A038-元気100教室 エッセイ・オピニオン

正月に想う   青山 貴文

 令和初の静かな正月が明けた。柔らかい新春の朝陽が居間に差し込んでいる。清酒のお神酒で神に感謝し妻と乾杯する。

 昨暮、近郊の酒専門店でいろいろの銘柄(産地)と値段を天秤にかけ、いつもよりも少し高価な清酒の一升瓶を購入した。日頃でも、どの酒にするか選ぶのは楽しい買物の一つだ。


 この正月の新潟の清酒「菊水の純米酒」は、ほぼ期待通りの清酒であった。なんとも言えない新鮮な芳香と内臓に溶けこむコクのある旨い酒だ。


 私は、生来亡き母に似てアルコールに弱く、特に日本酒は独特の嫌な臭いが鼻を衝いて嫌いであった。お猪口一杯日本酒を飲むと顔が真っ赤になり、心臓が高鳴って、頭痛がして体質的に合わず飲むことを控えた。

 一方、ビールは暑い日や運動した後は、コップ一杯が最高にうまく好んで飲んだ。ただ、数杯飲むとやはり真っ赤になってだるくなり眠くなる。だから、現役のときは、酒の席が苦手であった。


 会社を辞めてから、酒の旨さを知った。亡き父のDNAに、今頃急に影響されるようになったのか、夕方になり周囲が暗くなると、無性に酒が恋しくなる。あれほどいやであった日本酒の臭いが、なぜか鼻腔をくすぐる匂いとなり、飲みたくなるのだから不思議だ。
 さらに、少しのアルコールでは顔色も変わらなくなった。面の皮が厚くなったのか、皮膚の機能が鈍感になり、表皮まで変色しなくなったのかもしれない。

 夕食時、書斎でコップ半分くらいの酒を飲んで階下の食堂に降りて行く。
「一杯やって居たでしょう?」
 と妻は鼻を突き出して臭いを嗅ぎながら言う。
「池井戸潤の本を読んでいて面白くて、酒なんか飲んでいられないよ」
 と自信を持って言う。
 妻は自分の判断ミスかと自問する。この辺のやりとりは愉快だ。父もこの快感を抱きながら、どこかで一杯やって食卓に着いていたのかも知れない。


 最近は日本酒に限る。酒好きの父が、生前「ビールは、水ぽくって腹が張るだけで美味しくない」とよく言っていた。私もそういう歳になったのだろう。

 夏になると、冷蔵庫で冷やした4合瓶の冷酒をコップ半分くらい注いで、二階の書斎で、良薬をなめるように少しづつ飲む。
 特に、大相撲などのTV放映の時は、笹沢佐保等の軽い本を読みながら、「はっけよい」の行司の掛け声で、テレビ画面に見入る。 

 ところが、この頃は友人の多くが日本酒やビールは糖質が多くて体に良くないという。ウイスキーや焼酎のお湯割りがよいらしい。糖質を摂っても、その分、大いに歩き、体を動かせば問題ないとおもうのだが。

 なんといっても、少量の酒は呑むほどに顔がほんのりと火照って、頭がもうろうとなってすべてが鷹揚になってくる。

 書斎の机上が散らかっていようが、エッセイが書けなくて期日が間に合わないだろうが気にならなくなる。今の今がほんわかしていればよい。しくじったことなど全て許されるので、ストレスがなくなる。よって病気とは縁遠くなる。


 古来より「酒は百薬の長」と言われるが、よく言ったものだ。

 父は、普段は静かな男であったが、酒癖がわるかった。特に、日本酒を呑むと際限がなかった。自説を大声で喋りだし、相手を揶揄して意見を聞かない。一升瓶の酒がなくなるまで飲んだ。そして独演者になってしまう。

 それ故に、歳をとってから友人がいなくなった。家族も、酒の席では彼と一緒に話したくなくなる。特に母は父の絶え間ない、だみ声を嫌った。
 母にとって、日本酒は気ちがい水であった。母はいつも私に言っていた。
「貴文! お酒のみになってはいけないよ」


 40数年前の古い話になるが、米国ミシガン州アルマ町に家族と共に赴任し、一年経って両親に来てもらった。母は、父に日本酒を飲ませないでほしいと懇願した。
 米国の隣人に迷惑をかけ、私に恥をかかせることを恐れたのだと思う。

 私は、そのころ日本酒の旨さを知らなかった。アルマの片田舎では日本酒は売ってないことにした。
 バーボン(トウモロコシから作った米国産ウイスキー)のボトルしか、棚に置かなかった。父は、好きでもないビールやバーボンでは酔うほどに呑まなかった。
 母は静かな父と最高の時を過ごした。逆に、父は日本酒が呑めないやるせない3か月を過ごして帰国して行った。

 日本酒の旨さを知ってから、父に本当にすまないことをしたと思うようになった。
 今となっては後の祭りだが、一度でよいからカリフォルニア米の美味しい日本酒を現地で飲んでもらえばよかったとつくづくおもう。

 正月のお神酒を静かに呑むにつけ、父のことが思いだされる。


       イラスト:Googleイラスト・フリーより

   

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