元気100教室 エッセイ・オピニオン

わすれられない   吉田 年男

 写真の整理していた時だ。姉と二人で写っているキャビネ版の写真が出てきた。セピア色の古ぼけたものだ。姉は三人いたが写真は一番下の姉で、私とは七歳離れている。

 姉たちから、私が小学生のころ怪我をすることが多くて、母が育てるのに戸惑っていたと聞かされていた。写真の姉は歳が一番近いせいもあってよく面倒を見てもらった。

 写真を見ていたら、指先の出血で大泣きをして母を困らせたときのことを思い出した。


 終戦の年に、疎開先の茨城で小学一年生であった私は、二年生のときに、東京の小学校に転校した。
 転校先の杉並区立和田小学校は、戦争で校舎の大部分が焼かれていた。和田小の生徒たちは、同じ区内の方南町駅に近い、大宮小学校の校舎を借りていた。大宮小まで歩いて通った。子供の足ではかなり遠く感じたことを覚えている。

 東京での生活は、戦後間もないころで特に食糧事情が悪くて大変だったと思う。小学生だったわたしは、そんな時代であっても、さほどひもじい思いをしないで過ごせたのは、母や姉たちのおかげだと感謝している。

 焼け跡が区内のあちこちにあった。印象に残っているのは、銭湯の焼け跡で、白いタイルや洗い場のカランがそのまま残っていた。
 そこはほかの焼け跡より広くて、三角ベースなど野球をする子供たちの恰好な遊び場だった。
 当時、米国からシールス軍が来日して、日米野球を見に後楽園球場へ姉に連れて行ってもらった。遊びの中心は野球であった。善福寺川での水遊び、ケンダマ、メンコ、ビー玉、縁台将棋など、暗くなって周りが見えなくなるまで家には戻ることはなかった。

 
 ある時、路地の暗がりで友達とメンコに夢中になっていた。丸メン(ボール紙の厚手の丸いメンコ)を持った右手を強く振り下ろした。地面に指先が当たった。
「痛い」と思ったとき、中指の爪の間に土が少し入り込んでいた。
 その時は友達には何でもないふりをしていた。夜になって痛みはだんだんひどくなってきた。ほったらかしにしていたら、数日後には中指の太さが、倍ほどに膨れ上がっていた。あまりの指の変貌と痛さに、母に頼るしかなかった。一部始終を話した。母は慌てて、近くの診療所へ連れてくれた。

 診療所は、狭くて薄暗かった。先生が軍医だったことも知らなかった。
 当時はそういう診療所しかなかったのかもしれない。先生に「手を洗ってこい」といわれた。痛みをこらえながら、腫れあがった手を洗った。そして、何をされるのかわからず、恐る恐る洗った手を先生の前に出した。

 先生は、何も言わずにいきなり指先をハサミのようなもので切った。そして、膿を絞り出すように強く握った。周りに膿が飛び散った。先生の白衣に赤黒い膿がべっとりと付いている。指さきのきり口にきいろい薬のついたガーゼを詰め込んだ。ひどい荒業治療は終わった。

 しばらくは驚きの放心状態。強烈な痛みは母と一緒に診療所をでて、しばらくしてからおそってきた。
 麻酔もしないで指先を切られたので、痛みは半端ではなかった。たまらず地面に座ったまま大泣きをしてしまった。
 母の前で大泣きをしたのは、後にも先のもこの時だけだと思う。母も姉たちも、今はもういない。
 あの時の困りはてた母の顔は、何年たっても忘れることができない。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

対話   筒井 隆一

 コロナ騒ぎが始まって以来、外出の機会が激減した。今まで、いかに不要不急の外出を続けていたか、あらためて気付かされた。また、普段出歩いている私が家に居るので、思いがけず夫と妻との対話の機会が増えた。
 家内は、読書、編み物、脳トレパズルなどをやったり、庭での花作りが好きで、家に居ることが多い。

 一方の私は、飲み会、ゴルフ、コンサート、絵画展など、趣味、道楽の集まり、催しには積極的というより節操なく参加し、週の半分は都心に出ていた。声がかかると、断らない付き合いの良さが自慢だ。日常の生活スタイルが、かなり異なるその二人が家に籠り、一日の大半を、顔突き合わせて過ごすようになった。


「最近分かったけれど、あなたは怒りっぽくて、威張るわね」
「そんなことないよ。我々年代の男なんて、こんなものさ」 
 家内は、結婚即同居で気丈な姑に仕え、二人の息子を育てた。今は息子の嫁さんたちとも仲良く付き合いながら、三人の孫を可愛がっている。今さら好きだ、愛している、という関係ではないが、世間並み以上に信頼関係は強い夫婦だと思って感謝してきた。

 それが、怒りっぽくて威張る亭主、とは何だろう。相手の性格を見直し、残り少ない人生を理解し合って暮らす、そのきっかけをつくる時が来たのかも知れない。


 よくよく考えてみると、家内は私が新聞を読んでいたり、テレビを見ていても、突然話しかけてきて、一方的にしゃべりだす。話の内容もくるくる変わって付いていけない。
 私は元々企業人として慣らされたせいか、普段の会話でも先ず結論を述べ、それに至った経緯、今後の対応などを、相手が理解しやすいように順序よく説明しているつもりだが、家内は違う。

「急に話し出すとびっくりするじゃないか。おまけに話があちこちに飛ぶから、何を言いたくて、結論が何なのか、分からないよ」
「私が話しかけたら、『うん、そうだね』と合鎚を打ったり、『そこをもう少し分かりやすく説明してくれよ』など言って下されば、話が滑らかにつながるんじゃないかしら」
「そんなこと言われなくてもやっているよ」

 私は話がかみ合わないと、ブスっとして口をきかなくなる。
 会話の作り方、まとめ方が家内とは違うので、いちいち逆らっているより黙っていた方が上手く収まると思い、口をつぐんでしまう。決して怒っているのではないのだが、そのように取られるのだろう。


 巣ごもり生活の対話で、自己反省点が、ひとつ明らかになった。
 一方、家内との対話で、彼女の話かけをじっくり観察して分かったことがある。ひとことで言うと、私を試しながら対話をしているように感じられるのだ。

「試す」という言葉は、あまり聞こえが良くない。自分の喋ったことが、相手に聞こえているのか、また、相手がそれを理解できているのか、疑いを持ちながら伝わりを確認しているのである。


 八十歳直前になれば、聴力も落ちてくる。聞き違いもあるだろう。また、周りの同世代の老人が、物忘れで失敗した話を聞けば、家内はそれを自分の亭主に置き換えて、考える時もあるのだろう。
 決して悪意の問いかけ、確認ではなく、心配、思いやりからくるもの、と善意に解釈しているが、少々気になる。

 年明けに、ウィーン・フィルハーモニーのニューイヤーコンサートを、家内と二人でテレビのライブで聴いた。
「今年の指揮者リッカルド・ムーティ―、よかったわね」
「うん。ムーティ―は二年前にウィーンに行った時に、ウィーンフィルの定期演奏会で聴いたよね」
「あの時は何を演奏したかしら」
 それとなくお試し、聞き取りが始まる。
「直前に運よくチケットが取れて、一番後ろの壁際の席で聴いたのは覚えているけれど、曲目は何だったっけ」
 咄嗟に言われても、すぐ出てこない。
「確かモーツァルトのフルート協奏曲と、ブルックナーの交響曲との組み合わせだったわ」
 そういえば主席のシュッツが独奏者だった、と思い出した。


 相手の記憶を、物忘れしているのか、と勘繰らず、二人の認識を共有しようとする家内の問いかけだと思いたい。
 また、我々の年代になれば、老化の進行を確認するのは必要だと思う。
 コロナがきっかけで、夫と妻の対話が復活し、残された限りある人生を充実して過ごせれば、何よりである。

イラスト:Googleイラスト・フリーより

寒さ対策 吉田 年男

 新潟県北蒲原郡中条町(現在の胎内市)に家族と一緒に生活を始めたときのことだ。十一月末には、雪下ろしの雷が鳴り、雪が降りだす。そして、翌年の四月末までは、太陽にお目にかかれない。
 ベランダまわりには、しっかりと雪囲いをして、洗濯物などはその中に干す。出入り口の雪かきは毎日欠かせない。
 本当の寒さを知らなかった東京生まれのわたしには、仕事の関係とはいえ、寒さの中での生活は、話には聞いていたがそれ以上に厳しく感じた。


 しかし、この経験は、半世紀以上も前のこと。今は懐かしくて、よい思い出に代わっている。(つらかったことは忘れる)は、実感としてわかるような気がする。
 東京の生活では、雪国のように寒さに対して身構えをえてしてまで、これといった対策はしてはいないと思う。

 私の場合、強いて言えば、鉢植えの植物を家の中に取り込むことくらいか。
 それはウッドデッキにおいてある、生前父が可愛がっていた三鉢のクンシランとサボテン一鉢を防寒のために家の中に入れることだ。


 クンシランとサボテンは、毎年五月ごろに花がさき、特にクンシラは、オレンジ色の壮大な気品がある花を見せてくれる。
 そして、花が終わるのを待って、クンシランとサボテンの古い土を廃棄して、腐葉土、赤玉などを混ぜ合わせた新しい土と入れ替えをする。

 その後、寒さに弱い彼らのために、四つの鉢をきれいに拭いて家になかに取り込む。
  取り込む作業は、毎年11月の初めに、「よしやるぞ」と気合を入れて取り掛かかることにしている。気合を入れなくてならない理由は、土の入った鉢は意外と重い。ウットデッキから部屋までの距離が5~6メートルはある。
 そして、途中に物置やら自転車などが置いてあり、通路が狭いために自転車を別な場所に一時的に移動し、四つ鉢の運搬にはことのほか時間がかかる。

 これらを無事にやり終えるには、安易な気持ちではできない。

 さらに、部屋の中にとりこむ準備もある。鉢を床にじかに置くわけにはいかない。そのため鉢をおくスペースを確保したうえで、あらかじめダンボールを折りたたんで置き、その上にビニールシートを敷いて準備をしておかなくてはならない。

 全部をやり終えるには、3~4時間はかかる。端で見ているより80歳を過ぎた私にはキツイ作業だ。
 毎年どうしてそこまでして4つの鉢を家の中に取り込むことに拘るのか。
 時々わからなくなる。

 寒さに弱い植物を守ってあげたい気持ちがそうさせるのか? 毎年、鉢内の土を新しいものに取り換えることで、裏切らずにきれいな花をみせてくれることが、ことのほかうれしいのか? 両方考えられる。

 いや、自分が父の亡くなった歳をこえた今、こころの隅に親父との思い出をひとつでも多くとどめておきたい。
 これが本音かもしれない。

利庵(としあん) 石川 通敬

 夕方目黒駅からバスで白金のオルガニック鶏料理店に妻と出かけた。そこはテニス仲間が経営している店で、一度は顔を出したいと思っていた。
 ところが中に入ると、
「石川さん申し訳ないけど今日は予約で満席です」
 とすまながる。妻に、
「どうしようか」と聞くと、
「いつも行く目黒のおそば屋さんに行きましょう」

 店の前はバス停だ。しかし時刻表を見ると、運悪く三十分近く待たねばならない。仕方なく目黒駅に歩いて戻ることにした。
 しばらくすると、ふと思いだしたのが、プラチナ通りにある「利庵」という店だ。その通りは外苑西通りの一部だが、都内屈指の美しいイチョウ並木になっている。今の季節は真黄色の紅葉が楽しめ、歩道には銀杏が転がっている。樹が大きいため、街路灯があるにもかかわらず歩道はうす暗い。


「利庵」は昭和六十年の創業だ。建物は、木造の昭和時代様式の古民家風だ。開業直後からそばの美味しい店として人気化し、いつも行列が絶えなかった。
 我が家も、早い時期から家族でよく利用していた。しかし江戸時代風をよしと考えていたのだろう、夕方五時近くになると、ぶっきらぼうに「閉店です」と客を追い出す。それが面白くなく、私はいつしか利用しなくなっていた。

「閉店時間が早かったと思う。もう七時だから無理かもしれないよ」
 と私が言うと、妻は
「味は間違いなくいいと思うわ。それに時代の変化もあり五時に閉めることはないかもしれないから、急いでゆきましょう。まだ七時過ぎよ」
 と小走りに歩き出す。

 しばらくすると、薄暗い歩道の遠方に、ボーっと電球の明かりがあり、目を凝らすと、その下に人影らしいものが見えてきた。
 まだ間に合うだろうと、思わず二人で駆けだした。着くと三人の女性が、入り口の外で並んでいる。我々を見ると、その中の年長らしい人が話しかけてきた。
「閉店は七時半です。私達が入れる最終の客だろうと店の人は言ってます。でもまだ十五分あるので、お店にお願いしてみたらどうでしょう」
 と親切に教えてくれる。そんな言葉に勇気づけられ、希望もって待つこと十分。

「テーブルの関係で、お二人を先にご案内します」
 と担当女性が現れた。アドバイスをしてくれた三人の女性に、
「順番が逆になり恐縮です。」
 と心よりお礼を言って席に着いた。

 店内は、驚いたことに、雰囲気が依然と比べ、ガラッと変わっていた。
 家具が古民家風になっている。品ぞろえも、小さな高級小料理屋以上で、店内の壁には所狭しと、お勧めの品々が紙に書かれ張ってある。手元には多くの料理名が書かれたお品書きが置いてある。
 もう一つ感心したのは、料理、酒、そばを前に、楽し気に談笑する客の様まだ。隣には、入り口で待っている時から見えていた若い夫婦が座っている。若い男性は升酒を、ずっと何杯も気持ちよさそうにお代わりしている。
 その飲み姿を羨ましく見ていたが、彼はいつしか升をもったまま首をたれ寝始めたのだ。奥さんは心配して、おろおろしている。私も大丈夫かと思っていた。

 その矢先、突然元気な中年の男性が現れ、若い男を後ろから抱き抱え、店員に氷をビニールの袋に入れて持ってこさせた。そして、それを首筋の上、後頭部に当てたのだ。それでも若い男は、目覚めない。すると今度は両脚の間に手を入れ、組んでいる足をほぐしたのだ。

 その作業を見ながら、私は二人の食べ残しのままになっている天丼を見て、
「もったいないから、持ち帰りをお店に頼んだらいいですよ」
 と奥さんにすすめていた。
 ところが、組んだ足がほぐされた途端、若い男はパッチリ目を開き、突然
「全部私が食べますからご心配なく」
 と言い放ち、あっけにとられる速さで、ぺろりと食べたのだ。


 私は助っ人の男性が、短時間で処置をする素早い技に大いに感心し、
「このお店は、看護師も置いているのですか」
 と店の人に聞いた。すると突然大活躍をした助っ人の男性が現れ、大きな声で、
「違います。違います。今やったのは私です。こうした処理専門の医者です。さっきからずっと見ていたのですが、これは危ないと思い飛び出したのです。東京で働く妻に会うため九州から、今日上京していたのです」という。

 これらの出来事が、妻も楽しかったのだろう、いろいろな料理を満喫していた。私もいつになく酒をのみ過ごす結果となった。帰りがけに、
「お店の雰囲気がガラッと変わり、楽しくなりましたね」
 と話すと、
「リーマンショックのとき、経営危機になりました。その時これではいけないと、皆で店の経営を見直した結果です」と話してくれた。
 コロナの影響で、数多くのお店がつらい思いをしている昨今だ。はじめに訪ねた鶏料理店も、このそば屋も、この時期満席の賑わいだ。多分勝ち組だろうと推測した。
 天災、人災を克服し生き延びるには、経営者、従業員の持つ知恵と努力が不可欠なのだとつくづく思った次第だ。

人間の良さ  廣川 登志男

「ハエ取り紙って何? おじいちゃん」

 1ヶ月ほど前の10月半ばだったように記憶している。テレビにハエ取り紙が映っていて、遊びに来ていた孫娘から思いがけず問いかけられた。

「そうだねー。昔、ジイジが小学生の頃にはたくさんのハエが家の中を飛んでいたんだよ。お便所などで育って、汚いバイ菌を足にくっつけては、食べ物にたかっていたんだ。ハエ取り紙は、そんなハエをくっつけて退治するために天井からぶら下げていたんだよ」
「へー、そうなの。うちのトイレには、ハエなんかいないよ」
 私が小学校の時というと、ほぼ60年前になる。その当時は水洗トイレではなくボットン便所だった。
 ハエなどそこら中にいて、食事時など大変だった。
 ところが、今の時代、一匹のハエでも見つけようものなら、追い払うのに大騒ぎだ。たった60年前の話なのだが、その歳月の重さに驚いてしまう。

 60年前というと昭和35年の頃だ。前年には、明仁親王(現上皇)のご成婚中継放送があった。我家には、すでに白黒テレビがあったので、家族に加え近所の友達やその親御さんなどが我家に集まってテレビを見ていた。
 それに、プロレスの力道山、巨人の長嶋や王なども友達と見ていた。昭和三十九年の東京オリンピックのときは、カラーテレビに替わっていた。たった五年なのに、白黒テレビからカラーテレビに進化した。

 当時、クーラーや自動車を含めた「新三種の神器」が世の中に出回っていたが、今思えば、随分と時代遅れの製品だ。
 クーラーはエアコンに替わり、自動車は電気で走るようになり、もうすぐ自動運転になろうとしている。ボットン便所は、60年たった今では水洗トイレ・ウォッシュレットになっている。

 私が大学生の時は計算尺だったが、今ではパソコンにインターネットと、生活がどんどん便利になった。もう60年前には戻りようがない。

 これが大昔の時代となるとどうなのだろう。最近の私は、遺跡や土偶に興味を持ち、木更津の金鈴塚古墳を訪ねたり、講演会に参加したりしている。千葉県佐倉市の国立歴史民俗博物館へは7、8回訪れている。土偶や埴輪を眺め、古代の歴史も勉強したが、当時の実生活などは、当たり前だが想像できない。


 今年8月、八ヶ岳ふもとに尖石(とがりいし)遺跡があることを知った。国の特別史跡だという。縄文時代のもので、実際に訪れると、尖った石(尖石)が、地面から顔を出している。高さ一メートルほどの三角錐の形をしている。肩部に樋状の溝があり磨かれているので、石器を研いだ砥石だろうといわれている。地下にどれくらい埋まっているのかは調べられないそうだ。付近には竪穴式住居跡が33ヶ所見つかっている。

 尖石考古館には、いずれも国宝の「縄文のビーナス」と「仮面の女神」の土偶が展示されている。現在、国宝の土偶は、全国で5体あり、そのうちの二体がここ尖石にある。何回も訪れている八ヶ岳だが、このような遺跡があることにどうして気づかなかったのか、不思議でならない。

 縄文時代は、BC1万年からBC300年までの約1万年の長きにわたる。この時代の特徴は、氷期が終り、現代の自然環境と基本的に同じであり、日本列島も形成されていた。

 マンモスやナウマンゾウなどの大型獣は絶滅し、中・小型獣が主となり、広葉樹林も形成された。現在よりも温かく、四季もあり、争いごとのない住みやすい環境だったと、遺跡などの調査で判明している。

 確かに、縄文以前の石器時代と比べると、服を編む技術を会得し、匙や皿をつくり、10畳くらいの広さに家族四人ほどが暮らせる屋根付きの竪穴式住居を建てるなど、長い年月をかけて進化してきたが、その実生活は、現代の我々には想像の域を超えて、大変な生活だったろうと思う。

 しかし、よく考えなければならない。我々は、過去の時代の生活レベルをみて大変だったろうと同情するが、実は、その時代の人たちは「今ほど幸せなときはない」と思っていたのではないだろうか。

 いつの時代もそうだと思うが、その時代を生きている人にとって、「素晴らしいかも知れない未来の生活」を実感として感じることはできない。
 逆に、すでに自らが実感してきた「ひと昔まえの生活」と比べることで、現在は幸福な良い時代だと感じているのに違いない。私自身、そう思ってきた。

 過去を振り返って不便だとか、そんな生活は耐えられないと言うのは、今を生きる自分たちの驕りだ。先人達は、一歩一歩地道な努力をして今の生活レベルに進化させてきた。まさに、先人達の努力に敬意を払わなければ罰が当たる。

 縄文時代の人たちも「自分たちはこんなに良い時代を過ごさせてもらっている」と、その時代に感謝し、さらに改善の努力をしてきたのだろう。
 それが、動物とは違う「人間の良さ」なのだと思う。

一世一代の出来事 武智 康子

 先日、今まで手を付けなかった、夫の本箱の整理を始めた。

 中ほどの棚に最後の論文ファイルと一緒に、固い台紙がついた冊子を見つけた。開いてみると横文字で書かれている。読んでいるうちに思い出した。これは私達夫婦にとって、あの一世一代の出来事の表彰状だ。

 それは、1997年10月のある日、世界自動車技術会から技術貢献賞を授与する旨の知らせを受けた。鉄鋼会社で自動車用鋼板を研究していた夫は、まさか自分が表彰されるとは思っていなかったようで、非常に驚いたようだった。
 自動車関係の学会では、エンジンなどの機械部門が主力だったからである。しかも場所は、十一月九日に開会式とウエルカムパーテイーが開かれる、パリのベルサイユ宮殿とあった。加えて夫人同伴の招待だった。私も、飛び上がるほどびっくりした。

 夫と相談の上、私も出席の決意はしたものの、少しばかり心配になった。

 夫が所属するもう一つの鉄鋼関係の学会は、鉄のように地味で、現地の大学やパーテイーだけはホテルでというのが大半だが、自動車技術会は、ベンツやルノー、フォードなどの世界に名立たる大企業が参加しているので、とても華やかな学会である。

 夫は、いつものように三つ揃いの背広で出席するが、私は、このような式では陰で夫の役に立つことが大切であること、ましてや会場がベルサイユ宮殿であることも考えて、一世一代の気持で、初めて海外に和服を持参することにした。
 その和服は、父が叙勲で皇居に参内する時、一緒に招待された母が一世一代の気持で新調した色留袖である。その着物を私が形見として受け継いだのだ。
 決して派手ではないが、淡い紫地にぼかしの裾模様のお祝いの席での正式の和服である。きっと天国の母も喜んでくれたことと思う。


 そして当日の夕方、観光客が去った後のベルサイユ宮殿に入った。
 私達が案内されたのは、舞台のある大きなホールだった。この煌びやかな中世の様式のホールで、開会式が始まった。
 最初に、当時のフランスのシラク大統領の挨拶があった。さすが自動車関係の学会だ。

 行事は進んで、いよいよ表彰式となった。受賞者の名前が呼ばれて、七人が舞台上の椅子に座った。そして一人ずつ表彰状と記念品が渡された。夫は、一番小柄だったが、下から見ていた私には、とても大きな存在にみえた。私も、心から夫を祝福した。

 一時間ほどのセレモニーが終わり、休憩を兼ねてパーテイー会場に移動した。
 そこには、8人の円卓がたくさん並べられていた。メインテーブルに案内された私達だったが、私の右は夫だが左はベンツの研究者夫妻だった。
 私の緊張は少し和らいだ。それは、ベンツのご夫妻とはデトロイトの会議でお会いしたことがあり、顔なじみだったからである。夫の右隣りは、確かイタリアの方だったように思うが、私の斜め向かいには、トヨタの社長ご夫妻が座られていた。ご夫人は、やはり和服をお召しになっていた。
 ふたりの日本女性が、和服を着ていたことから、このテーブルでは和装談議で話に花が咲いたことを、私ははっきり覚えている。

 ただ、料理はフランス料理のフルコースだったので、和服の袖がちょっと気になった。
やはり洋食には洋服の方がいいなと感じた瞬間だった。

 全てが終わって、ホテルに戻った時、夫が、
「今日は、和服でよかったね。僕も鼻が高かったよ」と言ってくれた。
 私は、和服は小物も多くいつもと違って荷物がとても重かったが、夫の表彰に花を添えることが出来て、本当に良かったと心から嬉しく思った。

 表彰の時に、いっしょに頂いた記念品は、夫が開発した自動車用鋼板で作った金色に塗装された自動車の置物だった。この自動車は、いつも書斎の机の上に飾ってあったので、今は、神前の台の上に置いてある。
 私は、今、発見した表彰状を自動車の脇にそっと供えて、ありし日の夫を偲んだ。

 そして、二度とないような経験をさせてくれた夫に「大切な思い出をありがとう」と感謝した。

回転木馬  武智 康子

 2018年1月30日、その日は小春日和であった。昼下がりに今日も夫と私は、散歩に出かけた。向かったのは、自宅から歩いて15分程の所にある「としまえん」だ。

 この遊園地は、土日は、家族連れや若者達でいっぱいだが、平日は閑散としている。むしろ、私達のような高齢者がちらほらみられる。夫と私は、「木馬の会」の会員で、年間パスポートを持っていた。乗り物も乗り放題なのだ。

 正門を入ると、広場には大きな花壇があり、両側を大きな木々に囲まれた道を10メートル程進むと、遊園地の中を横切って流れる石神井川に出る。川の両岸は桜並木で、春は花見で有名な場所だ。
 橋を渡ると、そこからは「土」なのだ。私達は、この土を踏んで歩くことを楽しんだのだ。
 遊園地の広大な敷地は、大体子供向きと若者向きのエリアに分かれているが、左奥には、世界初の流水プールやウオータースライダーなど、大人も楽しめるプールもある。
 全部で31種類もの遊具があって、皆で楽しめる遊園地なのだ。デイズニーランドが東京に出来るまでは最高の遊園地だったようだ。

 ただ、園の中央には、何といっても「としまえん」のシンボルである世界最古の回転木馬「カルーセルエルドラド」がある。遊園地はとてつもなく広く、私達は、いつも方向を定めて散歩した。
 今日は夫の要望に従って、まず、まっすぐエルドラドに向かった。エルドラドは、動物が手彫りなので、一頭ずつ木馬の表情が違う。きらびやかなゴンドラの装飾も趣向が凝らされている。コペンハーゲンのチボリ公園にある回転木馬と同じなので、夫は、とても気に入っているのだ。

「いらっしゃいませ。武智さん、散歩ですか」 
 声をかけてくれたのは、園の機械設備担当の佐藤さんだ。私達は、よく行くので、何時しか顔なじみになったのだった。
「今日は、いい日和だが、回転木馬のお客さんはいないね」
「どうぞ、お乗りください。貸し切りですよ。今朝、点検もしましたから」
 それではと、私達はいつもの木馬に乗った。貸し切りの回転木馬の上から見る園内は、何だかいつもと違って私達には、特別の風景に見えた。

 佐藤さんは、入社以来30数年、園の機械設備一筋に働き、自身の結婚式もこのエルドラドで挙げたそうだ。この木馬の歴史は数奇で、20世紀初めにドイツで作られてヨーロッパ各地を巡業し、その後ニューヨークの遊園地を経て、解体されて倉庫に眠っていたのを、1969年にとしまえんが購入して日本にやって来たのだそうだ。
 2年がかりで組み上げられ、今まで五十年近くとしまえんで活躍しているとのことだ。佐藤さんにとっては分身のようなものだと話してくれた。
 ただ、この日が、夫と私の忘れえぬ最後のとしまえん散歩となってしまったのだった。
 今夏、このとしまえんが、練馬区の防災公園設置とあいまって閉園することになった。

 8月20日、私は、息子達二家族とともに七人で、夫が愛した「としまえん」を訪問した。そしてエルドラドの前で、ばったり佐藤さんに出会った。
 佐藤さんは、家族と一緒にいない夫のことを聞いてとても驚き、手を合わせ、天国の武智さんに伝えて欲しいと次のことを話した。

「ご主人は技術に詳しく、特に機械に使われている金属の疲労について、いろいろ解りやすく教えてくださいました。その後の仕事にとても役に立ちました。私はご主人に感謝しています。今回の閉園に当たって、エルドラドはいったん倉庫に眠りますが、私は、木馬がいつまでも現役でいられるように今まで機械整備を十分にしてきたし、これからもどこにあってもエルドラドの整備を続けます」と胸を張った。私は涙が出るほど嬉しかった。

「帰ったら、神前で天国の主人に必ず伝えます。どうぞエルドラドを守ってください」と言って別れた。そのあと、皆でエルドラドに乗って、それぞれに祖父を、父親を、そして夫を偲びながら、七月と八月の毎週末に打ち上げられる花火を見て、最後のとしまえんを楽しんだ。
 帰宅後、私はすぐに、夫の神前に佐藤さんのことを報告した。佐藤さんは五十歳後半ぐらいだろうか。必ず回転木馬のエルドラドを守ってくれるだろうと信じている。

 2020年8月31日、月曜日の午後八時、最後の花火が晴れた夜空に打ち上げられた。八分間の連射による壮大な打ち上げ花火を、自宅のベランダから夫の写真とともに眺めた。
 そして、「としまえん」は94年の幕を下ろした。もう、としまえんの花火や遊園地の賑やかな声も聴けないのは寂しいが最古の回転木馬「エルドラド」がどこかで日の目を見る日を楽しみにしたい。

喉元過ぎた熱さ  廣川 登志男

 八ヶ岳の大石川林道から分岐し、雨池峠経由縞枯山に向かう。標高差300mほどの急登を標準時間で登り切り、標高2,403mの縞枯山山頂にたどり着いた。
 それまであまり休んでいなかったし、途中で内腿に若干の違和感を覚えていたこともあって、眺めはあまりよくなかったがここでコーヒータイムをとることにした。草地は霧雨で濡れていたので、平らな石を見つけ座り込んだ。
 コーヒーといっても、インスタントのカフェラテだ。疲れた身体には、この甘いラテが美味しい。カロリーも多少は補充できる。それに、この日は平日ということもあって、まったく人に会わない静かな山行で気持ちが良かった。

 北八ヶ岳は、お気に入りの場所だ。入社してすぐに始めた登山は、この八ヶ岳が最初だった。何度も通い詰めたが、五十歳を過ぎた頃から、岩稜多き南八ヶ岳より、苔むす北八ヶ岳の方を好むようになった。山行形態も、当初はグループ山行だったが、自由度が高く、静かに山歩きできる単独山行に切り替えつつあった。


 今回の計画も、北八ヶ岳をゆっくり楽しむ二泊三日の単独山行だった。麦草峠をベースに、初日は雨池から縞枯山を巡るルート。二日目は、県道の反対側の中山から白駒池に戻り、テント泊で星空観察。三日目は池の周りを散策して苔や森の写真を撮るなど、ゆったりと自然を味わう計画だった。

 山頂で二十分ほど休んで、そろそろ次の茶臼山に目指して立ち上がろうとしたときだ。内腿の筋肉がピクピクと攣りはじめ、痛みで動けなくなってしまった。
 このような事態は、四、五年前からたまにだが起きるようになっていた。今回は更に膝の後ろまで痛みと攣る状況で、とにかく足を伸ばせず中腰で前傾姿勢のままじっと我慢した。しばらくして何とか痛みが治まったので、恐る恐る歩を進めたが、十歩も行かぬ間にまた攣ってしまった。
「こりゃまずい」
 その場に辛うじて座り込み、痛みを我慢して腿のストレッチやもみほぐしをやる。さらに、以前、攣ったときの経験から、用心に持参していた経皮鎮痛消炎剤なる塗り薬を擦り込みながら腿や膝裏を揉んだ。
 甲斐あってスーッと痛みが消えてきた。樹林帯とはいえ、大きい岩がゴロゴロしている下山道だ。途中で攣って転倒したら大怪我になる。慎重を期すため、これも以前の経験から念のために持参していた二本のストックを取り出して使った。

 それでもさらに二回攣った。その度に、先ほどと同様に鎮痛薬を擦り込んだり、もみほぐしたりして何とか下山することができホッとした。かかった時間は、標準時間の倍近くかかっていた。人に会わない山中で動けなくなったらと思うと、ぞっとしてしまった。

 今回の出来事で、三千m級の高山は諦めて、ハイキング程度にしなければならないと思い、心が落ち込んでしまった。まだまだ若いと自負していたが、それは気持ちだけであって、身体の方は間違いなく老化していたようだ。
 認めたくはないが認めざるを得ない。それが人間の人間たる所以なのだろう。


 下山後は、少し休んでから八ヶ岳西側の茅野市方面に下り、道の駅「蔦木宿」の温泉「つたの湯」で傷んだ腿をもみほぐした。夕方、キャンピングカーもどきの「ひろかわ号」に戻り、持参してきた食材の牛肉などで一杯やりながら、明日以降の計画を、足を酷使しないヘラブナ釣りに変更して就寝した。

 今回の山行で、自らの体力の限界を知ることになった。これからは、アウトドアならヘラブナ釣りやゴルフ、インドアなら剣道、エッセイや麻雀、蕎麦打ちなどに精を出そう。これらの道具はほとんど揃っているが、ゴルフはしばらくやっていなかったので、買い換える必要があった。ドライバーもアイアンも、すでに七、八年買い換えていない。一ヶ月ほど経って、近くのニキゴルフでそれらの試打をした。店員の技術主任が立ち会ってくれ、ヘッドスピードや飛距離、それに方向などを測定してくれた。
 すると、「お客さん、70歳でヘッドスピード42m/秒出す人は見たことがありませんよ。これなら、ゼクシオなら少し硬めで重いクラブが合いますね」
 この言葉にすっかり気をよくし、ドライバーやアイアンなどを全てゼクシオに買い換え、練習に励む毎日となった。


 今では、ゴルフ練習に加え、ストレッチにスクワットなど筋肉を鍛える運動を三日おきに励んでいる。こうなると何のことはない。先日の八ヶ岳の教訓「身体は間違いなく老化している」などすっかり忘れ、そのうち3,000m級登山にも出かけようと、いつもの自信満々の自分に戻っていた。
 あるとき、ふと気がついた。

 人間は経験をもとに少しずつ賢くなるというが、あれほど大変な目に遭った八ヶ岳の経験をすっかり忘れて、若いときのつもりでいる。あぶない、あぶない。『喉元過ぎた熱さ』に、またなるところだった。

コロナと文化活動  筒井 隆一

 新型コロナウイルスの本格的な蔓延が始まってから、もう半年以上経った。当初は、「気温が高くなれば感染も下火になる」という専門家の説明もあり、このように感染拡大が広範囲に、且つ長引くとは、思ってもいなかった。

 新型コロナウイルスは、音楽を楽しむ人間にも、厳しい試練を与えている。コンサート、ライブなどの大規模イベントはもちろん、仲間内の小規模な演奏会、発表会も、ことごとく中止や延期になった。音楽を聴く機会を求めても、イベントそのものが開かれないのだ。

 楽器の演奏という面から言えば、フルート、オーボエ、トランペットをはじめとする管楽器は、息を吹き込んで音を出す。そのため、弦楽器や打楽器などとは違って、マスクを着用すると、演奏できない。
 飛沫感染の危険性を考えれば、管楽器の演奏には、施設の利用を制限せざるを得ない。飛沫がどこまで飛ぶのか、奏者間の距離、聴衆との距離をどれだけ取ればよいのか、これらのソーシャルディスタンスを守るための検証実験が、あちこちで行われている。影響がない、という判断が出るまでは、施設を利用させてもらえないのだ。

 私たちのフルート独奏団「ナナカマド」は、フルートを愛する十数人の集団で、今から二十五年前に誕生した。年に一度の発表会と、それに向けた三か月に一度の例会(練習会)を続けている。発表会は、西武池袋線大泉学園駅前の、「ゆめりあ」ホール、そして例会は、JR中央線荻窪駅近くの杉並公会堂に付属するスタジオを、利用している。


「ゆめりあ」は客席数百七十、響の良いこじんまりした人気のホールで、私たちのグループが発表会を持つには、ぴったりの施設だ。利用については、一年前の同月十日に抽選会があるのだが、今年はコロナ騒ぎの始まった二月から全面閉鎖となり、六月末までホールは利用できず、抽選会も実施されなかった。

 また、杉並公会堂のスタジオも、施設の利用と抽選会が中止となり、七月末に再開の知らせが、やっとHPに載った。両施設とも、五か月間利用できなかったわけだ。

 再開に当たっては、スタジオ等の施設利用について、細かい条件が付いている。私たちが利用するAスタジオは、通常定員六十名だが、同時入場は十名に制限されていた。使用中は一時間に数回、扉と窓を開けて換気をすること、と書かれている。
 更に管楽器は、演奏中にどうしても水滴が床にしたたり落ちる。これを必ずタオルで拭き取るように指示されていた。無論スタジオ内でも三密は避け、演奏時以外は必ずマスクを着用しなければならない。

 ところで行政は、コロナの感染拡大を見極めながら、経済を立て直す、という。一方文化活動の実施に関しては、それが不要不急の活動に該当するのか、明確な判断を示さず、曖昧な対応をしている。文化活動は経済の一部を担っており、その活動をやめたら経済の一部が止まることにならないのだろうか。自粛か経済か、どちらを優先させるのだろう。


 文化活動は、元々不要不急なものだ、と思う。演劇、音楽、アート、旅、レストランやバーでの飲食など、それは不要不急だからこそ、社会に豊かさと奥行きをもたらすのだ。人は、食べて寝て、必要最小限の行動だけで過ごせるものではない。音楽やアートに心を打たれ、落語や漫才に腹を抱えて大笑い、映画や芝居に涙する。そのような不要不急の営みが、我々の日常や人生を豊かにしているのだろう。

 近年、文化予算の削減が、多くの自治体で行われている、と聞く。文化活動に対する予算は、受益者が限定的で、削りやすいからなのだろうか。ある面では、精神的な贅沢、金持ちの道楽、と考えられているのだろう。

 今回のコロナがきっかけで、それが一気に加速するのが恐ろしい。

惜しまれる閉店  吉田年男

 我が家からJR中野駅までの徒歩十五分程の道について、以前「マイロード」というタイトルでエッセイを書いた。

 それはJR中央線で御茶ノ水駅までかよっていた学生当時の思い出の道で、半世紀以上過ぎたいまも、この道には店構えの変わらない文具店などが軒を連ねるからだった。

 店構えが変わらないといえば、開店以来三十年、お世話になっている荻窪駅前の書道用品店が八月いっぱいで店を閉じるという。
 店主との出会いは、サラリーマンをしていたころからで、勤めかえりにネクタイ姿で、お店に伺っていたことを、昨日のことのように覚えている。

 店主の彼は、とても親切で面倒見がよくて、展覧会の飾りつけや、岩櫃山の麓(群馬県)で毎年行っている「書」の合宿の準備でも、大変お世話になっている。
 お店は主に奥様と二人でやっているのだが、彼はシャイな性格なのか、閉店の理由など、私に面と向かって話してくれない。
 それとなく奥様に閉店の理由を尋ねてみた。奥様曰く
「還暦も過ぎたので、好きな絵画の制作に没頭して過ごしたいようだ」と。


 そういえば、彼の絵は素人離れしている。一年ほど前に、銀座の画廊で個展を開いたほど専門的なのだ。特に表情の描き方が素晴らしくて、店の前に置かれていた少女の肖像画を観たとき、生き生きとしていて、恐ろしいほど強烈に心に残っている。

 篆刻の腕前も素晴らしい。かれは、絵画に限らず、やることがすべて多彩で、趣味の範囲をはるかに超えている。篆刻作品は、私も全紙作品用の大きなものから、色紙用の小さな雅印まで、幾つか彫ってもらっている。
 書道用品は、なんでもすぐに彼のとろころに行けば、直ちにそろえることができる。これからはそうはゆかなくなってしまう。
 お店がなくなることは、わたしには、耐えがたい出来事には違いないが、それよりも惜しまれることがある。

 我が家の書道教室に来ている子供たちと、その親御さんとの絆だ。私は、彼の名刺を何枚か余分にもらって、いつも手元に置いてある。それは初めてお子さんを連れて我が家に見えたお母さんに差し上げるためだ。

 道具は何をどのようにそろえればよいのか? 始めるとき、だれもが迷うことだ。それは年齢によっても違ってくる。筆、墨などの消耗品は別にして、小学生であれば、六年間は間違えなく使えるもの。中学生であれば、高校を卒業して成人になってからも使用に耐えられるものを使ってほしいと思っている。
 道具調達のノウハウは、今まで店主の彼にすべてお任せをしてきた。道具を買いに行くとき、お母さんは必ずこどもをお店に連れてゆく。子供たちに会うのがとても楽しいと、彼はくちぐせのように言っていた。

 彼との長い間のお付き合いのなかで、子供たちからはもちろんのこと、親御さんからも、道具のことで一度もクレームも聞いたことがない。その信頼関係が途絶えてしまうことが惜しまれてならない。