領をつづけた。

 ただ、西郷軍の戦死者は12人であったが、占領地の環境は劣悪で、凱旋の途に就く7か月間に、マラリア病で561人の死者を出した。

 明治政府は、西郷軍が強引に出兵したことを清国に通達していなかった。アヘン戦争後に、清国に権益を持つイギリスにも知らせていなかった。外交的には失策であった。
 清国の実力者の李鴻章、イギリスの駐日大使パークスは、日本の軍事行動にたいして激しく反発した。
 台湾出兵の事件処理として、日本政府は内務卿の切れ者の大久保利通を全権弁理大臣として北京に向かわせた。9月から清国政府と交渉した。
「台湾蕃地は、先に外務卿の副島種臣が交渉したときに、清国の領土ではないと言ったではないか」
 大久保は主張するが、
「もともと台湾は古来の中国領土である」
 李鴻章が反発する。
 双方が決裂寸前で、日清の双方が戦争でも起こりかねない雰囲気になってきた。北京駐在の英国大使・エドワードが調停を申し出てきた。

①台湾は清国の領土と認める
②清国は遭難民に対する撫恤金(見舞金)10万両(テール)を払う。
③日本軍が台湾に道路をつくり、営舎を建てた40万両を払う。
④1874年12月20日までに征討軍を撤退させる。
 
 清国は、日本軍の台湾出兵の理由が、宮古島難民の義挙と承認した。つまり、江戸時代に薩摩藩が侵略した琉球の民が、いまや日本人だと清国が認めたのだと、鹿児島出身の大久保利通はそう認識したのだ。
 琉球の事務はすべて外務省の管轄であった。琉球国の日本帰属が国際的に承認されるかたちとなったといい、大久保は内務省の管轄に移させた。

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