A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (3)

 日本国内では、このごろ板垣退助、後藤象二郎、江藤新平などを中心として「朝鮮討つべし」という征韓論が巻き上がっていた。
 鎖国政策の朝鮮が、明治天皇の国書の受理を拒否した。その国書には「皇」、「勅」という文字があり、それは清皇帝しか使えないものだ、こんな国書は朝鮮に対して無礼だと言い、突き返したのだ。
 江戸時代を通して、朝鮮は対馬藩しか交易をしていない。新政府とは交易しないという。日本政府が幾度となく交渉をくりかえしても、国書を突き返される。

「明治天皇の国書は、欧米の国は快く受け取っておる。隣国の朝鮮がひじ鉄をくらわすとはけしからん。朝鮮を征討するべし」
 それはかつてペリー提督がわが国にみせた、武力威圧的な開国要求を真似たものだった。日本中がその方向に流れていた。征韓論が閣議決定された。
 
 明治6年9月13日、岩倉使節団が欧米9か国から帰国すると、征韓論に反対を唱えた。西郷たち征韓論派は、政府の中心から排除された。

 徳川幕府を倒した主力は薩摩藩なのに、新政府は冷遇している。薩摩の下級藩士は爆発寸前にあった。下級武士の不満のエネルギーを台湾征伐に使おうと、薩摩出身の西郷隆盛も、大久保利通も、大山綱良の出兵提案にたいして賛成、推進派だった。
「ここは、清国に琉球住民は日本に帰属すると意思表示する好機だ」
 日本が清に対して強気の態度を見せる。
 宮古島の台湾遭難事件が、征韓論から台湾出兵に目を逸らす好機ととらえたのだ。

 明治政府は、まず外交交渉に及び、副島種臣を清に派遣した。
 清国側は、「琉球は清国の属国であり、琉球人が害を受けたか、否かを問わず、日本には全然関係ない事件である」と突き放した。
「それでは清国は、台湾の生蕃(せいばん、中央政府に従わない原住人)をしっかり統治しているのか」
 副島種臣が問うた。
「生蕃は化外(国家統治の及ばない地)の民である」
「化外の民とは、つまり統治できていない民という意味だ。わが国は兵を派遣して、害を及ぼす台湾の生蕃を討つ。そのときになって異議を唱えないように」
 副島は揚げ足を取ったのだ。

 副島は帰国して、台湾征討の必要性を強調した。薩摩藩の下級士族などは狂喜した。

 しかし、徹底して反対したのが木戸孝允だった。日本国内は経済的も疲弊している。
「国力増強、富国と近代化が優先だ。戦争などすれば、日本は疲弊してしまう」
 それでなくとも、明治の御一新で期待した人民の不平が高まり、士族の乱、農民一揆が多発している。戦争などしている場合ではない。木戸孝允はかたくなに台湾出兵を反対して下野してしまう。

 明治7年、閣議決定で台湾征討が決定した。明治天皇は出兵の勅許を出した。そして、西郷従道にたいして台湾征伐の命令が下った。

 ところが、台湾征伐中止の事態が起きるのだ。
                              
                                     【つづく】

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