A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

【近代史革命】 戦争国家へと折れ曲がる = 台湾出兵 (1)

 私の歴史的なテーマは、徳川家が政権をもった江戸幕府が260年間は戦争しなかったのに、明治政府になって10年に一度戦争する国家になった。なぜか。政治・思想、事件を含めて、それらを深く追いもとめるものだ。

 江戸時代に、外国と戦争したのは薩英戦争(薩摩藩)、下関戦争(長州藩)の2回だけである。この薩長が明治新政府の指導権をとり、戦争国家をつくったと言っても、過言ではない。


 明治時代の最初の海外侵略戦争が、「台湾出兵」である。宮古島の琉球人が、台湾に漂着し、54人が殺害された事件がある。ここから端が発せられている。

 台湾出兵はたんに日本と台湾の関係だけでなく、琉球問題が深く絡んでくる。「琉球人による琉球政府」が、日本に組み入れられて沖縄県と称された。ペリー提督すら、独立国と見なし、米琉和親条約を結んでいる。
 1945年の太平洋戦争の終結の後、米軍はアメリカに施政権を持った。琉球民族は、日本民族と違う、というのも理由の一つだった。

 平成の現在の沖縄問題も根っこのところで、この台湾出兵を直結している。ここらも歴史的に理解しておかないと、現在の米軍基地の移転問題も上滑りになってしまう。

 台湾出兵関連資料の入手や取材は、現地・宮古島にいかないと実態がわからないので、9/25日から4日間の予定で宮古島に入った。

 ちょうど台風が接近し、猛烈な嵐となった。最大瞬間風速40㍍を実体験した。と同時に、明治4(1871)年に、年貢船が台風で遭難した、という情況が肌で感じ取ることができた。

 明治4(1871)年10月18日に、那覇を出港して宮古島、八重島にむかう4隻の船があった。年貢を納めた帰り船である。追い風がつづかず、慶良間島の湾内で数日間、止まっていた。そして、同月29日に出帆した。

 翌11月1日、北北西の暴風雨に遭ってしまった。猛烈な風が吹き、海上は大しけで、4隻の船は航行の自由を失った。そのうちの1隻はかろうじて宮古島に帰着した。もう1隻は完全に消息を絶った。

 残る2隻は海上で積荷を捨て、舵と帆柱も切って漂流した。当時の難破の処方の一つである。

 11月12日、2隻が台湾の南西部にかろうじで漂着したのである。この時点で、琉球人は69人にいた。荒波と岩礁で、本船が破壊された。脱出するうち、3人が溺死した。

 生存者の66人が、不遇にも、台湾の現地人に襲われた。衣類を盗られたうえ、首を刎(は)ねられた。彼らは野蛮な風習で、刎ねた首の数で、部族の力を見せる習慣があった。漂着できた琉球人の計54人が殺害されたのである。

 それでも、生存者はかろうじて12人いた。翌1872年7月12日に、清国・福州を経由し、那覇に帰ってきた。
 この事件が鹿児島県から、東京の外務省に「台湾遭難事件」として報告された。県令(:県知事)の大山綱良が問罪(責任追及)で、軍隊を台湾に派遣したいと添えていた。

 先んじること戊辰戦争で、奥州越同盟の会津藩・仙台藩が、新政府軍と熾烈な戦いに及んだ。この大山は、会津戦争の発端となった人物の一人である。つまり、戦争発端の前歴が、この薩摩人にあったのだ。

                          【つづく】

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