愛しのマドンナ 青山貴文
私が欠かさない日課は、少なくとも5キロ歩くことだ。ここ十数年、歩かないと何か落ち着かない。歩くことが生活の一部になっている。
歩く場所は、家の周囲だが、大半は『さくら運動公園』だ。この公園は、我家から車で10分くらいに位置する。足腰に優しいクッション材を敷き詰めた一周1キロの遊歩道が設置されている。そこを日々、5周する。
その遊歩道の周囲には、大木のクスノキやケヤキあるいは、ソメイヨシノなど40種近くの木々が植えられ、木陰を作っている。
その他にも、2年前から、足腰と脳細胞を鍛えるために、週2回の社交ダンスを習い始めた。しかし、足腰を鍛えるには生ぬるい。やはり、足腰には早足で歩くのが一番効果があるように思う。
公園の遊歩道を、スロースロー・クイッククイックとダンスステップで、体幹がぶれないように、胸を張って、足の爪先を伸ばして軽快に歩く。
第三者が見ると、少しおかしいのではないかと思われるかも知れないが、あまり気にしない。私は一周を約10分弱の速度で歩く。
4月初旬の夕方のことだ。平日のためか、数人しか歩いていなかった。アカシアの前のベンチで、大きなマスクをした2人のおばさんが話し込んでいる。一周目、さらに2周目も同じく、彼女たちから2~3メートル前の遊歩道を通り過ぎかけると、そのうちの一人が、
「あおやまさんじゃありませんか?」
と、座ったまま、右手を指して、私の名前を呼ぶ。
立ち止まり、誰かと、その女性の目を凝視する。
60歳代の目元の涼しい色白のご婦人だ。どこかで会ったような気がするが、憶い出せない。
「マスクが大きくてよくわからないよ。 そのマスクとってくれるかな?」
「はいはい、マスクとったわよ。これでわかるでしょ!」
「ああ、ハワイアンバンドをしていたときのフラダンスの元お嬢さんか」
ところが、名前が出てこない。こういう時は、失礼だが聞いてしまうことだ。
「えーと、名前は何だっけ。歳とると人の名が出てこないのだよ」
「きくちゃんよ。思い出してくれました?」
「ああ、いつも舞台の真ん中で優雅に踊っていたプリマドンナの菊ちゃんか。 相変わらずスレンダーで魅力的だね、2年ぶりだね」
「やっと解ってくれたわね。青山さんは、社交ダンスやっているのでしょ」
「そうだよ。ダンスは脳細胞を活性化してくれるというし、足腰にもいいし、老人には最高にいい運動だよ。なにせ、女性フェロモンが豊富だから、精神的にも良いんだよ。ダンスを習う男性は少ないから、希少価値があり、下手でも大切にしてくれるよ。ところで、菊チャンはまだフラやっているのでしょ?」
「もうやめました。青山さんはハワイアンバンドをまだやっているのですか?」
「ご存じのように、バンドは解散したが、時たまウクレレをつま弾いているよ。ところで、フラやめて、今何しているの?」
「いまは、なんにもやっていませんの」
「なに! 菊ちゃんからフラを取ったら何にもないじゃないか? おっと、これは失敬。男性フェロモンが得られる何かをやったほうがいいよ」
「そうね。でも、あの頃は、老人ホームを慰問したり、楽しかったわ……」
「うん。あの頃は、毎年夏に山荘で合宿したり、みんな若かったしね……」
菊ちゃんの友達らしい女性を、あまり無視することも出来ず、積もる話を打ち切って、歩き出した。どうも、私の姿勢を正したダンス・ステップを一周目で見て、私と悟ったらしい。
更に一周してくると、彼女たちはもうすでにベンチには居なかった。
数十メートル先を左に曲がると、菊ちゃんが、片足を引きずっている友人を気に掛けながら、ゆっくり歩いている。
老人ホームを一緒に慰問していた時も、菊チャンは明るくてやさしくて、老人の面倒をよく見ていた。だから、みんなから慕われた。でも、なぜ彼女は、フラを辞めてしまったのだろうか。
私は、彼女等に追いつき、すれ違いざまに、菊ちゃんの耳もとでささやいた。
「もう少し顔を上げて、胸を張って!」
「あら。お金でも、落ちていないかと思って、地面を見ているのよ」
と、足の悪い友を気遣って、彼女が軽口をたたく。
(菊ちゃんは、いつもやさしいな)
と愛おしく感じながら、振り返りもせず、右手を肩越しにゆっくり左右に振って、さよならの合図をする。
彼女たちのクスクス笑う声を聞きながら、振り返るのをぐっとこらえて、手をふりつづけ、歩みを早めて立ち去った。
その後、4周、5周目と、夕焼けの木漏れ陽の中に、彼女たちの姿を探し求めたが、大きなクスノキが静かに佇ずんでいるだけであった。
イラスト:Googleイラスト・フリーより