元気100教室 エッセイ・オピニオン

単細胞の人 森田 多加子

 昼間の常磐線は、わりに空いている。

 三人がけの座席に座っていたが、さっきから向かいの席が気になって仕方がない。同じ三人がけの真ん中に、若い男性がいるが、右足を隣の人の前に投げ出しているのだ。
 私がとやかくいうことではないが、自分の座席の前に、人の足があるのは不愉快だろう。見ていると腹が立ってくる。しかし何も言えない。じくじくとした気持ちだった。

 落語家の立川談志師匠の話がある。車内で、乗車してきた老人を見かけて、前にすわっている中学生に、「譲ってあげたらどうだ」と言って中学生を立たせた。
 老人は当然のような顔で座った。感謝の一言もなかった。その時談志は、車内中に響き渡る、どすの効いた声で言ったという。
「悪かったなあ、坊や! おじさんが余計なことを言った。席を譲ってもらってありがとうの一つも言えねえくそじじいに席を譲らせちまった。すまねえ。今度からじじいがいても、金輪際席なんざあ譲るんじゃねえぞ!」
 車内の人たちは驚いただろう。私にも覚えがある。

 シルバーシートに座っていると、ちょうど顔の前に、やや大きめのトートバッグがあり、そこに『私は妊娠中です』と書いてあるカードがぶら下がっていた。
 はっとして見上げると、三十代くらいの女性が立っていた。私の隣には若い男性が座っている。替わってあげてほしいな、と思ったが、カードは私の真ん前だ。彼は気づいていないだろう。
 あと三十分も乗っていなければならないのだが、「替わりましょう」と、仕方なく立った。妊娠中という女性は、当然のようにだまって座った。
 機嫌の悪い顔は(早く気づいてよ)と言っているように見えた。腰の痛みを抱えた老女が、意を決して立ったのである。少しは感謝の意を表してもいいのではないかと、談志師匠と同じ思いになった。


 席を譲ろうとして大変な思いをしたことがある。眼科に行ったとき、待っている人が多くて椅子の数が足りない状態だった。
 私は座っていたが、妊婦らしき人が立っていた。
 腰をあげながら「ここへどうぞ」と言うと、その人はすぐ「結構です」と答えた。少々齢はとっているが、妊娠初期のつらさを考えると、まだ私の方が譲るべきだと思った。
「私は大丈夫ですからどうぞ。お腹に赤ちゃんがいるのでしょ?」
「居ません!」
 怒りを顔全体に表しながらのきつい声だった。その時になって、初めてとんでもない間違いをしてしまったことに気づいた。
「ごめんなさい」と謝ったが、その女性の怒りがおさまらない雰囲気は、ずっと続いていた。看護婦さんから名前を呼ばれるとほっとして、思わず診療室まで急ぎ足になった。


 そんな出来事を思い出しているとき、前の席で足を投げ出していた若い男性が立ち上がった。誰が見ているわけでもないが、私はどんな顔をすればいいのかわからないほど、うろたえてしまった。

 その男性は、義足だったのである。足を曲げることが出来なかったのだ。
 隣席の人は、とうに察していたのだろう。いや、もしかして男性は(すみなせん)と断っていたのかもしれない。またもや思い違いだ。恥ずかしかった。自分の単細胞を呪った。

 以前、杖を使用した時期があった。車中で目立たないように隅に立っていても、肩をポンポンとたたいて、座るように言ってもらった。感謝した。
 杖を捨ててからは、ほとんど声をかけられない。

 ひと目見て、高齢者、妊産婦、体の不自由な人など、わかればいいが、目には見えないハンディを抱えているのに、カードもぶら下げられない人がいると思う。
 見えるものには対応しやすいが、見えないものは、本人が申告しなければどうしようもない。
 ハンディがある人に席を譲るのは当然なことであって、お礼を言われることも期待してはいけないのだろう。
 しかし……、やっぱり「ありがとう」の一言は気持ちがいい。(譲ってよかった)と、単純にうれしい。
 譲るときも、譲られるときも、相手の気持ちをよく考えなければならないと、改めて思った。

       イラスト:Googleイラスト・フリーより
  

旅は道づれ  金田 絢子

 平成6年の「ポルトガルとスペインの古都を訪ねる12日間」のツアーは、たのしかった。メンバーが全員で九人きりなのもいい。その上、添乗員を含めて、いい人ばかりだった。

  かれこれ20数年前のポルトガルは、いにしえの面影がのこり、ひなびていて土の匂いがした。くずれかけた石の坂みちを若い男女が、すれちがいながら短いキスを交わした。すぐ上と下とに別れた、束の間のラブシーンは、カッコよかった。

 道ゆく大学生はみな、エリートの顔である。古い歴史をもつ、コインブラ大学のオレンジ色のやねが目に浮ぶ。


 コインブラから、中世以来の巡礼の聖地、サンチャゴ・デ・コンポステラへ向う。大聖堂の前には、白っぽい大きな地面がひろがり、老若男女が、列をなしていた。大勢なのに騒がしくない。私も何だか、しんとした気持ちになった。

 飛行機に1時間乗って、マドリード、パルマ・デ・マヨルカへ。

    地底湖にショパンホフマン聴きし日よ
    辛き水さえめぐしマヨルカ

 この詩歌がごく自然に創作できた。
                                     
 バルセロナ郊外のモンセラート(のこぎり山)観光もよかった。ふもとの僧院から賛美歌が流れ、崖には、おだまきが咲いていた。

 旅のおしまいは、地中海に面する港町、バルセロナである。バルセロナは、ガウディ・オンパレードで飽きてしまった。私だけの感想だろうが、グエル公園なんかちっともいいと思わなかった。

 いよいよスペインともお別れの一夜、「サヨナラ・ディナー」の席で、夫とツアー仲間のヒロイン、中里さんがカンツォーネをうたった。

 中里さんは、仲良しの吉村夫妻と三人で、仙台からやってきていた。
 われら九人の年齢は、私が上から五番目、中里さんは下から二番目といったところ。子供はない。ご主人と店をやっている。何の店かは聞きおとしたが、吉村さんの奥さんが私に、
「(お店は)この人でもってるのよ」
 と中里さんを指して言った。


 日本に帰ってから、旅行中の写真を送った。中里さんからの返事は、彼女らしさにあふれていた。行をはみだすほどの颯爽とした文字で、
「杜の都仙台の五月は緑いっぱいで、とても気持ちのいい毎日です。昨晩も吉村洋子さんと、今度は何処にしようかと、モチロン、ビールを飲みながら、旅の話題でもり上がりました。(中略)ご立派なご主人とでうらやましかったです。お元気で」
 私の方こそ、輝いている中里さんがうらやましかった。

 バスの運転手さんとも、すぐ仲良しになる、中里さんの人柄は天性のものにちがいない。年上の私の他愛ない打ち明け話も「ふん、ふん」と膝をのりだして聞いてくれる。明るくて、歌がうまくてあねご肌の、こんな人に生まれたかったとつくづく思う。

 3.11のとき、仙台に電話をした。停電などはあったが、大事には至らなかったと知り、ほっとした。

 吉村さんの年賀状にはいつも「仙台に遊びにきて下さい」と書いてある。長の年月、夫と二人で「仙台にいきたいね」と話していたのに。果たせないうちに二年半前、夫にガンが見つかった。それと前後して吉村さんは亡くなった。

 先日、久しぶりにアルバムをひらいた。おひるどき、サンチャゴのレストランで、吉村さんが撮ってくれた一枚に、胸がつまった。

 私の向いに中里さんがいる。夫も私のとなりのオジサマも、あふれんばかりの笑顔である。サンルームのような部屋だったっけ、と写真をみて思い出した。
 私の小さいノートに、この日のメモがのこっている。
「ひる。レストランで9人+1人。散々食べて飲んで笑って。中里さんのま上に太陽。3時半おひらき」
とにもかくにも、ポルトガル、スペインはさて置き、行ったことも見たこともない仙台が懐かしい。


       イラスト:Googleイラスト・フリーより

百十回記念 筒井 隆一

 前面三方を取り囲む大きなガラス戸越しに、手入れの行き届いた、緑一杯の日本庭園が広がる。庭園からの光の差し込み具合によって、時と共にコンサートホール内の明暗、色調が変わるのが、とても魅力的だ。
 ここは、国立市の一橋大学キャンパスに隣接する、「佐野書院」ホールである。初代学長が、私邸を大学に寄贈し、改修、保存されている、格調高く由緒ある建物だ。


 フルート独奏団「ナナカマド」は、西武鉄道沿線に住む、当時の日本フルートクラブ会員に呼びかけがあって、平成五年秋に誕生した。
 どんな難曲でも、初見で合わせてくれるピアニストに、練習してきた楽譜をその場で渡し、伴奏してもらう。会則などややこしいものはない。
 演奏を始めたら、「止まらない」「戻らない」が唯一の申し合わせだ。また、他人の演奏を一切批評しないのも、会の約束ごとである。

 会の名前は、当初「西武沿線の会」としていた。しかし、それではあまりにも味気ない。毎回例会終了後、二次会で利用する所沢駅ビルの居酒屋の名前を頂戴して、「ナナカマド」と名付けた。

 その「ナナカマド」の会が、何と25年間続いた。そして3か月に一度開いている例会も、節目の100百回記念例会を、今日この「佐野書院」ホールで、迎えたのだ。

 常時活動している会員は、現在12名ほどだが、例会、発表会に、以前参加されたOB、OGにも声掛けし、お誘いしたところ、8人のなつかしい仲間が参加してくれた。

 ホールに隣接した部屋に、国立駅前の喫茶店からコーヒーと紅茶のポットを、ケータリングしてもらった。クッキーなどの茶菓子も用意して、新旧会員が演奏の合間に、自由に利用できる段取りをした。


 今日の演奏は、参加者自身の「思い出の曲」の独奏と、フルート四部の合奏、そして最後は、参加者の全員合奏で締めくくるプログラムとした。
 思い出の曲については、「ナナカマド」に在籍した期間の思い出、自分のフルート人生での思い出、どちらでもよいが、それぞれ曲目の選定理由を1~2分で説明してから、演奏に入る。


 前半の独奏の最後に、バッハの『ガヴォット』と、ハイドンの『セレナーデ』を、四部合奏した。「ナナカマド」は、フルート独奏団と称している。普段の例会ではソロが中心だ。しかし、四部の合奏は迫力があったし、何より皆で一つの音楽を創り上げる、という楽しさが感じられた。


 いつもは、私たちの伴奏をしてもらうピアニストにも独奏をお願いし、モーツァルトとショパンの小品を二曲弾いてもらった。また三年前から、金のフルートをギターに持ち換えたOBも、『サラバンド』『アルハンブラの思い出』を演奏してくれた。

 申請のあった思い出の曲の独奏を、全員が終え、フィナーレは、ジョップリンの『ストレニュアス・ライフ』の全員合奏だ。この曲は会の創設当初から、ことあるごとに合奏してきた。前回の節目、五十回記念例会でも、参加者全員で合奏している。
 限られた時間ではあったが、なつかしい仲間たちと、素晴らしい会場で、楽しく充実した時間を過ごせた。

 会を仕切る世話役として、私はこの20数年間、例会を一度も欠席することなく、参加してきた。振り返ってみると、いろいろ考えさせられることも多い。
 まず、この25年間で、「ナナカマド」も、着実に高齢化が進んでいることだ。
 創設時代からの年配者は、
「世話役が段取りしてくれるから、例会に参加して笛を吹くのは、とても楽しい。しかし、自分が練習会場の予約や、会員への連絡、二次会の段取りなどはやりたくないし、できない。そんな役が回ってくるなら、会をやめる」
 一方、意欲的な若手は、
「自分の音楽性向上のために参加したのに、気ままに楽しんでいる、おじさんレベルの音楽とは、付き合いきれない」
 規模の大小はあれ、組織を立ち上げ、仲間と充実した活動を続け、さらに若い人たちにスムーズに引き継いでいくのは、大変難しい。
 反面、この集まりが、今後どのように展開していくのか、想像力を維持して見守る楽しみがある。
 次の記念例会の設定は、どうしよう。「ナナカマド」が150回まで続けば、12年後になる。それまで元気に笛を吹いていられるだろうか。次の目標は、110回でどうだろう


     イラスト:Googleイラスト・フリーより

うまいよ! うまいよ! 林 荘八郎

 体調が良いのだろうか。いたって質素なメニューだが、このところ朝食のたびに
「おいしい!」
 言葉がつい、口に出る。
 ごはんも、みそ汁もそれぞれが美味しいと思う。いつも通りのメニューだが、こんな思いは今までそうはなかった。有難いことだ。時間をかけてゆっくりと味わっているからなのか。

 78歳になって食は細くなり、胸の肉もお尻の肉もすっかり落ちてきている。肩もひじも痛い。これでも本当に体調が良いのだろうかと疑いたくなる。
 和食の方が好きなわたしの朝食には、ごはんとみそ汁に、あとは何か一品あればよい。一品は納豆でも前日のおかずの残り物でもよい。
 とりわけ好物を挙げるとすれば魚の干物だ。

 あるデパートの物産展で鹿児島の水産会社が売っていた干物のなかに、うるめイワシの丸干しがあった。干し加減により三種類あった。
 良く干して固いのは酒のつまみに良い、一日干しで柔らかいのはごはんのおかずに向いている、その中間のものは両方に向いているという。中間のものを買って満足した。その後はその水産会社が出店しているのを見つけると、いつもそれを買うことにしている。


 1月のある朝、鎌倉の八幡さまへ初詣に行こうと家内が言い出した。それもいいかと思い、彼女の提案に乗った。途中、逗子でJRへ乗り換える。
 じつは駅前に私の大好きなタイプの魚屋がある。相模湾や東京湾で採れた魚を中心に沢山の種類の魚を店頭に並べている昔ながらの魚屋だ。魚をトレーに入れず丸ごと並べているのが、スーパーの魚屋と違って楽しいのだ。

 その日は珍しく「青あじ」を開いたのが一枚だけあった。「くさや」の材料にもする、「あじ」としては少し大ぶりな魚だ。仕入れた沢山の魚の中に一匹だけ交じっていたのかもしれない。干物にして売ってしまえ!となったのだろう。
 年配で腰の曲がった馴染みの店員が、
「うまいよ!うまいよ!」
 声を張り上げて客に呼び掛けていた。
 その日の朝に割いて生干しにしただけのもので、塩も振ってないという。主婦たちは興味を示さなかった。

 売値は350円、それを300円にする、と私の前で一段と声を張り上げた。あうんの呼吸を感じた。
「じゃあ わたしがいただこう」
 彼は嬉しそうな顔をした。
 脂が乗って旨いから、わたしに食べさせたくて一段と声を大きくしたように思った。冷えて赤くなった手で魚を新聞紙に包んでくれた。

 その日の夕食と翌日の朝食の二回分のおかずになった。塩だけを振った家内の味付けは懐かしくて嬉しかった。むかしの干物の味を思い出した。

 当時はまだ、冷凍庫は勿論、冷蔵庫も、家庭には普及していなかった。長く保存できないので、塩を振っただけの味付けで、痛まないうちに早め早めに、結果的に新鮮なうちに干物を食べていたのだろう。

 やがて冷凍・冷蔵技術の発達に伴い、物流面でも冷凍貯蔵・冷蔵輸送が可能となった。スーパーマーケットが誕生し、商品の大量仕入れ、大量販売の時代になり、干物は保存料と色々な調味料を使用した、長期保存ができる商品になった。
 干物の味も変わってくるわけだ。

 昨今は干物が嫌われ者になりつつあるらしい。マンションではアジやサンマを焼く匂いが嫌われ、入居者からクレームが来ると聞く。
 さらに箸を使うのが苦手なため、魚の骨が邪魔な小魚を避ける若者が増えていると聞く。たしかに、店頭ではトレーに入った切り身の魚が増えている。
 残念で淋しくて、面倒な世の中になってきたものだ。

    イラスト:Googleイラスト・フリーより

炎のない生活 遠矢 慶子       

“ウー・ウー、カンカンカン” 消防自動車が、大きな音を残すように走り去った。

 冬は火事が多い季節だ。
 日本全国の火災発生は、一日に百件もあるというのには驚く。最近の火事は死者がでるという痛ましい現状が多い。

 昔から「地震、雷、火事、ドロボー」と、恐れられてきた。
 地震は確かに恐ろしく、火山国日本にとって、未だに予知が出来ず防御できない天災だ。
 雷は、避雷針が進歩し、被害もほとんどなくなってきている。
 一方、火事は一世紀前の紙と木の日本家屋から、不燃の建築材、鉄筋コンクリートとなり、大火になることが減ってきている。

 都市の不燃化推進と共に、今は一戸建ても、マンションも火災報知器設置が義務づけられ、火災発見が早くなった。
 私の住むマンションでも、数えてみると火災報知器が十二個付いている。
 ある日、ファンをつけずにお蕎麦を茹でていたら、いきなりすごい音で火災報知器が鳴り響き、管理人が飛んできて驚いたことがある。

 火事の原因は、たばこ、コンロ、焚火が三位を占めていたのが、健康のため煙草を吸う人が激減している。

 子供のころ、門前と庭の落ち葉掃きを毎日、母がしていた。たまに手伝うと、サツマイモを焚火に入れて焼いてくれ、ほかほかの焼き芋が食べられるのが楽しみで、せっせと枯れ葉を運んだことがあった。
 今は、焚火も禁止されている。


 もう十年以上前から、我が家はキッチンのガスをやめて、電機のIHにした。
 炎のない生活にして、一番困ったことは、海苔をやけないことだ。
 平海苔を二枚重ねて、ガスの上で、ゆっくり四、五回はくようにすると、プーンと海苔の香りが広がり、「ぱりっ」とした海苔が焼けた。今は海苔は焼き海苔を買ってくる。

 暖房も床暖房になり、炎にふれる機会が無くなってしまった。

 火事を恐れ、炎の生活になりつつも、日本には昔から火を焚いて、神を祀る伝統の祭儀が多い。火は人間にとって文明を与え、生命を象徴するものとして信仰されてきている。
 新しい年に、始まるどんど焼きは、全国に広く行われ、一月の風物誌として子供たちにも喜ばれている。

 神社を中心とした火祭りも、各地に伝統を重んじて行われている。
 富士のふもとの「吉田の火祭り」出羽三山の「松例祭」、京都くらまの「火祭り」と、どこも人気で人が集まる。
 神と心霊との交信を果たすものとして重要視されている。

 そう言えば、私の情熱の炎もいつから消えているのだろう。もう一度情熱の炎をもやしたいものだ。
もう、火事になることもあるまい。


      イラスト:Googleイラスト・フリーより

幻の人気もの「つくし」  石川 通敬

「目黒区のいきもの八〇選」には、区内のいきもの三〇〇〇種の中から区民が「未来に伝えたいいきもの、戻ってきてほしいいきもの」の投票結果がランク付けされている。

 驚くことに、その一五位がつくし(早春の野草スギナ)なのだ。区内では「草の生える土手などが減り、見ることが少なくなっている」と評している。
 しかし、目黒の現状は幻の存在になっているというのが実感だ。区民が、どういう思いで投票したのか、理由を知りたいが、我が家には歴史と理由が明確にある。

 実は毎年3月が近づくと、
「今年は、いつ頃どこに行こうか」
 という会話が、妻との間で始まる。目的はつくし採りで、我が家の年中行事なのだ。

 結婚して間もなく、昭和50年代に母が我々を、実家の近くにあった荏原製作所の藤沢工場の敷地一面に生えているつくし採りに誘ってくれたのが始まりだ。
 以後、その魅力のとりこになり、40年以上夫婦でつくし採りを楽しんできた。こんなに長く情熱をもって続けて来られた理由を深く考えたことがなかったが、最近、それは妻が摘み草の虜になったからだったと悟ったのだ。


 今回つくしのことを書いていたところ、突然彼女が結婚したころのことを話し出した。
「私は、神田駿河台に生まれたから、結婚するまで摘み草をしたことがなかった。だからつくし採りに誘われた時、こんな楽しいことがあるのだと初めて知り感動したの」
 毎年積極的に行動を共にし、いろいろ提案する妻を見ると、心底楽しんできたのだと 改めてよかったと思う。

 なにがつくし採りの魅力かというと、自分で探し,採らないと手に入らないものという現実が、第一の理由だろう。

 八百屋で売っていない上、たまにデパートで売り出されても、高級料亭向けとしか言いようのない高価な値段で、しかもほんのお印程しか並ばない。とても買う気がしない食材だ。
 第二の理由は、これがより重要だが、醤油味でゆであがったつくしが、何にも代えがたくおいしいからである。酒の突き出しとして抜群にうまく、ご飯と食べると、何杯でも食べられる。
 一週間は毎食楽しめる。

 第三の理由は、この醍醐味を味あうには、並々ならぬ努力が必要だからだと思う。苦労の始まりは、まとまった量が取れる場所とタイミングを見つけ出すこと。次の苦労が採るのに時間がかかることだ。
 しかし、苦労はこれで終わらない。大量に取れれば採れるほど後の処理が大変なのだ。ゆでる前にごそごそとして食べられない袴を取る必要があり、これに時間がかかる。
 大鍋一杯分となると2、3時間はゆうにかかる。

 採取場所は、藤沢周辺から始まったが、近郊の田畑の都市化が進むにつれ、新天地を見つける必要に迫られた。丹沢の麓や北関東に出かけて探しても、なかなか取れる場所が見つかず、苦労する年が大半だった。
 やっと見つけると、この時とばかり地面にへばりついて採る。
「もうそろそろやめよう。このくらいでいいだろう」
 と、どちらかがいうと
「待って、もうひとつ頑張りしたい」

 と言う返事をどちらかがする。
 その結果、毎回2時間程度、土手や、畑のあぜ道を、場所を変えながら探すのだ。

 こんな苦労の中、偶然最高品質のつくしが群生している場所に出会うことが数年に一度ある。しかし皮肉にも、ほとんどの場合仕事で移動中の発見で、手が出せず悔しい思いをしてきた。
 そんな中現役時代にも忘れえない嬉しい思い出が一度あった。それは娘が仙台に勤務していたとき休暇を取って出かけた東北旅行の時だ。
 途中、桜の名所として有名な白川の土手で出会ったのだ。

 桜にはまだ早かったが、昼食後散歩を始めたところ、一面に最高級のつくしが生えていたのだ。この時は無我夢中で、途中声を掛け合うこともなく、小1時間二人で採りまくった。
 気が付いた時、ビニール袋5個がずっしり重くなっていた。

 ここで採れたつくしは大半が、生涯初めて出会った最高品質のものだった。
 胞子が収まっている穂先が、のびやかで、大きく、ぎっちり胞子が詰まって適度に固く、浅いウグイス色をしていた。
 またその茎も、うすピンク色で柔らかく、すっきりとみずみずしいものだった。幸運だったのは、その日の宿泊地が、娘がいる仙台だったのである。
 マンションの台所を借り深夜まで袴取りをし、無事東京に持ち帰ることができた。

 振り返えるとつくしは、夫婦が共有できたよい趣味だったと思う。
 第一線を退いた現在は、つくし第一で春の日程が組めるようになった。ここ数年蓼科、諏訪、長坂を開拓してきたが、今年は百歳クラブのコンペでおなじみの大厚木ゴルフクラブ近くの原っぱを開拓するつもりだ。

 一つ残念なのは、母が伝えてくれた江戸時代からの素朴な食文化が、我々とともに消えゆくことだ。
 機会を見つけて、目黒区に働きかけ、幻の人気ものの復活と、現代食生活のメニューに取り込む方法がないものか、提案してみたいと思っている。   

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好みの陶器  廣川 登志男

 今年の正月、玄関の三和土(たたき)にある下駄箱の上に、干支のお戌(いぬ)様の置物がなかった。6年ほど前から、その年の干支の置物を飾ることにしているのだが、お戌さまは、まだ持っていなかった。

 正月も終わりに近い頃、
「ゲン担ぎかも知れないが、そろそろ近場の笠間か益子の窯元に行って干支の手ごろな陶器を探そうや」
 と、妻と話していた。
 そんな中、新聞に『大陶器市』なる広告があった。
 場所は千葉県の日本ハムファイターズ鎌ケ谷スタジアムの特設会場。2月3日から16日まで開催されるとあったので、さっそく初日の3日土曜日に出かけた。

 渋滞もあって、会場に着いたのは、開場時間の10時を20分ほど過ぎたころだった。開場直後にもかかわらず、第一駐車場は満杯。少し離れた駐車場に車を置き、会場まで歩いた。
 特設会場は、仮設テントを繋げたもので、さほど大きくは見えなかったが、中に入ると結構広い。それに多くのお客で賑わっていた。

 全国の有名どころの陶器が、ところ狭しとぎっしり並んでいる。有田・伊万里・九谷、それに、私の好きな美濃・志野・信楽・瀬戸などがある。
 高価なものは数十万円。安いものは一個2、300円で、手ごろなものも並んでいる。全部を見終えるのに、2時間半ほどかかった。

 私たちは、まず干支の「戌の陶器」を探した。しかし、残念なことにそこにはなかった。干支にまつわるものは、年の変わる年末に出るようだ。
 次に、湯飲みとしても使える、素焼きで模様のない単純な形の「蕎麦猪口」を探した。


 現職時代、私が会社で使っていたお茶碗を、女性事務員が、新しいお茶に入れ替えようとして割ってしまった。恐る恐る私の所に謝りに来た。
 後日、代わりの茶碗を持ってきてくれた。茶色の薄造りで、手触りが何とも言えない素焼きのものだった。大きさもしっくりと手になじむ。
 その事務員は、私の秘書の役割もする、気立ての良い可愛い女性だった。それもあって、長いこと愛用していた。

 しかし、その後の転勤間もない職場で、私はうっかりそれを割ってしまった。
 仕方なくその後は、普通の湯呑み茶碗を使っていたが、割った蕎麦猪口を忘れられず、陶器店や窯元に行くたびに、同じようなものを探していた。

 今回も、その素焼きの蕎麦猪口を探した。目についたものは、ほとんどが、波模様が入っていたり、肉厚だったり、釉薬をたっぷりかけてすべすべだったりで、幻滅してしまった。

 蕎麦猪口も良いのが見つからなかったので、今度は、お酒を美味しくいただける「ぐい吞み」を探し回った。
 お気に入りのぐい吞みとは、何といっても、わが手のひらにしっくりと収まる大きさで、粗削りのゴツゴツ感のあるものだ。
 現役時代、二次会のあと、いつも一人で立ち寄った、馴染みのスナックでのぐい吞みがそれだった。ママが私のために探し求めてくれたものだ。残念ながら、そこはすでに閉まっている。

 5年ほど前に、陶器の中でも私の好きな、美濃・信楽・志野を見に、岐阜・滋賀を旅行した。そのとき、好みのぐい吞みを8つほど求めた。
 美濃焼の一種の黄瀬戸は、肉厚で釉薬をしっかりかけたものだ。ゴツゴツ感はないが、手にしっくりとなじむ。鼠志野も同様だった。
 これらも酒を美味しくしてくれるが、特に気に入っていたのは、織部と伊賀、それに信楽のものだ。薄く塗った釉薬とゴツゴツ感のお陰か、手にしっくりとなじむ。

 最近は、錫製チロリでつけたヌル燗をこれらでチビチビやるのがたまらない。そして、その都度スナックママを思い出す。
 好みの陶器には、それを愛用した時代の、素晴らしい思い出が隠されている。素焼きの蕎麦猪口、ゴツゴツ感のあるぐい吞み。どれもその通りだった。


 次は、陶器ではないが、透き通ったウィスキーグラスを探してやろう。底が、丸く厚い形状をしているが、決して転倒しないグラスだ。ストレートかロックで、好きなシングルモルトの「ボウ・モア」を飲もう。

 このグラスは、茅場町にある、入り口がくぐり戸のバーで、私専用に使わせていただいた。他にお客がいないとき、妙齢のママとしっとりと飲んでいた。

  イラスト:Googleイラスト・フリーより

近場のラグビー観戦   青山 貴文

 冬の朝陽が射しこむ書斎で読書をしていると、ノックをして妻が入ってきた。普段はかたちばかりのノックしかしないが、何か改まったときは、慇懃にノックをする。
「午後から、ラグビーの試合見にいかない。優待券があるわよ」
 と、『ジャパンラグビートップリーグ熊谷陸上競技開催』という優待券付きのビラを、机上に広げた本の横に大切そうに置く。朝刊の広告の中にあったらしい。

 今日、12月10日は、「パナソニックワイルドナイツ」対「宗像サニックスブルース」の試合が組まれている。午後1時、キックオフだ。陸上競技場は、自宅から車で30分くらいに位置する熊谷スポーツ文化公園内だ。

 昼からさしたる用もない。久しぶりのラグビー日和だ。妻も私も、ジャンパーの下に重ね着をし、マフラーを首に巻きつけて着膨れ状態だ。格好など、どうでも良い。温かいウーロン茶を魔法瓶に入れて出かける。

 来年9~10月は、この熊谷ラグビー場で、ワールドカップが開催される。現在、国の予算も組まれ、観客席を拡げるために大工事中だ。数ヶ月後は、立派なラグビー場に生まれ変わり、国際ラグビー観戦には多くの外国人もやってくるのだろう。

 公園正門から一番奥に立地する陸上競技場に着いてみると、観客数は思ったよりも少なく、全座席の3分の1の入りだ。
 しかしながら、試合開始のころには半分以上になってきた。広々とした緑の人工芝の競技場を見渡すだけで、日常のこまごまとした心配ごとなど忘れる。明るくゆったりとした気分になれる。こんな豊かな気持ちになれるのは、われわれだけではあるまい。

 わたしたちにとっては、どちらが勝っても負けてもよい試合だ。いろいろ日常生活用品でお世話になっているパナソニック側の席に座ることにする。
 午後の燦々と輝く太陽の光が背中に暖かく当たっている。眼前のグランドも逆光でないので、まぶしくない。一般席としては、まずまずの席だ。


 広い楕円形のグランドに、がっちりとした体格のカラフルなユニホームの選手たちが入場して来た。お目当ての選手が出てくると、大声でその名を呼んでいる。
 パナの青色のユニホームと宗像の橙色のユニホームの戦いだ。両軍ともに、最初は互角の戦いであったが、やがて自力の優っている青色軍が徐々に点数を稼いでいく。青いユニホームの速力抜群の選手のトライに、「ナイストライ」と、口々に叫ぶ。みんな手をたたき、身体を揺すっている。周囲の観客の目も、一様に輝いている。

 十数分もすると、知らぬ観客同士にも一体感が生まれてくる。自分がトライしたかのように喉が渇く。温かいお茶がなんとうまいことか、一瞬の幸せを感じる。


 試合を見ながら、35年前のころ、フットボール観戦をしたことを想い出す。
 そのころ、ミシガン州アルマ町に、妻と2人の小学生の娘たちと家族4人で住んでいた。自宅から徒歩で、10分くらいのところにアルマ大学の陸上競技場があった。地元の高校生のフットボールの対抗試合がよくおこなわれた。多くの住民が、家族連れで応援していた。わたしたちも休日には子供2人を連れて、よく応援に出かけたものだ。

 ミシガンの夏は日本の高原の気候に似て涼しく、応援も半ズボンであったが、冬になると雪が数センチ積もり酷寒となる。そういう過酷な自然条件でも、夜間照明の下で、高校生たちは、果敢に試合をしていた。
 その家族や地元の人たちも、厚手の防寒着に身を包み、あるものは毛布にくるまって応援する。中にはウイスキーをなめながら応援している人も居る。選手がトライすると、歓声を張り上げて、夜の冷気を揺るがす。見ず知らずの観客同志、目を見合わせて、にやっとする。
 これぞ、ヤンキー魂ではないかとうれしくなった。
 妻や私は、この光景にアメリカの質実さと剛健さを感じ、アメリカが大好きになった。そのうえ、応援する楽しさを知った。

 数年後に帰国してからも、スポーツ観戦の楽しさに惹かれ、ゴルフ、野球、テニス、サッカーなど野外の観戦に、夫婦で参加するようになった。
 歳取ってきても、外気に触れて知らぬ者同士で楽しく観戦が出来る。良き趣味をもったものだと思っている。

 特に熊谷ラグビー場には、無料の練習試合を狙って毎年出かけている。その都度、メリハリのきいた生活が可能となる。
 今日のラグビーの試合は、前半で青が橙を14対0と圧倒し、休憩になった。私たちは、夕方の用があるので、この時点で最終結果を見ることもなく退出することにした。幸い、試合終了後でなく、公園周辺の車の大渋滞もなかった。
 冬の太陽がまだ西方の青い空に輝いているなかを、家路に着くことができた。
 
         イラスト:Googleイラスト・フリーより
 

ふたりでひとり 森田 多加子

 夫婦という単位になって58年。男女の役割は、結婚したころのままずっと続いていた我が家だが、最近、夫婦間の仕事の役割が曖昧になってきた。

 重い荷物を持つ、ビンの蓋を開ける、電球の取り換えなど、今までは夫がやっていたのに、いつの間にか私の仕事になっている。
 電球の取り換えを、私がやるようになったのは、夫に比べると、高いところに上るのは、まだ私の方に安定感があるような気がするからだ。


 しかし怖い。若いころには、このくらいの高さに登ることなどは何でもなかった。たかが電球の取り換えじゃないかと思うが、足元が安定しないこの作業は、非常に怖い。おまけに頻度が高いのだ。


 平成元年に家を建てたときに、蛍光灯の明るさが嫌いだという夫が、室内の大部分を電球にしてしまった。リビングには装飾的な室内灯が二か所あるが、それに4個ずつ付いている。ほかに単独に天井に直接ついている電球が4個、合計12個だ。

 LEDという半永久的な電球ができたので、室内灯など変更できるものは徐々に取り替えていった。しかし、天井の4個は調光システム(明るさを調節できる)になっていて、LEDが使用できない。
 同じものが寝室にも4個ある。
 門灯などを含めると、調光システムの10個の電球を取り替える作業は、私にとっては、わりに早めにまわってくる。
 どうしてこんな不必要なものにしたのかと、少々腹もたてている。

 1個でも切れると、光は弱くなる。暗いのは嫌だ。仕方がないので、天井につくくらいの大きなスチールの脚立を買ってきた。重いが安定感はある。それでも足元がおぼつかないので、夫にしっかり支えてもらう。
 電球一つ取り替えるのに、夫婦二人で大変な思いをしなければならない。脚立に登れるのもいつまでか、と心配になっている。


 夫はというと、キッチンに立つことが少しずつ多くなった。料理教室に月に一度参加していて、かれこれ7年になる。
 ある日、帰宅してみると、食卓に二人分の料理が並んでいた。「ジャガイモのガレット・ベーコンエッグ添え」なるものだそうだ。
 一見、ちょっとした店のランチに出てくるようにきれいに盛り付けてあった。
「おお、やるじゃない!」
 ジャガイモを細い千切りにして固めたガレットは、なかなか美味しかった。


 最近は、レシピを見ながらの料理ができるようになったのだ。子どもたちが来るというと、張り切って何やら作る。
 勿論、必要な買い物も自分でする。正月には、ココットを買ってきて、「筑前煮」を作った。レンコン、ゴボーなど、硬い野菜が、ほどよく柔らかくなっている。
 悔しいけれど味も良い。子どもたちからも大変評判がよかった。

 ……が、考えてみると、何をするにもまず形からの夫。テニスをするからと、ラケット、シューズを揃えたが、何度やったのだろう。
 登山のリュックと靴、キャンプの道具一式、一番長く続いたゴルフの道具もたくさんあるけれど、今はやっていない。
 ココットが同じ目にあわなければいいのだが。

 ともあれ、最近の二人は、今までの男の仕事、女の仕事を越えてしまった。

 二人とも体力が落ちてきているので、どれが男の仕事か、女の仕事かなど考えることもない。二人でできることをやっていくしかない。
 結婚した58年前には、夫が料理を作るなど、思ってもいなかった。
 夫「作る人」私「食べる人」。ああ、善きかな。


                     イラスト:Googleイラスト・フリーより

コストコ•カークランド 遠矢 慶子

 30年前、初めて夫とアメリカへ行った。

 ワシントン州シアトルから車で40分のカークランドに、オズボーン夫妻を訪ねた。彼らは、前の年に、我が家に一週間滞在した関係で、1年ぶりの再会は懐かしく、嬉しかった。ミセスは、太った大きい体一杯に、その喜びを表わし、両手を大きく広げて迎えてくれた。

 カークランドは、アメリカで初めてヨットハーバーが出来た海辺の町だ。
 毎日、車で川のある別荘や、あちこちと観光案内をしてもらった。
 ある日「今日はスーパーに行きましょう」
 と、連れて行かれたのが、大型スーパーコストコだった。


 体育館のようなドームのような建物、中は一面に広がるデパートのような、大規模の売り場のある平屋の建物。あまりの大きさ、広さにびっくりした。
「グレート!」
「ヒュージ!」
 と、私の知っている(大きい)という単語が思わず口から出た。

 エデイー夫人は、「驚いただろう!」と、私達のびっくりする様子に、満足げに胸を張って喜ぶ。
いきなり大国アメリカを見せつけられた。

 胸の高さ位はある大きなカートを押して、天井のバカ高い売り場を歩く。カートは子供が五、六人は乗れる大きさだ。
 実際、カートに子供を3人乗せて買い物をしているファミリーもいた。売り場の広さと品物の種類の多さ、大きな段ボール箱が、レンガのように高く、天井まで積んであり、あの上の段ボールはどうやって取り出すのだろう。

 野菜、果物は段ボール単位で買う。大きな肉のかたまり、カニの足の束、鮭一匹、人間が食べる量とは思えない大量売りに、一瞬たじろいでしまう。
 大箱に入った派手なデコレーションのケーキ類、ロールパンは200個単位でビニール袋に入っている。まるでサンタクロースの持つ袋のようだ。

 衣類から電気製品、食器、皮製品、宝石と、食品スーパーというよりは、店員のいないデパートだ。
買い物客はそれらを、慣れた手つきで大型カートに、溢れんばかりに積み込んでいる。
 確かにすべて大量だが、安さには、更に驚く。

 なんと私達も、天井につけるプロペラファンをつい買ってしまった。

 30年前に行ったアメリカで、びっくり仰天したコストコが、日本でも同じ規模のスーパーで、広がりつつある。
 1999年からコストコが日本に参入し、今や、全国30店舗を構えて居る。

 私の住む葉山町も、日本で初めてヨットハーバーが出来た場所で、海を目の前にして、入江になったハーバーと、どこか似ている。

 友人に誘われ、車で横浜のコストコへむかった。逗子の山を越え金沢八景に出る。金沢八景は都市計画が良くされている町で、広い道路、幅の広いグリーンベルトと、車にやさしい道路だ。30分ほどで会員制のコストコに到着、会員は、2人まで友人を同伴出来る。

 私達3人は、それぞれ大きなカートを引いて自由に買い物をして、時間を決めて、レジの前で落ち合うことにした。
 アメリカで出会ったのと同じ、胸まである大型のカートを引く。
 大量のトイレットペーパー、菓子類、果物、野菜、缶詰め、鶏の丸焼きを、カートに入れても、底の方に小さく収まっている。レジで精算すると1人3万円位、普段のスーパーの買い物よりかなり多い。二階の広い駐車場に、がらがらと、3台のカートを引いて行き、車に積み込む。見境なく三人が買った品物は、トランクと後部座席の半分には収まらない。

 3人で、顔を見合わせ、呆れた顔で、
「どうしよう!」
 上に上にと積み込んで、膝の上にも乗せて、帰ることにした。
 それぞれ三軒の家に運び込むのも、また一仕事だ。
 何でもかんでも、その安さと量に、見境もなくカートに入れてしまう人間の心理を上手く捉えている。
どの段ボール箱にもKIRKLANDの英語の文字が付いているのを見つけ、30年前に訪ねたカークランドが、コストコの発祥の地だと初めて知った。


 海辺のハーバーのある小さな町が、世界を制する大型スーパーを作ったのには驚き、感心した。
カークランドのオズボーン夫妻も亡くなられた。
 コストコ•カークランドが、日本に進出し、30店舗もあると知ったら、彼らも、どんな顔をして、喜び、得意になったことか。
 世界はどんどんボーダーレスになって来ていると痛感した。


イラスト:Googleイラスト・フリーより