単細胞の人 森田 多加子
昼間の常磐線は、わりに空いている。
三人がけの座席に座っていたが、さっきから向かいの席が気になって仕方がない。同じ三人がけの真ん中に、若い男性がいるが、右足を隣の人の前に投げ出しているのだ。
私がとやかくいうことではないが、自分の座席の前に、人の足があるのは不愉快だろう。見ていると腹が立ってくる。しかし何も言えない。じくじくとした気持ちだった。
落語家の立川談志師匠の話がある。車内で、乗車してきた老人を見かけて、前にすわっている中学生に、「譲ってあげたらどうだ」と言って中学生を立たせた。
老人は当然のような顔で座った。感謝の一言もなかった。その時談志は、車内中に響き渡る、どすの効いた声で言ったという。
「悪かったなあ、坊や! おじさんが余計なことを言った。席を譲ってもらってありがとうの一つも言えねえくそじじいに席を譲らせちまった。すまねえ。今度からじじいがいても、金輪際席なんざあ譲るんじゃねえぞ!」
車内の人たちは驚いただろう。私にも覚えがある。
シルバーシートに座っていると、ちょうど顔の前に、やや大きめのトートバッグがあり、そこに『私は妊娠中です』と書いてあるカードがぶら下がっていた。
はっとして見上げると、三十代くらいの女性が立っていた。私の隣には若い男性が座っている。替わってあげてほしいな、と思ったが、カードは私の真ん前だ。彼は気づいていないだろう。
あと三十分も乗っていなければならないのだが、「替わりましょう」と、仕方なく立った。妊娠中という女性は、当然のようにだまって座った。
機嫌の悪い顔は(早く気づいてよ)と言っているように見えた。腰の痛みを抱えた老女が、意を決して立ったのである。少しは感謝の意を表してもいいのではないかと、談志師匠と同じ思いになった。
席を譲ろうとして大変な思いをしたことがある。眼科に行ったとき、待っている人が多くて椅子の数が足りない状態だった。
私は座っていたが、妊婦らしき人が立っていた。
腰をあげながら「ここへどうぞ」と言うと、その人はすぐ「結構です」と答えた。少々齢はとっているが、妊娠初期のつらさを考えると、まだ私の方が譲るべきだと思った。
「私は大丈夫ですからどうぞ。お腹に赤ちゃんがいるのでしょ?」
「居ません!」
怒りを顔全体に表しながらのきつい声だった。その時になって、初めてとんでもない間違いをしてしまったことに気づいた。
「ごめんなさい」と謝ったが、その女性の怒りがおさまらない雰囲気は、ずっと続いていた。看護婦さんから名前を呼ばれるとほっとして、思わず診療室まで急ぎ足になった。
そんな出来事を思い出しているとき、前の席で足を投げ出していた若い男性が立ち上がった。誰が見ているわけでもないが、私はどんな顔をすればいいのかわからないほど、うろたえてしまった。
その男性は、義足だったのである。足を曲げることが出来なかったのだ。
隣席の人は、とうに察していたのだろう。いや、もしかして男性は(すみなせん)と断っていたのかもしれない。またもや思い違いだ。恥ずかしかった。自分の単細胞を呪った。
以前、杖を使用した時期があった。車中で目立たないように隅に立っていても、肩をポンポンとたたいて、座るように言ってもらった。感謝した。
杖を捨ててからは、ほとんど声をかけられない。
ひと目見て、高齢者、妊産婦、体の不自由な人など、わかればいいが、目には見えないハンディを抱えているのに、カードもぶら下げられない人がいると思う。
見えるものには対応しやすいが、見えないものは、本人が申告しなければどうしようもない。
ハンディがある人に席を譲るのは当然なことであって、お礼を言われることも期待してはいけないのだろう。
しかし……、やっぱり「ありがとう」の一言は気持ちがいい。(譲ってよかった)と、単純にうれしい。
譲るときも、譲られるときも、相手の気持ちをよく考えなければならないと、改めて思った。
イラスト:Googleイラスト・フリーより