かつしかPPクラブ

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(3)郡山利行

【 3.中学生の時 】


 昭和35(1960)年4月、東京都目黒区立第十中学校に入学した。 

 1年E組、自宅のすぐ近くの山田君が同じクラスだった。 彼も本読みが大好きな戦記物少年で、自宅にはいっぱい持っていた。 筆者も負けずに古本屋通いした。


    本 『坂井三郎空戦記録』:坂井三郎

『坂井三郎空戦記録』は、戦記物単行本で、一番最初に読んだ。痛快ともいえる物語の展開で、戦闘機の空戦物読書の原点になった。

『空戦』は、P・クロステルマンという英国空軍に所属した、フラン人パイロットの、ヨーロッパ戦線での空戦記である。 坂井三郎氏のような華々しさはなく、冷静な幅広い視点での物語が、好きだった。


    本『戦艦大和ノ最期』:吉田満

 筆者の父は、太平洋戦争の時には、陸軍商船隊の軍属として、シンガポール、スマトラ方面で、輸送作戦に従事していた。 そのため、艦戦記も数多く読んだ。 その中でこの

『 戦艦大和ノ最期 』は、勇ましさがほとんどなく、何度も読み返した本である。 文語体調の漢字カタカナ文であり、いつも身が引き締まる思いで読んだ。

 1年生夏休みの林間学校での、山中湖一周サイクリングの模様を、宿題作文に書いた。 数枚の原稿用紙に、手書きの挿し絵まで書き、和とじ製本した。 書き出しの一行目が、先生の笛による合図のあとの、「さあ、出発だ。」 だった。 山中湖北部の平野の景色を、故郷の景色に重ね合わせた。
 この作文を授業の時、皆の前で先生が発表してくれて、以後の人生で、文を書くことが好きになった。

     映画 『 二十四の瞳 』

 映画 『二十四の瞳』 には、いろいろな思いがいっぱいである。≪銀座カンカン娘≫が、大石先生になって、自転車でさっそうと、岬の小学校に現れた。 筆者の小学一年生の担任、大楽先生のイメージに重なった。
 そして12人の子供達の青年時代まで、彼らに寄り添う姿が、中学二年の担任、会沢先生にも重なった。


    本 『 西部戦線異状なし 』:レマルク

 2年生の夏、10才年上の兄が、「 そんなに戦記物を読むのが好きなら、これを読んでみろ 」と買ってくれた1冊の文庫本、それが、レマルクの 『西部戦線異状なし』 である。

 二十歳前の主人公、パウル・ボイメル少年の視点で描かれた、戦場の様子と登場する人達の人間描写が、衝撃だった。後年になって見た同名の映画では、更に、この原作としての存在感に一段と感動した。


    本 『 風と共に去りぬ 』:M・ミッチェル

 3年生になった頃、姉が、「そろそろ文学全集も読みなさい、これは面白いわよ 」 と、ド
サッと目の前に置いたひとつが、『風と共に去りぬ』 である。 興奮気味に一気に読んだ。


    映画 『 グレン・ミラー物語 』

 3年生の秋、この1本の洋画に感動し、そして、熱狂的な軽音楽ファンになった。生まれて初めて買ってもらったLPレコードが、『グレン・ミラー・オーケストラ』だった。

    映画 『 七人の侍 』

 3年生の秋、生徒会主催の文化祭(10中祭)で、体育館で上映されて、初めて見た。七人の侍たちが、最高に恰好良かった。
 戦闘シーンの迫力にびっくりした。

    本 『 白鯨 』:H・メルヴィル

 読むことに夢中になった、数少ない小説のひとつである。 そして映画での、グレゴリー・ペックによるエイハブ船長は、興奮せずには見られない存在だった。

 そして映画 『白鯨』 の後に見た映画で、モビィ・ディックと共に太平洋に消えたエイハブ船長が、新聞記者になって、ローマのスペイン階段に現れた時は、映画というものの面白さを、楽しんだ。

    本 『 インカ帝国 』:泉靖一

 3年生の時、級友の一人伊澤君は、横浜方面から東横線で通学して来る、読書少年だった。
彼が、級友の誰も読まない、岩波新書なるものを、いつも平気で読んでいたので、つい真似をした。 彼に勧められたのが、この 『インカ帝国』 である。
 その後大量に読み親しんだ、同新書の、記念すべき第1冊目となった。

「インカ帝国を知ったのなら、この人の本はどうだ 」 と、兄が教えてくれたのが、ノルウェーのトール・ヘイエルダールという人類学者だった。

    本 『 コン・ティキ号探検記 』:T・ヘイエルダール

『インカ帝国』を読んだ後、続けて読んだヘイエルダールの著作、 『コン・ティキ号探検記』 と『アク・アク』である。 帆走のバルサ筏(いかだ)で、南米大陸から太平洋諸島への文明の伝播を、立証しようとした海洋冒険記と、イースター島の調査記録である。 


 夢中になって読みふけった。 そこで、決意した。 将来必ず、イースター島に自分も行ってみる、と。
 時に、1962年秋である。

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(2)郡山利行

【 2.小学校の時 ② 】

  絵画 『湖畔』 と 『読書』 :黒田清輝

 5年生の担任、大迫(おおさこ)先生は、図画が得意だった。 ある時鹿児島市の美術館で開催された、黒田清輝展に連れて行ってくれた。 

   『湖畔』は、筆者が生まれて初めて、女性を美しいと意識した絵である。 

  『読書』を見て、「台風の雨で濡れた本を、1ページずつめくっているところですか」
と、先生にたずねたら、あきれられた。
                      
 4年生の時、学校でバイオリンを習わされた。まったく弾けず、自然にやめた。

 学校から帰ると、日本の北から南まで、都道府県名と県庁所在地を、順番に全部言えないと、地理の知識が豊かだった母さんは、外に遊びに行かせてくれなかった。 


 日置から伊集院まで、8kmの武者行列。 上写真、前列中央で、左手に先頭提灯を持っているのが、筆者である。
5年生、初めての妙円寺参りだった。責善舎とは、鹿児島特有の地域内≪郷中教育≫の場のひとつで、薩摩藩士意識の源でもある。

 昭和34(1959)年3月、家族は鹿児島から、東京都目黒区に引っ越しした。同年4月から、筆者は同区立東根(ひがしね)小学校に転校した。6年4組、女性担任が高知県出身だったので、当時はやっていた流行歌 『南国土佐を後にして』 を、将来は民謡歌手とおだてられ、学芸会では独唱までした。

 6年の同じクラスに、宮崎県の西都原(さいとばる)出身の、宮城君がいた。同郷的な感覚をお互いに持ち、すぐに友達になった。 その彼は、鉛筆画で太平洋戦争当時の戦艦や戦闘機を描くのが、とても上手だった。

 それを真似したことで、筆者は≪戦記物少年≫になった。 絵の教本となる 『丸』 という戦記月刊誌は、新刊ではなく古本屋で買っていた。 そして、写真グラフ誌と同時に単行本も読むようになったのは、中学1年生になってからである。

                       【つづく】

自分史への試み「保育園から高校まで文化的な事がら」(1)郡山利行

 1.はじめに 
 筆者は、今年2017年に古希を迎える。サラリーマン人生39年間の終盤頃から、おぼろげに考えていた、家族・親類史と自分史作りについて、それを実現させるべく、行動を開始する。

 昭和29(1954)年4月1日は、鹿児島県日置(ひおき)郡日置村立日置小学校に入学した日である。 1年ろ組の担任は、25才の大楽(現姓・前屋敷)ミエ子先生だった。 昨年(2016年)春に、87才でお元気達者の大楽先生に、お会いした。

   4枚一組の写真は、筆者と大楽先生である。


 62年ぶりの先生から、筆者が小学校一年生の時に、どんな児童だったかを語ってもらった。 その喜びが、まず自分史作りに取り組もうかとの、引き金になった。

 上写真は、筆者の、日置小学校入学式の日、自宅玄関前庭での写真であり、同学年時の≪通信簿≫は、現存保有している実物である。 大楽先生に、「先生、ほら、これ」 と見せたら、まあ、と言って、とても照れていた。


 2.保育園~小学校の時 

 右写真は、昭和27年夏、外国航路船長だった父の会社の、神戸の家族宿泊施設にて、5才の筆者である。

 施設ロビーにあった蓄音機で、高峰秀子の、『銀座カンカン娘』のレコードを、何度も何度もかけて、一緒に大きな声で歌っていた。 筆者の母は、この写真を見るたびに、笑いながらそう語った。

 父が、神戸か横浜に帰港した時、田舎の家に送った荷物の中には、珍しい食品等がどっさり入っていた。

 ハーシーのキスチョコと板チョコ、ネッスルのコーヒー、バンホーテンのココア、そしてグレープフルーツなど(左写真)。

 舶来品との出会いだった。

  キスチョコは、母が時々しまう場所を変えていた。 でもちゃんと見つけてポケットに入れ、家の外に遊びに出て、友達にも分けて食べた時のおいしさは、今でも口に残っている。


> 映画 『シェーン』、『砂漠は生きている』

 筆者が5、6歳のころ、13才年上の姉が、鹿児島市で見せてくれた映画である。

『シェーン』では、ジョーイ少年が、シェーンの最後の決闘場所へ行く時、丘から滑るように駆け下る場面で、「がんばれー、急げ!」 と叫び、


『砂漠は生きている』では、見たこともない花が、スローモーションでパーッと開くシーンのたびに、
「 うわー、うわー!」
 と声を上げて喜んだのよと、姉はひやかすように語った。


 写真は、昭和31(1956)年4月、日置小学校3年生になってからのものである。2年生の時の担任、本田先生が、図画や習字のコンテストで入選した児童たちを集めて、記念撮影した。
 
   筆者は前列右端である。


  左写真は県知事の賞での、習字箱であるが、もう何十年も使っていない。

 右写真は、3年生も生担任だった本田先生の、図画の時間である。 写真左側の黒い上着のくりくり坊主の少年が筆者である。

                  【つづく】


新金線は大願成就なるか? 葛飾の夢をもとめて=櫻井 孝江

 葛飾区内には、北から常磐線、京成線(本線と押上線)、総武線(快速・各駅)が東西に横切っている。

小松橋から新小岩駅方面を写す

 しかし、南北を繋ぐ鉄道はない。亀有等から東西線の葛西へ行く時は、バスを利用するか、都心を通って大きく迂回して行くしか方法はない。

 不便を感じている区民もいた。そこで、金町・新小岩間にある線路(貨物の新金(しんきん)線(せん))の利用を旅客用に考えた人々がいた。記者もその一人であった。
 葛飾区内の南北の旅客鉄道の願いが、どのようになっているか 調べることにした。


明治30年12月27日(1897)   金町駅開業

大正15年7月1日(1926) 新金線開通(同時に新小岩操車場開設)

昭和3年7月10日(1928)    新小岩駅開業

操車場を停車場(駅)に変更した

昭和21年(1946)  新小岩駅にて貨物営業開始。

昭和38年(1963)  新中川開通(線路が一部変更になる。奥戸中学校あたり)

昭和39年(1964)  新金線電化

昭和43年(1968)  駅の貨物営業分離で、新小岩操車場駅開設

           操車場跡



・新金線のJR戸籍上は、総武線支線 貨物線である。

・区間は、新小岩信号場駅から金町駅迄である。

・距離は、6,6㎞の全線単線である。


2、新金線の今

 現在の新金線のダイヤは下記の10本である。

① 金町駅発➡新小岩駅着

   0027➡0038(日曜休)

   0624➡0635
 
   1017~1049➡1223~1053

   2131➡2141

   2250➡2301

② 新小岩駅発➡金町駅着

   1523➡1533(日曜休)

   1745➡1758

   1920➡1930

   1949➡1959

   2230➡2241

『新金線に沿って15ヶ所の踏切がある』

 新小岩寄りから、

 奥中区(おくなかく)道(どう)・立石大通り・細田・東京街道・耕道・耕道第二・小松川街道・高砂・新堀・新宿新道・柴又・浜街道・三重田街道・第二新宿道・新宿道である。

 (人・自転車のみ通行)

 新宿新道は、国道6号線と交差している。その他は、のどかな住宅地の中である。

 高砂付近で、金網で囲まれた線路を、金網の隙間から入って、反対側に歩いていく女性を見かけた。

  『これからの展望』

 葛飾区内の南北の鉄道がないので、バス路線が区内の隅々まで行き渡ってきた。新金線沿線を取材していると、かつて、旅客化・複線化を考えていたのではないか と思える場があった。

 新中川を渡る陸橋に沿って、橋脚がもう一列ある。

 橋を渡った線路沿いの一部には、盛り土が幅広くなっているところがある。線路際にある細田小学校の場所に駅を作る予定であった という噂もあった。

 葛飾区都市計画マスタープラン地域別まちづくり勉強会のまとめ(平成21年9月 6日)には、金町・新宿地域と奥戸・新小岩地域から 

○新金線の活用で旅客化できないか。


○電車を走らせなくても、既存線路を活用した新交通システムを活用したい。
 等の意見が出ていた。しかし、JRからは、「貨物線の廃止は、代替路線がないためできない。」と説明済みの返事であった。

 平成28年区議会でのくどう きくじ議員の質問にも同じ回答が寄せられている。

 区議のうめだ 信利さんが、今も新金線の活用を訴えている。

 旅客化となると、国道と交差している部分の問題などがあり、難しくなり、現実化は厳しいと分かった。

                          
                2016.9.19~10.4取材 10.28編集


【情報使用(写真、時刻表、文章)の場合は、下記のクレジットを明記してください】


     かつしかPPクラブ  櫻井 孝江

遥かなる貴金属宝飾加工 (上) =  郡山利行

 ネックレスの先端に飾られた、降り龍と昇り龍、一対の金細工の表と裏である。 石戸さんが、裏面の、金細工と赤めのうの全体を一体にする、枠組み(K18)を加工製作したもの。


『はじめに』
 貴金属宝飾加工業の職人の世界で、東京地区にはこの人の腕にかなう職人はいないといわれている人がいる。 石戸暉久(てるひさ)さんである。

 2013年夏に一度だけ、石戸さんの自宅2階にある作業場を、短時間ではあるが、見せてもらったことがある。 それ以来、貴金属宝飾加工業のことに、接する機会はなかった。
 本小冊子テーマ≪極≫を、『極める』 と意識して、石戸暉久さんの技の世界の一端を、記録として残したいとの願いを込めて、今年8月に取材を申し込んだ。

 【 2.石戸さんの作業場 】

石戸暉久(てるひさ)さん、1944(昭和19)年生まれ、葛飾区東四つ木4丁目、在住、71歳。

取材・撮影:2016(平成28)年8月4日

 昭和5年に、父三郎さんが創業して以来85年間の、貴金属加工である。
 暉久さんは、1968(昭和43)年、24歳の時にこの道に入り、いきなり父のもとではなく、まずは徒弟制度が生きていた外部の組織で、修行を積んだ。

 その後、自宅作業場は、父三郎さんが1階、息子の暉久さんが2階だった。 石戸さんは、父のかたくなな緻密さを、範と仰ぎ、自分の技術を築き上げてきた。 「この世界に入る前の化学研究所での経験が、執ような探求心につながったのかもしれません」 と、わが路を振り返った。
 「この部屋にはですね、父親の道具や作品の記録が、まだ山ほどあるんですよ」
 と、もの静かに語り、いくつかの引き出しを開けて見せてくれた。



 室内にある棚やテーブル、引き出しなど木製の設備は、ほとんど手造りで、写真(上)の引き出しのある収納設備は、
「私の小学校時代の机を改造したものですよ。 ペンチ、ヤットコ類のターンテーブルは、昔のレコードプレーヤーのものです」
 と解説する。


 【 3.思い出の作品  】

  父親の代から、個々人のお客さんの特注品だけに携わってきたので、お客さんの要望するデザインの細部まで確認し合い、製作したものである。
 これらの作品はそれ故に、それぞれ1個だけしかこの世に存在 しない。


紹介する作品は、石戸さんが手がけた仕事の記録として、撮影して残した写真データ(ほんの一部)を、複写させていただいたものである。


 写真上、2個のダイヤモンドの指輪。光る小さなダイヤを、びっしり隙間なく固定させてあるのが、比類なき特徴である。

 写真左、デザイン・ネックレス。

 
 葛飾区在住の、著名な芸術家に依頼された、最新の作品である。


 一対の龍の金細工は、芸術家の父の遺品。 日本刀の、柄(つか)にある目貫(めぬき)の、金の飾りである。


 亡き父への熱い想いを託され、石戸さんは、強く意気に感じて、宝飾加工に取組んだ。

 写真(右)は、超音波の洗浄器である。

 街の眼鏡屋の店先で見かける物の、古い工業用品である。 写真の細かい網目のかごに、小さなダイヤモンドや宝石等を入れて、洗浄する。


遥かなる貴金属宝飾加工 (中) =  郡山利行

 【 4.作業場にて  プラチナと金の加工  】


作業台は、独自に考案した、上下2段の幅広い引き出しがある。上段では金を、下段ではプラチナを加工する。


 作業台上部の中央には、ホウノキ製のスリ板が設置してある。 
 この板の先端が、貴金属加工での手作業・指先作業の加工場所となる。

 なぜホウノキなのですか。
「 この木は、やすりでこすった時に、ささくれず粉になるからです」
  と、即座に教えてくれた。

『 貴金属加工の、手作業一つひとつの基本動作は、緻密です。作品の細かい部品まで、すべて手作業で作っています。何年間という努力の最中に、ある日突然、新たな技術にふと気付くものです。 身体で会得した技術は、衰えることはありません。』

真っ先に実演してみせてくれたのは、金地金の削り粉に、ホウノキの削りくずや、鉄くず(やすり本体の削りくずや、欠けた糸ノコの刃など)が混ざったものから、これらを除去する作業だった。


 ブラシでかき集め、バーナーの火を当てると、ホウノキの削りくずは、パチパチと燃えた。 

 金は磁石に付かないので、この作業を繰り返すと、鉄くずなどは除去される。

「金粉は、後で溶かして使うので、不純物が残らないように、金の純度を損なわないように、とことん納得できるまでやります。」

個人経営の職人として、こだわりの典型のような作業ですね。


(1) 指輪のリング部分 (プラチナ)


「プラチナの加工を、少しやってみましょう」  1個の指輪の素材を、たたいて伸ばして、バーナーで熱して、またしてもたたいて伸ばすことだった。


 たたいて伸ばしながら、リングの太さと、半円形の断面になるように、やすりで削る作業を、繰り返した。

 そして、指輪の円形になるように、鉛台座で、たたいて少しずつ曲げられ、リング加工の一部分だけの、作業が進められた。


 リングの先端を糸ノコギリで切断して、半円形断面になっていることを確認してから、プラチナの表面のやすり掛けに進んだ。

 ホウノキ製スリ板先端での、作業である。


 半円形リングの一部を、何種類ものやすりで、プラチナの表面を削るというよりも、研ぐ作業だった。 終盤は、まさに磨く作業になり、石戸さんは、表面の光沢の変化を、「ほら、ほら」 と、見せてくれた。

「やすりの作業がね、この仕事の腕の良し悪しの、ほとんどなんですよ」
 と言ってから、
「私はね、完成したら見えなくなる所まで、磨きをかけます」
  とさらりと語った。

遥かなる貴金属宝飾加工 (下) =  郡山利行

(2) ミニミニ ペンダント (金)

K18の金の薄い板に、0.6mmの穴を、小型の専用ドリルであける。 これからが金の加工実演の始まりだった。
「せっかく穴をあけたから、糸ノコギリを使ってみるかな 」
と、極細の刃をセットして、
「このサイズの刃を、自在に使える職人は、ほとんどいないですよ 」
と、さりげない言葉だった。

 ひらがなで、一筆書きの字を一つ言ってください。 ≪と≫を、お願いしますと、筆者は要望してみた。

 金やプラチナを切り刻む、この糸ノコギリ技術は、石戸さんの得意技の一つでもある。

 糸ノコギリで、≪と≫ という字を切り抜くと、その金板を即興のデザインで、ひょうたん型に仕上げた。

そして、ひとしきり研磨作業を行った後に、直径2mmのリングを取り付けた。

 電気仮ロウ付け機で、金の小片に金の円形リングを、仮付けする。

 写真左上の黒い円形のものは、石戸さんの右目に装着された、接眼レンズである。

 仮付けされた円形リングは、そのあと加熱によりロウ付けされ、一体となった。
 
 そして超音波洗浄のあと、研磨されて、ピカピカになった。

 この日の実演で、石戸さんが、貴金属加工してくれた製品である。

① プラチナ指輪の、半円形断面 リングの、ほんの一部分。

② 金板に金のリングを取り付ける、ロウ付けという技術。

③ 長さ7mm、幅4mm、厚さ0.5mmの、ひょうたん型 ミニミニペンダント。

重さ0.2g、裏面にはK18の刻印が打たれた。


 貴金属宝飾加工の作業取材は、プラチナと金を、たたいて伸ばして曲げて、切断して削って接合して、仕上げは執念で磨き上げる。 今回は作業全体の、ほんのさわりだけらしいが、それでも6時間かけての実演だった。

ハイグレード商品として、お客さんに納品する作品は、はるかに時間を要するという。

【 6.編集後記 】

 石戸暉久さんを取材した、平成28年8月4日の午後は、猛暑だった。 作業場は自宅の2階にあるが、貴金属加工でたびたび使うバーナーの炎は、空気の動きで揺れると、温度が変わるので、微妙な場面では、石戸さんはエアコンの電源を切った。

「取材とはいえ、基本的な作業を続けていくうちに、次第に熱が入ってきましたよ」
 と、喜んでくれた。

 その結果が、6時間飲まず食わずの、ひと時だった。

 過去数十年間の、作品群の写真を見せていただきながら、痛感した。 貴金属宝飾加工という、あまりにも特殊な緻密で高度な技術は、予想を超えた遥かな世界であることを。

 その腕にかなう職人がいないという、石戸さん、会得した技術を、衰えさせないで欲しい。


 東四つ木地区関連の活動でお忙しい中、取材ご協力、ありがとうございました。

蜂に魅せられて = 田代 真智子

 まえがき

 京成押上線の四ツ木駅から歩いて7~8分のところに「はちみつ」の、のぼりが出ている建物があります。
 以前から自家製のはちみつを売っていて、はちみつ好きの私は、何度か買ったことがあります。
 時々見かけるご主人が、養蜂しているようだが、いったい屋上は、どうなっているのか、養蜂とは、どんなものなのか、どのように工夫してはちみつをつくっているのだろうか、どんな花が屋上にあるのだろうか、と好奇心をそそられていました。

 今回、テーマ「極める」はこれだと思い、勇気を出して取材を依頼しました。


 養蜂箱の上の段を取り出し、蜜蜂の様子を見せてくれているところ

      (取材・撮影2016年7月26日)


❽ 不思議な空間 ❽

 東四つ木は、古くから町工場が多く、準工業地帯です。特に緑が多いわけでもなく、商店街も店舗が減り、寂れて行きつつあり、華やかなイメージはありません。四ツ木駅から渋江商店街を通り抜け、しばらく行くと左側に目指す建物があります。

 梅雨明け前の曇り空の朝、心躍らせ、インターホンを押しました。
 さっそく案内していただいた建物の屋上では、そこには、10数個の養蜂箱が並んでいました。さらに音楽が流れていました。いつも『ラジオFMかつしか』をかけ、蜂たちに聞かせているという、なんともあたたかい思い付きでしょう。

 本業である印刷業の仕事場は、大きな機械が並んでいました。屋上への階段をあがると、蜂蜜を作る遠心分離器と採蜜のための道具がところ狭し、と並んでいます。棚の上には、キンカンも。
「刺されたら痛いよ。刺された時は、キンカン塗って終わり。もう慣れたよ」
 と腕をポンと叩く鎌田さんの笑顔は、なんとも幸せそうです。

 鎌田等さんは、昭和17年にこの地に生まれ、経営していた会社を息子さんに任せた後、趣味で養蜂を始めたのです。
「ボケ防止の趣味で養蜂している」
 と話してくれました。
 期待していた屋上には花園は無く、一角にまとめられたトマトの苗木や鉢植えがいくつかおいてあるだけです。いったい蜂は、どこから何の花の蜜を運んでくるのか聞いてみると
「百花(ひゃっか)」
 とユーモラスな答えが返ってきました。
 蜂は、3~4キロ飛んでいき、公園や玄関先の花に受粉して、花々を咲かせています。ここ周辺にも結構いろいろな果樹もあるのです。
 すぐ近くの渋江小学校や、前の児童遊園、コミュニティー通りなど、考えてみれば、一年を通してたくさんの花がこの近くで咲いています。


❽ すべて自分で ❽

  20~30年前に社会党本部で蜂を飼っている話を聞いたことがあり、興味を持っていましたが、きっかけは、ゴルフで那須に出かけた帰り道に蜂蜜屋さんに寄ったことでした。養蜂のやり方を本で学べることを知り、養蜂具店で西洋蜜蜂の道具を蜂とともに買い求め、独学で養蜂を始めたのだそうです。最初は、ニホンミツバチを飼いたかったが、野生で飼育が難しく諦めました。
 とは、言ってもセイヨウミツバチの養蜂が簡単な訳ではありません。失敗する人も多く、都内でも養蜂をしている人はいるけれど、実際の養蜂は、都会から離れたところでやっています。
 こうして鎌田さんのように都内の建物の屋上で養蜂に成功したのはめずらしいことなのです。

 巣箱を花のあるところまで運ぶ『移動養蜂』に対して鎌田さんのように一定の場所に巣箱を置いて採取することを『定置養蜂』と言います。
 巣箱は、白く塗り太陽熱の吸収を防ぎ、日中の屋上は高温になるので、養蜂箱をじかに置くことを避けて、酒屋さんからもらったビールケースの上に置かれています。こうしておくのは、通気性もよく湿気を防ぎ、病気にもなりにくいからです。
 採蜜の時期以外は、毎日様子を見に来る程度だが、採蜜から蜂蜜の製品化まですべて、自分でやっています。
 鎌田さんの手で可愛い容器に詰められた蜂蜜は『H.K.HONEY』となって売られていくのです。


❽ 蜂の習性 ❽

 蜂は、とても働き者で綺麗好き、巣箱の中は、きれいなのです。

 蜂の寿命は、1カ月位でひとつの巣箱に2~3万匹いる蜂は、死んでしまうと、仲間が葬ります。
 取材中にも死んだ仲間を運ぶ蜂が飛んで行きました。
 鎌田さんは、巣箱の周りに落ちている死骸を掃除の時に集め、街路樹の元に撒いて肥料にしています。

 巣箱の周りに、コガネムシが飛んでくると、蜂は集団で襲撃して退治するというのも面白い習性です。取材中に一匹のコガネムシがやってきましたが、残念ながら襲撃の現場を見ることはできませんでした。
 養蜂は、蜜のにおいでやってくる鳥やスズメバチ、とんぼなどの外敵から守る苦労もあります。蜂は、敵がくると入り口をふさいで侵入を防ぎます。

 ひとつの養蜂箱に女王蜂が、2匹になると、分蜂(ぶんぽう)と言って新しい巣を作るために集団で引っ越しをします。
 分蜂は、社会性昆虫にとって群れを増やす方法として重要な役割となる習性なのです。


❽ 特徴と利用法 ❽

 ハチミツは美味しいだけではありません。その特徴や利用法は、いろいろです。

 例えば、砂糖よりカロリーが低いことなどが、鎌田さんの作ったかわいいパンフレットに紹介されています。
「豆腐にハチミツもおいしいよ。コーヒーや紅茶に入れても良いし、歯磨きにも良い。いただいた緑茶を粉にして、ハチミツとヨーグルトを混ぜて食べても美味しい」
 と色々な食べ方や利用法を教えてくれました。

 蜜ろうからは、『ハンドクリーム』『リップクリーム』ができます。蜜ろうは、ミツバチの体から分泌されるロウ(ワックス)で、花粉と混ぜ合わせて巣を作ります。巣蜜であれば食べることもできます。
「養蜂は、ボケ防止でやっている」
 と話す鎌田さんですが、独学で養蜂を成功させ、仲間と情報を交換し交流をしています。
 この屋上には、たくさんの工夫と努力があり、何よりも蜂たちへの愛情があふれていました。


あとがき

 屋外で黄色やオレンジ色を着ていると、小さな虫がよってきます。私は、そんな経験から明るい色を避け、黒いTシャツを着て行ってしまいました。
 当日、蜂は、黒をこわがる話を聞いて刺されたらどうしようと、内心ハラハラドキドキでしたが、見ているうちに蜂が可愛く見えてきました。そんな気持ちを察してくれたのか、そばに行っても攻撃されませんでした。私を外敵とは思われなかったようです。
 それともいつも食べている大好きな蜂蜜のにおいがしたのでしょうか。蜂は、怖いものではなく、果樹に花を咲かせ、おいしいハチミツを生む働き者でした。

 鎌田さんのハチミツ『H.K.HONEY』は、TVでも放映され、取材の依頼も多くあるようです。お忙しい中、快く取材に応じていただき、ありがとうございました。

極めては、レイアウト = 馬塚志保子

6月14日、午前10時から金町駅南口の花壇の、植替えが行われた。
「フラワーキープの会」が葛飾区から花苗の支援を受けて、女性3人で管理している


土に腐葉土を混ぜる 2016.6.14



植え付けを待つ花苗たち 2016.6.14


朝一番で花苗が届いた。
花壇は数日前に整地されている。 
きのう一日降り続いた雨が上がって、一変、今日は真夏の暑さである。

リーダーの引地(ヒキチ)詔子(アキコ)さん(72歳)が花を配置した。それが終わると、大量の苗をひたすら植え付けていく。膝を痛めている引地さんは、しゃがむことができない。中腰の姿勢でずっと作業しているのだ。
「きれいだねえ」「ごくろうさん」
「いつもありがとう」
行き交う人々が、次々と声をかけていく。



中には立ち止まって見物したり、「我が家のガーデニング」の相談など、まるでイベント会場の実演現場のようだ。
「いつも、きれいな花を見せてもらっています」と言って、向かいのお蕎麦屋さんの女性(ひと)が、冷たいお茶を差し入れてくれた。

「みんな見てくれているんですね」
「だから、手を抜けないんですよ。ここは駅前なので、常に通行人に見られているでしょ。毎日、水やりと花がらを摘んでいます。撒水は通りを挟んだ、70m先の水道から、4ℓ入れのペットボトルで、一度に7本を自転車に積んで、3、4回運びます。私の当番の日は、朝5時に来て始めます」
「煙草の吸殻やジュース缶の、ポイ捨てはどうですか」
「吸殻はあります。でも、缶や瓶はありません。大勢の人が見てるからねぇ」


植え付けたばかりとは思えないような、出来栄えだ(写真上)。

「正面のペットボトルが気になるなあ~」と、
引地さんは、むき出しになっているボトルを、
二つのコンテナ花壇で挟んで隠した。
「大きなボトルだ」
「主人が飲んだ焼酎の空ボトルですよ」と言って、引地さんは豪快に笑った。二か所の花壇の作業が終わったのは、午後2時30分であった。

「いいねぇ」顔なじみのパトロール隊の二人が見に来た。
ここは、地域の人たちからも、こうして見守られているのである。


写真左から、フラワーキープの会の引地さん(リーダー)鹿嶋さん(後右)
樋口さん(前左)

前右の須藤さんは植え替えの時に、応援に駆け付けている。

今日は4人で作業した。


後日、水元公園グリーンプラザを尋ねて、引地さんを取材した。
「花壇の作業は“きれいだね”って、みんなに喜ばれることが一番うれしい」と、引地さんの笑顔が素敵だ。
「金町駅前の花壇は、いつからありましたか」
「最初はロータリーができた時点で、町会の牛乳屋さんが立ち上げました。フェンスも屋根もできていない頃です。その後、一度たちぎれて、5年前に区から頼まれて、私が一人で花壇を作り始めました。
困ったのは水。最初は交番で、お巡りさんが水道から汲んでくれました。
 次は公衆トイレからです。手洗用の水道は汲みにくいので、鍵を預かって、掃除用の太い蛇口を使わせてもらいました。
 ある時、緑化推進協力員として表彰された折に、区長との話の中で、

“私も花が大好きですよ。水のことは何とかしましょう”

 青木区長さんが《すぐやる課》に連絡してくれました。しばらくすると、今の場所に水道が引かれました。うれしかったです」と話した。

引地さんは12年前から、グリーンプラザ友の会で活動し、昨年までの10年間は、副会長(会員43名)を務めた。
8年前から緑化推進協力員を務め、各種研修会に参加している。千葉大の渡辺先生の授業では、
「緑と花のいこいガーデン」の花壇のひとつに、受講生が
実際にレイアウトに臨んだ。採用されたのは、
「なんと、元ふとん屋さんによる“布団の柄”でした。
四隅を仕切った“こういう曲線”は、私の発想にはありませんでした」と言って、机の上にその線を指で描いて熱く語った。
「レイアウトが大事」。
この人が、いつもきれいな駅前の花壇を、デザインしているのである。

                                                                                   【了】

西南戦争の激戦地・田原坂を訪ねる = 浦沢誠

 鹿児島で2泊し、地元の有志の方々と親睦を深めた。2016年7月21の早朝、郡山邸を発ち、田原坂(熊本県)に出むいた。

 伊集院駅から、各駅停車、新幹線で熊本、さらに各駅停車に乗り継ぎながら植木駅で下車した。

 

 植木駅前からタクシーに乗った。運転手には、多少は遠回りしてもいいから、激戦地を案内してほしい、と依頼した。
 植木の周辺はほとんど激戦地だった。一の坂、二の坂、三の坂の地形の説明を受けた。
「道幅が狭く、薩摩軍が待ち伏せし、大砲を運ぶ政府軍に襲いかかった」

 越すに越されぬ田原坂とは、政府軍の歌だった。

 その実、蜂起した薩摩軍が熊本まで来て、田原坂が越えられず、敗戦になったのかと思っていた。

 西南戦争(1877年)とは何か。

『旧薩摩藩士を中心とする士族が、明治新政府の専制的な政治に反対して起こした、国内最後の内戦で、明治維新の総仕上げであった』

 訪ねた熊本市田原坂西南戦争資料館では、そのように表示されていた。

 

 一般には、兵士の軍服の差、装備の差が勝敗を決したと言われているが、当時は国内に通信網が張り巡らされている最中で、熊本と東京は通信回線があった。兵士、弾薬の追加補充の連絡が即日にできた。

 情報の差が、政府軍と薩摩軍の差になった。

 現代の情報戦争の走りかも知れない。


 同館は昨年11月にリニュアルオープンした。

 銃弾の飛来音、砲弾が着弾した振動など、激しい戦いの体験・体感ができるジオラマ(広さ25平方メートル)がある。