A035-歴史の旅・真実とロマンをもとめて

鳥居耀蔵(ようぞう)のワナにはまった天草の豪商=石本平兵衛

 2016年7月22日は天草下島一周のさなか、まさか鳥居耀蔵の毒牙にかかった人物と出会うとは思いもよらなかった。
 私は、幕末に開国させた『阿部正弘』を書くために各地を取材している。すでに、4-5の歳月をかけている。むろん、そればかりに時間を費やしているわけではないけれど。

 狙いは、阿部正弘は戦争せずに開国したけれど、もし鎖国にこだわり、西洋列強を武力で排除する策に出たならば、どうなっていたか。まちがいなく日本列島は戦禍で、国土を乗っ取られる。
 しかし、後世の評価は、阿部正弘は西欧列強に蹂躙(じゅうりん)された、ひ弱な政治家だと見なしている。むろん、明治政府のねつ造だけれど。

 阿部は、德川政権下の有能な人材を惜しみなく大胆に登用した。その知恵を絞り、きわめて重大な局面を救った、歴史上まれなるり有能な政治家だった。
「西洋には武力でなく、優秀な人材で対抗する」
 誇大に阿部正弘を持ちあげる気はないが、「元寇を撃退した北条時宗と同様に、阿部は日本を救った」という見方には賛成している。それを小説で、表現したい。


 こんかいの取材中に、天草の豪商・石本平兵衛を知った。かれは長崎の海外貿易で、巨大な経済力を持つにいたり、大名貸しはつねに100万両を越えるほどにまでなった。
 九州各地の財政顧問の地位にまで、石本は登りつめている。

 ところが、高島秋帆(しゅうはん)事件に連座し、石本は江戸に送られていた。そして、天保14(1843)年、57歳で獄中死している。


 老中・阿部正弘と、高島秋帆事件は無縁でない。私の関心は一気に高まった。これは、小説の素材のひとりになる人物だとも思った。なぜ、石本平兵衛は連座を問われたのか。


 まず高島秋帆事件とはなにか。

 中国大陸でアヘン戦争(1840~42年)が起きた。翌年、長崎会所(後の長崎税関)・調役頭取の高島秋帆が、『イギリス軍が清国に圧勝したのは大砲の差である。わが国も砲術の近代化と西洋化を図らなければならない』と意見書を長崎奉行に提出した。

 それが江戸に送られた。「目付」の鳥居耀蔵は、洋学が大嫌い人間だった。かれは精神主義で文武奨励で西欧列国に対峙できると言い、高島秋帆の意見をとるに足りないものだとした。

 しかし、数人の砲術家が、老中首座の水野忠邦に「高島の砲術を見分してみてはどうだろう」と進言した。そこで、天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国・徳丸原(板橋区)で、大砲の演習が行われた。
 演習見学は水野忠邦、各大名、さらに囲いの外では一般の群衆の見学も許されていた。


 わが国の砲弾は鉄製の球形が飛んでくるだけだ。しかし、高島の造った大砲は洋式で、約800㍍先の目標に着弾すると、火薬が炸裂する。死傷者は数多く出る。

 徳丸原ま演習では、不発弾は一発もなかった。火薬技術の優秀さを物語っていた。

 当時の日本は、火縄銃だと誰もが知るところだ。
 秋帆の指揮の下で、97人のゲーベル銃が一斉射撃する。さらに、剣付ゲーベル銃で、銃隊を組んで突き進む。

 これら西洋式の兵器の威力は、幕閣たちをおどろかさせた。
「これでは、清国はイギリスに負けるはずだ」
 だれもがそう認識させられた。

 阿部正弘は後に、高島の砲術を賞賛し、「火技中興洋兵開基」(読み方は不明)という称号をあたえている。つまりは、「高島秋帆なる者は西洋式の砲術・洋兵法の開祖である」と認定したのである。

 老中首座・水野忠邦は、江川英龍への伝授を認めた。さらに、砲術の専門家として、幕府・諸大名の家臣に、自由に砲術の伝授を認めた。

 当時は、西洋の船が日本沿岸にきたら撃ち払う、という「異国船打払令」だった。相手が軍艦だったら、艦砲射撃で応戦される。とても太刀打ちができない。水野忠邦は、「異国船打払令」から「薪水給与令」に切りかえるのだった。


 高い評価を得た秋帆にたいして、おもしろくないのが、忠邦の腹心の鳥居耀蔵だった。
 鳥居はなんと「高島は外国と結託し、日本を攻撃する、謀叛を計画した」という、根も葉もない事件をでっち上げたのだ。親せき筋にあたる長崎奉行・伊沢政義に取調べを命じた。しかし、そんな疑いはない、と回答した。

 鳥居耀蔵の頭脳は良かったが、性格が良くなかった。かれは洋書を学ぶ者を儒学の反逆者とみなし、根絶やしにしようとしたり、陰険な手段で追い払ったりする人物だ。
 その上、執念深いから、「だったら、江戸で調べる」と、井沢長崎奉行に高島秋帆を逮捕させ、江戸送りにさせたのだ。

 石本平兵衛も、同事件の連座で、江戸送りになった。「オランダから輸入した大砲は、長崎貿易を仕切っていた石本平兵衛が、密貿易で購入した」と言い、讒訴(ざんそ)したのだろう。


 水野忠邦が天保の改革の失敗で、失脚すると、阿部正弘が27歳の若さで老中首座(内閣総理大臣)になった。
 阿部は、鳥居を片腕にしてきた水野忠邦の失政を糾弾し、さらに高島秋帆事件を再調査させたのだ。その結果、鳥居が仕組んだねつ造事件だと断定した。

 勘定奉行の座にいた鳥居を解任させたうえで、丸亀藩(現香川県)に軟禁した。(明治になるまで、20年間にわたり丸亀藩に軟禁されていた)。


 高島秋帆は軽罪に問われ中追放となり岡部藩(現埼玉県)に幽閉された。しかし、ペリー提督来航の折、高島は免罪になり、江川太郎左衛門の手付となった。阿部は翌年(1854)のペリー来航の間、諸藩に意見をもとめた。ほとんどが異国排斥を唱える攘夷論だった。


 高島秋帆は平和主義による開国「嘉永上書」を幕府に提出した。
「いま、外国と戦争してはなりません。交易は両国に利潤があります。外国は貿易を望んでいるのです。銀・銅で支払った通商で、医術などが進歩し、国益が増進します」
 阿部は高島の意見を尊重し、安政元(1854)年の日米和親条約の締結へと臨んだ。


 鳥居耀蔵は「蛮社の獄」などで、有能な人物を無実で獄に入れるなど、日本史のなかでも特筆される、悪辣(あくらつ)な人物の一人だろう。

 その罠にはまった、天草の豪商・石本平兵衛ははやくに獄中死した。石本家は断絶させられた。気の毒なかぎりだ。

 それが私の天草旅行で、最も心に残る切ない想いだった。

                                 【了】

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