但馬国・出石城の仙石騒動って、なんて読むの? 紅葉が真っ盛り
幕末小説「桂小五郎・木戸孝允」の取材で、いまは各地を飛びまわっている。
長州藩兵ら2000人が、京都御所の蛤御門に突入を図った。かれらは敗れて逃走した。「禁門の変」である。
長州藩の京都留守居役(朝廷工作の責任者)だった桂小五郎も、追われて、兵庫県の但馬に逃げた。
隠れ住んだのが、但馬国の出石城下である。
藩主は千石家で、天保時代のお家騒動でも有名である。
関東在住のひとで、「但馬?」「出石?」「千石家?」がすんなり読めたら、そうとうの歴史通である。
出石(いずし)城は、兵庫県北東部の但馬(たじま)にある。
戦国時代は、山城で、有子山城が山頂にあった、赤い有子橋を渡っていきます。
これも、読みにくいな
有子山(ありこやま)城は、江戸時代は山麓に降りてきて、出石城となった。
この出石城「二の丸」は、紅葉がまさに盛りだった。
本丸への階段には、赤い鳥居が連続する。
稲荷神社かな、と思ったが、そうでもなかった。
黄葉も、見ごたえがあるな。
太鼓橋で、家族が紅葉を楽しんでいる。
大勢の人出だった。
紅葉ばかり見ていると、白堊(はくあ)の建築物も、みょうに新鮮に思える。
辰鼓楼(右手)は、時計台だった。
関東だとソバは信州だが、関西では出石だった。
江戸時代に信州上田の大名家が転封(てんぽう)し、そば好きの大名が家臣らとともに、そば職人をつれてきたという。
訪ねた日(2016年11月16日)が、出石自慢の『新ソバ大会』だった。
出石役場の前には、一人前(小皿・5皿)が500円である。見るからに市の職員や、近隣のお手伝いさんが懸命に働いていた。
旧・武家屋敷の銀杏は、青空にむかって映えていた。
いずこの寺院の境内も、紅葉で燃えている。
落ち葉を踏みしめる音は、じつにさわやかだった。
「宋鏡寺」は、沢庵和尚で有名である。ここら、タクアンが全国に広かったという。
桂小五郎は雑貨屋に扮装していた。
この通称・たくあん寺で、散策でも、来たかな、と思い浮かべてみた。逃亡者は心理的に、紅葉狩りのの余裕などないかな。
名刹は、夕方にかぎる。観光客はひとりもおらず。
無人で、静寂で、ひとり秋の情感を味わえる。
「出石資料館」に出むいた。建物は明治だった。
「出石城の甲冑」はいま土蔵が工事中で観られないといわれて、がっかりした。
受付の方が、あまりにもがっかりしていたからか、土蔵の内部が工事でないので、特別に閲覧させてくれた。
蔵の展示のなかで、歓声をあげたいくらいの、慶應4年3月の「太政官」令をみつけた。
明治政府は初年からキリスト弾圧をとった。この「太政官・令」が証拠品であり、英仏・アメリカから強い抗議で、撤去の要請が出てきた。
まだ、勝海舟と西郷隆盛の話し合いで江戸城が開城する前だった。
明治新政府は 「太政官」令のお触書で、戊辰戦争のさなかにもかかわらず、いきなり重大問題を起こしてしまったのだ。
桂小五郎(木戸孝允に名前を変える)は、長崎浦上の隠れキリシタンの処罰問題で、大きくかかわった。
さらに岩倉使節団が明治4年((1871年)年11月12日から明治61873)年9月まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された。副使に木戸孝允・大久保利通とした政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。
日米通商条約な欧米との条約改定の期限が、翌年に迫っていた。その交渉が主たる目的だった。
「キリスト教徒を弾圧する野蛮な国家と外交交渉をしない」
と剣もほろほろに扱われてしまった。
さらには、岩倉使節団は行く先々で、民衆から石も投げられた。結果として、どの国とも、条約改定の外交交渉はできなかつた。
かれらは帰国して、慌てて「太政官・令」の撤去を命じたのだ。
「出石資料館」受付の方に、よく「太政官・令」がありましたね。というと、「最近、お城の蔵から発見されたのですよ」
と教えてくれた。
お礼を言って立ち去った。
先々月は長崎、先月は萩、津和野、このキリスト教の「太政官・令」は見られなかった。まさか、この出石で見られるとは思いもかけなかった。