A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (2)

 明治時代~昭和半ばまで、海外侵略の軍事国家となった。日本の為政者たちは、「戦争」という表現を回避し、事変とか、征討とか、出兵とか、自国民の目をごまかす言いまわしが得意だ。その実、やましい侵略だから、事故・出来事のような語彙でカムフラージュしてしまう。

 私たちは、歴史年表で明治7年の『台湾征伐』と教わるていどで、経緯などほとんど知らない。ましてなぜ、他国を征伐する必要があったのか。

 この『台湾征伐』には3つの侵略目的があった。
① 明治新政府には、一つは独立国の琉球国を日本に組み入れる。
②「台湾」を植民地にする。
③ 国内的には、戊辰戦争の原動力になった下級藩士らが、職も、身分も奪われた新政府の冷遇にたいして反乱を起こしはじめたから、台湾征討で、その不満を逸(そ)らすためである。


 琉球国とはどんな国であったのか。歴史をさかのぼってみた。

 文保元(1317)年には、宮古島の人が中国温州に漂着(ひょうちゃく)と記録されている。このころから「蜜牙古(みやこ)」と歴史書に現れてくる。
 1365年には、与那覇原軍が宮古全島を統一した。豊見親(とぅゆみゃ)時代となった。
 
 沖縄本島に琉球王国ができたのは、14世紀から15世紀だった。この琉球王国が武力で、先島諸島を攻めてきた。結果として、宮古群島と八重山群島が、琉球王国の支配下に入った。16世紀である。

 17世紀に入った途端に、1609年3月、薩摩藩が軍船100余隻、兵3000余を投入して琉球全土を侵略してきたのだ。わずか一週間で、琉球王府を屈服させた。

琉球は清国の属国でもあり、薩摩藩の植民地であった。

 琉球王朝は、「清王朝」を宗主国として、君臣関係の冊封(さくほう)あった。わかりやすくいえば、琉球の産物を貢物として清の国王に献上し、「臣」(属国)となっていた。
 片や、17世紀に薩摩藩が侵略した殖民地でもあった。沖縄本島の那覇には、れっきとした琉球政府があり、薩摩藩はそれを認めながらも、過酷な税で搾取していたのだ。

 薩摩藩の侵略の狙いはなにか。それは琉球・清国貿易に目をつけたもので、その「交易」利益を薩摩に貢がせるものだった。片や、領土権、施政権は琉球王府にあり、独立国家として存続させた。

 ここに複雑な問題が残った。
 宗主国の清王朝からみれば、琉球国府は存在しており、君臣関係の冊封(さくほう)があり、支配下にある、という考えだ。

 那覇の琉球王府は、清王朝と薩摩藩に、二重に貢ぐことになった。自分たちの負担を軽減するために、1637年から宮古・八重山に『在番』が常駐させて、人頭税を課した。
 15歳から50歳まで(数え年)の男女にたいして、頭割で村ごとに連帯責任による税を課した。その平均税率は8公2民であり、世界でもっも重い過酷な税だった。
 土地は硬く粘土質で、石ころの痩せており、肥料も買えず、毎日が重労働だった。栄養失調と体力消耗で過酷な使い捨ての命だった。

 人頭税反対の一揆も起きたが、弾圧されてしまった。先島諸島のかれらは、毎年、帆船で那覇に税を運んでいた。(明治36(1903年)に廃止)。

 ペリー提督が浦賀に入港し、翌年に「日米和親条約」を結んだ。同じ(1864)年に、同提督は琉球国政府と交渉し、『米琉和親条約』を結んだ。欧米から見れば、琉球は国際的には独立国だった。これは歴史的事実である。
「植民地になったからと言い、国家が消えたわけではない」
 ここらは現代でも、勘違いしているひとが実に多い。


 明治4(1871)年9月に、明治新政府は清の間で、「日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)」を結んだ。双方が対等な立場で結んだ条約だった。

 ところが翌年、明治5(1872)年9月に、明治新政府が、琉球国(尚泰王・しょう たいおう、19代最後の琉球王)を琉球藩として、日本に日本の版図(はんと。勢力範囲)に組み込み、琉球藩とし、尚泰王は藩主となった。
 怒ったのは清国である。日清の双方はここから対立がはじまった。

 このときに、宮古島の台湾遭難事件が起きた。同年10月18日、宮古島の『頭』(郡長・島のトップ)仲宗根玄安ら、主従が那覇に人頭税(年貢)を納めた帰り船(144石積み船)4隻が、嵐に遭遇し、台湾に漂着したのだ。
 台湾の原住民(パイワン族、クスクス族)によって、54人が殺害された。

 鹿児島県知事の大山綱良が、明治政府へ提出した「上陳書付属書類」には、生き残った者の証言から、
「殺した人の肉を食うという説がある。また、脳を取りだして薬用にする、という説がある」
 と報告がなされた。
「琉球藩の日本国民だ。国民に害を及ぼしたものを問罪(罪を問いただす)する」
 大山綱良が出兵を明治新政府に要請した。

 琉球国を琉球藩にした直後だ。当然ながら、琉球は日本人ではない、と清国は猛烈に明治新政府に抗議する。

【つづく】

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