かつしかPPクラブ

【わが町原動力】 立石の旧赤線地帯 (上)=郡山利行

1. はじめに

2. 立石の赤線地帯

3. 喜多向(きたむき)観音の縁日

4. 血液銀行

5. 編集後記・謝辞


【 1.はじめに 】
 2017(平成29)年10月30日に、『 葛飾区史 』が出版された。 1985(昭和60)年3月に発行された『 増補 葛飾区史 』 以来、32年ぶりである。

 前区史の分厚い上・中・下巻3冊の、見た目には辞典のような製本とは著しく異なり、新区史は、A4サイズに大型化して、博物館や美術館のカタログ誌のように、豪華な装丁である。(右写真と写真)。
 大きさは、横21.5cm、縦30.0cm、厚さ2.5cmで、本文全体395ページの上質厚紙製本のため、重さは1.363kgである。

 巻頭言で、青木克徳葛飾区長は、読みやすくわかりやすい区史にすることを心がけたと述べている。 東京23区では初めて、区のホームページに、『ウェブ版区史』 を開設したことと、子ども版区史も別冊で刊行したことを、同区長は、誇らしげに語っている。

 区史は、区役所3階の区政情報コーナーのほか、郷土と天文の博物館と葛飾中央図書館で、購入することができる。
 申し込めば郵送(費用は自己負担)でも可能である。 価格は、『葛飾区史』が2,100円で、『子ども葛飾区史』は1,100円である。

 筆者は、わがまちかつしかの現代史についていろいろな角度から、この数年間にわたり、見たり聞いたり、調べたりしてきた。 しかし今年2018年春にこの葛飾区史(以下新区史と表示)に接してから、わがまちの品格ってなんだろうと悩んだ。
 新区史では、第二次世界大戦後(以下戦後と表示)からの、葛飾の工業振興の代表的存在としてか、玩具産業が4ページにもわたって描かれている。

 しかしながら、多くの人達の生活の中で、存在感がとても強かった施設や行事(本ページ下部に記述)が、まったくとり上げられていない。

『葛飾から全国へ』という青木区長の強いメッセージでは、サッカー少年と亀有駅前交番巡査の二つの漫画と、柴又の食堂家族隣人たちの娯楽映画の紹介が、区史の12ページにも及んでいる。
 反面、日本国内どころか世界中に何人もいないような、技術や技能を持っている人が、区内の各所で今日も元気に活躍されておられる記事は、どこにもない。
 全国を越えて、世界にアピールできる人達なのに。

 さらに昭和22年のカスリーン台風水害での、葛飾区内住宅街の災害写真が、一枚も掲載されていないのは、なぜなんだろうと思わずにはいられない。

 立石地区には、かつて大きな存在であったが、区史をはじめとした、わがまちを報じるほかの公的刊行物で、記録されていないものが三つある。

 ①赤線地帯

 ②喜多向観音の縁日

 ③血液銀行である。

 この三つに共通しているのは、主に戦後に登場したことに始まる。そして、昭和20年代半ばから前半は同時に存在していたことである。 また、立石地区のみならず、葛飾の近隣から、東京を中心とした地域の人達にとっては、性的快楽と、ひと月に3回の娯楽・慰労の場所であり、低所得者の生活費稼ぎの施設だったことでもある。

 わがまちの品格と、こんにちへの人情と活力を考える糸口の情報を知りたくて、取材してみた。


【 2. 立石の赤線地帯 】

 1945(昭和20)年3月10日の東京大空襲で、総武線亀戸駅付近にあった花街は、焼け出された。 そこの業者の一部が、京成立石駅の北側にやってきて、同年6月に新たな店を数件こしらえたのが、立石の花街の始まりである。

 同年8月の終戦直後から、日本国政府は、占領軍向けの性的慰安施設を、積極的に用意した。
 立石には、亀有と同じに、アメリカ軍の黒人兵士だけが送り込まれたが、半年後の1946年3月には、性病のまん延を理由に占領軍兵士は立入禁止となった。

 政府による慰安施設は、公娼制度に基づいて運営されていたが、『施設』ではなくなったあとは、私娼地域として、営業が継続された。 その時、警察がこの地域を、地図上に赤い線で囲んだので、『赤線』 と呼ばれるようになった。 そして、昭和33年の売春防止法の施行まで、存在した。 

 その後、立石の赤線地帯は、飲食店やキャバレー街となり、今日までわずかながら、夜の灯をともし続けている。

 立石の赤線地帯に関する資料は、野中尚子さんによる、平成28年度、かつしか区民大学の『ゼミ 調べて書く葛飾 』 での作品が、詳しい。

画はつげ忠男さんが描いた、立石花街の、お姐さん達である。




 20歳前後の若い女性が大半を占めていたという。筆者がカメラを構えたとき、今にも窓が開いて、「お兄さん、きれいに撮ってよ!」 と、 手を振ってくれそうな気がした。



『散歩の達人 267号』より  つげ忠男:画 (P.24部分)

 つげ忠男さんは、少年の時の思い出を、画を載せた雑誌につづっている。 立石北口商店街の縁日で、アイスキャンデーを売るのを手伝ったとき、花街のお姐さん達がいつも買いに来てくれた。
 そして、くじ引きでセルロイド製のアヒルのおもちゃが当たった時の、彼女たちの無邪気な笑顔が、忘れられないと記す。

熊野神社大祭 立石映画館前にて、立石新地の皆さん 昭和28年頃町の文化と歴史をひも解く会:編  わが町のアルバム(写真集)
『 木根川・渋江・四ツ木・立石 界隈 』  平成27年6月刊 より 

 彼女たちは、交通安全運動や、街のお祭りなどの、地域活動にもかり出されて、宣伝にもなっていた。 

 昭和24年から、27、28年頃までが、立石赤線の全盛期だった。 全国から連れて来られた、彼女たちのその後の人生は、社会に登場してこない。

                        【つづく】

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