元気100教室 エッセイ・オピニオン

ストレスは必要なり  青山貴文

 新橋のエッセイ教室に通って、10年近くになる。

 毎月1回、エッセイ教室の穂高健一先生と十数人の生徒仲間とお会いし、事前に配布されたお互いの作品について批評しあう。
 当初、教室で褒められることは少なく、どうしようもない作品が多かった。それでも、10年近くやっていると、それなりの評価を頂くようになってきた。それらすべてを、必要に応じて修正し、選ぶことなく無作為に毎月1回、私のブログに載せている。

 上手く書けるときも、下手なときもある。ただ、書いているときは最良の作品を書こうと懸命に苦心している。
 エッセイ教室の仲間内では、書くネタが無くなったと思い込んだり、あるいは新たな習い事に注力する人など、この教室をやめていく人もいる。

 私も、そろそろやめるかなと思い詰めたりしていると、
「エッセイは書くネタがなくなってから、本当に味のある、読者に感動を与えられる作品が書けます」
 と、先生は私の心を見透かすようにおっしゃる。そのノウハウを求めて通っているが、未だにどのように書けばよいのかよく解らない。

 その一方で、以前と同じことを教室で聞いたにも関わらず、「あそうか、そこが問題であったか」とか、「こんな光った表現になるのか」とか、一瞬ひらめくことがある。自分の作文力が、先生の言うことを理解できる段階になり、閃いたのかもしれない。そして、自分のノウハウの一つに加わってくる。

『継続は力なり』とはよく言ったものだ。自分の力が、ほんの僅かに上向いてきたり、あるときは下向いたり蛇行しながらもほんの僅かに上昇してゆくのだと思う。
 よって、先生の助言を聞き漏らせないよう、エッセイ教室は休むことなく、毎回出席を心がけている。

 エッセイの投稿納期が近づいてくると、推敲中のエッセイ数編の中から、
(今月は、これにするか)
 と、選べばよいのだから、余り心労にはならない。心労は、健康に良くないというから、作文力の乏しい私には適切なやりかただ。

 ところが、手持ちの推敲中のエッセイが少なくなると、しだいに不安となり、大きな精神的な苦痛が生じてくる。何とか拙作でも良いから数編を書き上げ、推敲するエッセイ群の仲間にしている。
 それらを、数日、時間をかけて推敲する内に、思わぬ優れものに化ける時がある。だから、推敲は面白くてやめられない。

 油絵で、絵の具を混ぜ、塗り加えている内に、思わぬ傑作ができてくるのに似ている。どうも、私のエッセイは、偶然性が大きく影響しているようだ。
 一方、緊張感が無いと、人間いい加減になり、怠惰になるともいわれている。すなわち、少しの刺激は必要であると感じる。


 NHKの早朝4時過ぎのラジオに、「明日への言葉」という番組がある。一分野で事をなしとげた90歳前後の多くの方が、大切なことは「挑戦」だと語る。挑戦は、多大な苦痛を伴う。この苦痛が大切らしい。
 先日、この番組に出演され、多くの患者の心の病を治されてきた高橋幸枝医師が、
「私の今日あるは、挑戦であった。100歳になったので、ほんのチョット無理をすることにする」
 と、仰っておられた。
 百歳になったので、無理をせず、ゆっくりしようと言わず、少し無理をしようと言っておられた。人間、何歳になっても、少々のストレスは必要ということらしい。

 さすれば、私はまだまだ挑戦しなければならない。あと、20年は、生ある限り、挑戦しよう。ただ、この挑戦は、事を成し遂げた方の生き方だ。私のように中途半端な者は、もう少し楽しい方法を考えることも大切であろうと、逃げの手も考えている。ここに、事を成し遂げられなかった凡人のしたたかさがある。

 エッセイ教室は、毎回新しい短文を提出しなければならない。よって、都度、適度な刺激を与えてくれる。いいものを趣味にしたものだ。
 趣味の一つになったエッセイを書けなくなったら、自分の成長代もなくなった時と、あきらめようと考えている。

 若い頃、嫌っていた作文に、こうまでのめり込んだのは、なぜだろう。
多分、私のブログを多くの読者が待ってくれているからであろう。その読者の中には、適切な批評をくれる方もいる。
 自分でも上手く書けたエッセイだと思う時は、それなりの意見をくれる。不毛・不作のときは、やんわりとその改善点を突いてくれる。中には、核心を突いて、厳しく批評してくれる方もいる。どちらの批評もうれしいものだ。
 読者のために、いや自分のためにも、適量のストレスを頂きながら引き続いてエッセイを書くことにしよう。            

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