小説家

講演会『拾ケ堰と燃える山脈』の秘話=7月2日、先着500人(安曇野市)

 「穂高健一・講演会」が、7月2日に、開催される。場所は安曇野市豊科公民館・ホール。先着500人である。山岳歴史小説「燃える山脈」の新聞連載をおこなってくれた市民タイムスが主催し、後援は安曇野市、安曇野市教育委員会(予定)である。

 
 5月31日の新聞連載後、山と溪谷社から単行本が6月3日に、全国で販売された。即日に、売り切れて、6月17日に、二刷が発行された。

 8月11日「山の日」にむけて、松本・長野の人気が全国に広がっていくだろう、と期待している。


「講演内容」としては、歴史的事実と、フィクション小説との違いや類似性を語りたい。資料・史料は各地に点と点で存在する。その資料(史料)100%の枠組みのなかで、掘り下げていくのが学術書である。

 それを羅列(られつ)しただけでは小説にならない。歴史小説は、虚構で遊ぶ時代小説とはこれまたちがう。

 執筆に取りかかるまえの第一ステップは、徹底的に資料を掘りさげ、取材を積み重ね、より事実を知ることである。
 そのうえで、点と点を面にするのが、歴史小説家のしごとである。

 面にするためには作者の想像力が必要である。「想像力」、「記憶力」、「好奇心」、この三本柱は小説家の必要条件である。

 歴史小説は、おおむね8割が史実で、2割が想像の世界。この比率が最もバランスが取れているし、この2割が小説の魅力だともいわれている。


 私は瀬戸内の島出身で造船業の町で生まれ育った。農業は知らない。北アルプスは数十回登ったが、下山後に、安曇野市の町を歩いた経験などない。だから、現地の生活体験など皆無だ。信州・飛騨200年前の村名は、現在の地図において、ほとんど残されていない。

 高山市も今回の取材で初めて出むいた。

 何も知らない私が、すべてが取材のみで書き上げた作品である。文献まで取材だとすれば、100%が現地情報から組み立てた作品である。

「史料は時に嘘をつく」
「後世に書かれたものは、とかく嘘が多い」
 小説家むけの格言がある。だから、一つの事象に対して、裏付け、裏を取る作業を丹念にくり返す。これは必要不可欠な作業だ。

 検証して、私自身が納得できない資料はおもいきって切捨ててしまう。裁判でいう、証拠の不採用だ。歴史小説も証拠の採用か、不採用か、そのくり返しである。


「燃える山脈」は一つのテーマ「山の恩恵」の下で、「拾ケ堰」と「飛州新道」と「槍ヶ岳登山」それぞれが巨大な川の流れのように、時代と歴史をつくっていく物語である。

「小説は人間を描くこと」である。私には、これを文学作品にする、という強い意識がはたらきつづけていた。
 歴史年表で書くのではなく、、登場人物を一人ひとりたんねんに立ち上げてから、採用した資料・史料と密接に結びつけ、ストーリーを推し進めている。

 どのページの、どの人物も魅力的に克明に描かれている、という要素を最も重要視した。会話文からも、生命感が満ちあふれて、感動・共感を生みだす。1行とも、おろそかにしない真摯な執筆態度に徹してきた。

  歴史作家が100%に近いほど現地を知らずして、いかに小説を生みだすことができるのか。安曇野の講演会では、この『取材ノート』を披露しようと考えている。むろん、取材するほどに、信州と飛騨が好きになっていく過程をも語りたい。


 
 

第98回 元気に100エッセイ教室 = 結末について 

 作品の三大要素と言えば、

 ①テーマ

 ②書き出し

 ③結末である。

「テーマは絞り込む」、「書き出しは動きのある描写文」、「結末は読み終わって、拍手したくなる」。

①、②は作品を書き出す前の準備段階から、計算できる。また、そうすべきである。ただ、③結末となると、読んでみないと、良し悪しはわからない。

 作品が最後の争いとなると、結末勝負となる。それは読後感、余韻、全体の受け皿など、多種の要素がからむからである。

拙劣な結末」ならば、かんたんに列記できる。

 単なる幕引きはダメだし、締め括りの作者の説明だと失望する。

 落ちをつけると、小細工が目立ち、邪道になりやすい。まして、作中でも言ったことを二度出しすれば、息切れした作品におもえてしまう。


良い結末」にも、それなりの技法がある。

① まだこの続きがある、と思わせる終わり方にする。それには、最後の五分の一くらいは思いきりよく棄ててしまう。それが余韻になる。

② 作品のテーマを最後の1―3行で書き表す。作者が最も言いたかったことがこれか、と理解される。

③ 題名を結末のセンテンスで入れてみる。だから、この題名だったのか、と説得力が出でくる。

④ 書き出しの文章と、結末の文章を入れ替えてみる。双方がリンクしていれば、強い印象に結びつく。

⑤ ラスト一行は、「 」会話文で終わらず、短いセンテンスの地の文にする。

⑥ 予想もしていなかった、目新しい意外性で着地させる。作品が光る。

⑦ 作者があえて自分の心を観察する心理描写にする。読後感が強まる


 体操競技では、着地がぴたり決まる。それが妙技の演技になる。
 おなじことがエッセイの結末にも言える。「巧いな」と言わしめれば、それは作品全体をしっかり受け止めたよい結末である。

 ①~⑦を組み合わせると、それに近づけられる

第93回 元気に100エッセイ教室 = テーマの絞り込みについて

「この作品のテーマは何ですか」
 そう質問すると、作者が着想を語ったり、素材を語ったり、あらすじを語りったりする。テーマとは何か、それ自体がわかっていないからである。

「これは受けるはずだ」
 作者がそう思い込み、書きはじめても、テーマが決まっていないと、しだいに話がまとまらず、収集がつかなくなり、あげくの果てには頓挫してしまう。
 あるいは登場人物が多すぎたり、話が飛んでしまったり、脱線したり、無駄なものまで書き込んでしまう。

 結果として、エピソードは興味深いが、何を言いたかったのか、よく解らない作品になる。作者の頭のなかでは良品でも、アイデア倒れの作品になる。


(例)「この店舗は立地が良いが、従業員は不潔な身だしなみだ」(着想)

 勤め帰りの私は、駅前の惣菜屋に立ち寄った。餃子を買った。店員の白衣が汚れているから、手や指先までも汚く見える。他の客もきっと同じ気持ちだろう。こんな従業員はやめさせられないのかしら。……作文調であり、テーマは何か、読者にはわからない。

(例)「知人の展覧会はよかった。エッセイに書こう」(着想)

 電話で友人を誘うと、当日はヒマだという。最寄駅で待ち合わせをしてから、展覧会の会場に入る。割に混んでいた。知人の風景画は素晴らしいと、友人とお茶しながら感動を共有した。……単に、絵画鑑賞の流れにすぎない。


テーマ」とはなにか。作者が言いたいことを、一言で言い表せるものである

「口論もない夫婦には愛がない」

「一途な想いほど、結婚後は失望へと変わる」

「老夫婦は過去の憎しみまでも流せる」


ポイント

 テーマが決まれば、それを最後の一行にする気持ちで、書いていけば、良い作品が生まれます。
 
 斬新なテーマほど、読者を惹きつけます。

山岳歴史小説「燃える山脈」が6月3日に出版。予約販売中です

 祝「山の日」出版記念作品として、穂高健一著「燃える山脈」が5月31日で新聞連載が終り、6月3日より単行本として全国で発売されます。
 出版社は「山と渓谷社」(1600円+税)です。


 アマゾンなどネットで予約販売が開始されました。【このHPにある「燃える山脈」表紙(写真)の上で左クリックすれば、アマゾンに飛びます】

【同コーナーの出版社による内容紹介】


 上高地はウエストンの時代に拓かれたものと思われている方が多いなか、天保時代に「米の道」の飛州新道の中継地、槍ヶ岳登拝基地として開かれたことも知っていただきつつ、播隆上人による槍ヶ岳開山にかかわるエピソードなども絡め、天明大飢饉から続く歴史的事実を、ぜひ小説で味わっていただきたい。


 時代の流れに翻弄される安曇野の農民たち、徳川幕府の思惑、そして上高地の開拓の歴史を描いた長編歴史小説。


 天明3(1783)年、浅間山の噴火が引き金となって天明大飢饉が起きた。常念山脈の山麓・安曇平の農民たちは水不足で飢餓状態に陥るが、大庄屋、等々力孫一郎は奈良井川から15キロに及ぶ巨大な「拾ケ堰」の開削を計画、多々の悪条件を乗り越えて農水路を完成させる。

 新田開発が進み豊かな安曇平になったが、一方では過剰生産による米価の暴落が起きる。そこで米の販路を飛騨国へもとめるために、常念山脈(大滝山・蝶ヶ岳)、上高地、飛騨山脈(焼岳)を越える「米の道」の開削が進められる。


 安曇平の庄屋・岩岡伴次郎は私財を投げ打ち、上高地までの「伴次郎新道」を開削。上高地の湯屋(宿屋)の経営に乗り出し、娘の志由(13歳)に宿をまかせる。


 このころ播隆上人による槍ヶ岳の開山が行なわれ、上高地は飛州新道の中継地、槍ヶ岳登拝基地として期待されるようになるが、天保の大飢饉が発生。松本平から飛騨国へ米を運びたくても幕府直轄領の飛騨国は街道の開通を認めようとせず、湯屋は経営の危機に陥る。


 飛州新道が開通し、上高地が栄える日は果たして来るのか…。


※長野県中信地方(松本市、塩尻市、大町市など)の地方紙「市民タイムス」に連載中の人気小説「燃える山脈」を単行本化。

戦争抑止は民がなすべきだ。 「元気に百歳・エッセイ教室」90回の序文より

 歴史作家は歴史年表で書く。それはかならずしも史実ではない。

 数年前の国政選挙では、脱原発か、2~3%の経済成長か、と二つの政権が争った。国民は2~3%の成長を選んだうえ、憲法改正ができる3分の2の議席という大きな政権力を与えた。
『経済(食べること)が、政治を動かす』
 それは如実な証明だった。

 この国政選挙は、後世の歴史年表にはまず記されないだろう。では、どんなものが50年後、100年後の歴史小説に描かれるのだろうか。

 1945年から戦争孤児、満州引揚げ、安保騒動、公害の空気汚染、イタイタイ病・水俣病、浅間山荘事件、内ゲバ事件、地下鉄サリン事件、秋葉原無差別殺人、3・11東日本大地震、フクシマ原発事故とつづいてきた。

『とてつもなく危険な時代に生きていた』
 これを知りえた、後世の人はきっととてつもない時代に生きてきたと思うだろう。
 しかし、葛飾区内にすむ私は、これらの事件・事故とほとんど無関係だった。

 動乱期の幕末をみると、寺田屋事件、池田屋事件、禁門の変、第一次、第二次長州征伐、薩長同盟(実際には成立していない)は、倒幕活動へと結び付ける。

 そんな幕末小説がほとんどだ。当時の葛飾村の民は、京都・長崎・江戸の斬り合いなど、地下鉄サリン事件とおなじで、人々の話題にはなるが、庶民生活には関わりがない。


 江戸時代は『家』社会である。個人の考えは後回し。女は子どもを産み、男が「家風」に見合った教育をする。『お家のために』『お家の存続』がすべてに優先する。
 家臣は扶持をもらう「島津家のため」「毛利家のため」に尽くすとなる。それなのに、江戸時代を「藩」で見ていると、歴史の事実誤認を起こす。

 第二次長州征討で、将軍家の徳川家は長州藩を消す気持ちなどみじんもなかった。毛利家を叩きつぶす。それだけなのだ。
 毛利家を打ち負かしたら、長州藩の大名家はいずこかの「家」と入れ替えるのみ。

 毛利家の立場からみても、勝っても負けてもいない。現・山口県から火の粉を払ったにすぎない。
第二次長州征討の半ば、トップの德川家茂将軍が死去した。
「喪に服するから、各藩の軍隊はひとまず国もとに帰れ」
 と一方的に停戦しただけなのだ。
 慶喜はさらなる第三次攻撃を思慮していた。

 この戦争には大きな後遺症があった。国内経済が急激に悪化し、物価高騰で、庶民の生活は圧迫された。となると、武器を持たない民衆だが、許しておけない。大反発のパワーが「ええじゃないか運動」となり、愛知から広島・尾道まで、男女を問わず一気に荒れ狂ってしまった。
 
 将軍家の徳川家といえども、民衆に武力で鎮圧できない。為政者と民衆が血と血で戦うと、国家の破滅に及んでしまうからだ。

 徳川慶喜には外交能力はあるが、優秀な経済ブレーンがいなかった。
 結果として、「大政奉還」で、天皇家に政権を返上したのだ。だれも「徳川家」を倒していないのだ。これは倒幕ではなかった。

 「薩長による倒幕」は、明治政府が自分たちに都合よく作った、歴史のわい曲だった。


 攘夷(外国人へのテロ)を叫ぶ下級藩士たちが、戊辰戦争を引き起こした。そして、東京に明治軍事政権をつくった。
 政治家となった、毛利家の下級藩士の山縣有朋が武力主義で、明治6(1873)年に「徴兵令」を発布した。国民に武器を持たせたのだ。
 明治22(1889)年には、それを法律にまで昇格させた。それが第二次世界大戦まで77年間もつづいた。国家総動員令で、婦女子までも巻き込まれたのだ。

 戦国時代まで、戦争は武士のしごとだった。農商は戦場へと荷運びを手伝わされても、戦いが始まれば、逃げてもよいのだ。流れ弾に当たらなければ、畑仕事をしていてもよい。
 その意味において、国民皆兵を導入した山縣有朋の罪は末代までも重い。
 一度飲んだ麻薬の味は忘れられないという。

 私たちの子孫が、外交の失敗で戦争にでもなれば、自衛隊の隊員数だけでは国が守れない、国民皆兵制が早急に必要だ、と政治や軍人は言いだすに決っている。

 『戦争は起こさせない』
 それしか徴兵制を防ぐ道はないのだ。それには、他国にたいして強硬策を取れ、と民が熱くなったり、政府を突き上げたりしないことだ。
 日露戦争の前に、新聞が三国干渉のロシア攻撃をやたらくり返し、戦争へと誘導した。こうした先例があるだけに、マスコミの論調にも目を光らせておかないと、民がいつしか戦争への軌道に乗せられかねない。
 戦争をひとたび起したら、民は銃を持たされるのだ。「生ある人間を殺せ」と。そして、「みずからも死ね」と。


【補足】

 元気に百歳が主催する:「エッセイ教室」がことし(2016年)6月で、100回になります。10回ごとに、記念誌を発刊しています。私は記念誌の序文を書いています。それを随時取り上げてみます。 
 こんかいは元気に百歳:「エッセイ教室90回記念誌」 平成27年7月より

歴史の真実はとかく消される 「元気に百歳・エッセイ教室」80回の序文より

 江戸時代の260年間は国内外で、一度も戦争しなかった。しかし、明治時代に入ると、約10年に1度は海外で戦争する国家になった。広島・長崎の原爆投下まで77年間も軍事国家となった。外国から、日本人は戦争好きな国民に思われてしまった。

 だれが、こんな軍事国家にしたのか。さかのぼれば、戊辰戦争にたどり着く。それが幕末歴史小説「二十歳の炎」の執筆の動機だった。


 大政奉還、小御所会議で、天皇を頂点とした明治新政府が誕生した。世界に誇る平和裏の政権移譲だった。民主的な国家ができると、とかく軍事クーデターが起こりやすい。1か月もたたずして、鳥羽伏見の戦いが起きた。

 それは薩摩と長州の下級武士が、政権略奪を狙う軍事クーデターだった。

 戊辰戦争が終われば、かれら下級藩士らは東京に政権を樹立し、遷都もなく明治天皇を行幸の名のもとに江戸城に移した。
 京都の明治新政府は抜け殻になった。まさに軍事クーデターの成功で、ここに明治軍事政権が誕生した。そして、10年に一度は外国で戦争する軍事国家が生まれたのだ。

 京都の明治新政府と、東京の明治軍事政府とは別ものだと明瞭に教えないから、軍国主義への切り換えがわかりにくいのだ。


 歴史の真実はとかく消される。
 薩長土肥の明治政府が、広島浅野家の史料を封印してしまった。そのうえ、原爆で広島城も武家屋敷もなくなった。なおさら德川倒幕の真実が隠れてしまった。
「長州は、倒幕に役立つ藩ではなかった」
 禁門の変で長州藩は朝敵となった。

 京都に入れば、新撰組、会津・桑名の兵士に殺された。大政奉還はカヤの外だった。小御所会議の王政復古の大号令で、明治新政府ができた。ここまで朝敵の長州は関わっていない。それは自明の理である。それなのに、薩長倒幕だという。

 薩長同盟すら怪しげだ。木戸準一郎(木戸孝允)が薩摩藩との会合内容を手紙に記し、坂本龍馬に裏書させた、単なる備忘メモをもって強い薩長同盟が結ばれたかのように描いて誤認させてきたのだ。
 これまで歴史作家は、反戦・平和主義の広島藩を抜きにして、薩摩、長州、土佐の視点で小説を書いてきた。
 多くの歴史作家は、維新志士の美化に夢中だった。鳥羽伏見の戦いを軍事クーデターと捉えていない。かれらがその後の軍事国家をつくった危険な思想の持主だったという批判すら殆どなされていない。だから、日本人全体が、あやしげな幕末史に酔っていたのだ。


 龍馬伝説にも酔いすぎている。「船中八策」という表現は、幕末から明治時代の史料や文献に一言も出てこない。
 肉筆の「船中八策」も、あえていえば、偽物の「船中八策」も実在しない。

 坂本龍馬が船将で乗った「いろは丸」が紀州の大型軍艦と衝突し、沈没した。長崎奉行所の海事審判で、龍馬、後藤象二郎、岩崎弥太郎などは「金塊と西洋の最新銃を数百丁積んでいた」と脅し、徳川将軍のおひざ元の紀州藩から、8万3千両の賠償金をとった。
 最終的には7万両が支払われた。「龍馬だから正しい。嘘はつかないだろう」と学者も歴史作家も、

 紀州藩を悪者にして書いてきた。平成に入ると、沈没船・いろは丸の潜水調査が行われた。一言でいえば、船員の持物のガラクタばかり。

 いろは丸の船主だった大洲藩には1両も支払われた記録がない。龍馬や後藤は大うそつきだった。大政奉還は、その龍馬と後藤象二郎が知恵を絞ったとされてきた。広島浅野家の膨大な史料「藝藩志」から、でたらめな作り物だとわかった。

 私の小説の狙いは、歴史作家への批判だった。武器を売り歩く「死の商人」龍馬や、外国と武力で解決を図った(下関砲撃)(薩英戦争)、かれら薩長がまたしても鳥羽伏見でも戦う軍事思想を美化すると、私たちは歴史から学べず、将来の軍事への危うさが見えなくなる。
 こうした警告でもある。

【補足】

 元気に百歳が主催する:「エッセイ教室」がことし(2016年)6月で、100回になります。1年間に10回です(8、12月は休み)。10年間はいちども欠かさずに、教室が開講してきました。

 10回ごとに、記念誌を発刊しています。私は記念誌の序文を書いています。それを随時取り上げてみます。 

 こんかいは元気に百歳:「エッセイ教室80回記念誌」 平成26年7月より

故郷を想う、広島と福島と 「元気に百歳・エッセイ教室」70回の序文より

 真夏の太陽が海面にかがやく。波静かな海には富士山に似た大崎上島が浮かぶ。竹原港から乗った中型フェリーが、私の故郷の島に向かっている。この島には橋が架かっていない。瀬戸内海では数少ない離島の一つだ。

 東京に出てきたころ、「島育ち」は田舎者の代名詞のようで、人前で語るのは嫌いだった。故郷が恥ずかしいとさえ思ったものだ。

 本州や四国との間で橋が架かると、離島ではなくなる。大崎上島はいま瀬戸内海で最も大きな離島になった。淡路島、小豆島も離島でなくなったからだ。

 船を使わなければ渡れず、近代化や文化が遅れた、過疎の島と形容できる。しかし、不便さが却って人気となり、メディアに何かと取り上げられている、と島民が教えてくれた。不便さが今後の期待につながっている。故郷は静かに変貌しているのだ。


 大崎上島には血筋の身内がいない。それでも私は故郷に足を運ぶ。若いときには、あれほど帰省すら嫌だったのに、と思う。

「故郷は心の財産だな。精神的な支えだ」
上陸すれば、なおさらその想いが強まった。


 3・11東日本大震災から、2年半が経った。三陸の大津波の被災地は『海は憎まず』として発刊することができた。その後は、原発事故関連の取材で集中して福島に入り込んでいる。私の故郷に対する、見方、価値観がごく自然に変わってきた。

 双方を取材して、私なりに導いた定義がある。

『三陸は大津波による物理的な破壊、福島は精神的な破壊だった』
 福島・浜通りの住人は原発事故直後、恐怖ともに故郷から追い出された。そして流浪の民になった。

 原子炉の底から沈降した核燃料がメルトアウトしている可能性がある。地下水に触れているかも、と住民はそれを恐れる。
 数年先、数十年先に、高濃度の放射線に襲われるかもしれない。それすら現状では予測できない。住民はもはや故郷に帰りたくても、帰れない、流浪の民となってしまったのだ。

 年配者やお年寄りは故郷に帰って死にたい、と考える。若者は幼い子を放射線のなかで育てられない、と見限る。親子でも連帯感が失われる。夫婦においても考え方の違い、温度差から、離婚が増えている。
 故郷を失くした人の心はしだいに廃っていく。


 これら福島の人たちと取材で接すると、故郷がいかに大切なものかと解る。と同時に、広島県の離島が、私の人生の根っ子なのだと再認識させられた。

 このたび70回記念誌が発行できた。それぞれ創作の力量は高まり、完成度の高い作品や、生き方を味わえる良品が多い。実に、読み応えがある。

 エッセイは作者の体験・経験がベースになっている。だから、当事者の作者しか知り得なかった、貴重な証言であり、将来は研究資料、史料的な価値も予測される作品もある。
 滑稽なエピソードが、読み手としては楽しく愉快な作品もある。さらには夫婦、家族愛、人間愛から胸にジーンと響き、涙する作品もある。

 作者側から見れば、創作作品が冊子になっていると、いつでも読み返せる。人生を回帰できる。作品そのものが「心の故郷」になっているのだ。
 この意義は大きいと思う。


【補足】

 元気に百歳が主催する:「エッセイ教室」がことし(2016年)6月で、100回になります。10回ごとに、記念誌を発刊しています。私は記念誌の序文を書いています。それを随時取り上げてみます。 
 こんかいは元気に百歳:「エッセイ教室90回記念誌」 平成25年7月より

                          西原健次

第97回 元気100エッセイ教室 = 隠れ主語と大和ことばについて

 日本人には、主語や目的語がなくても、推察できる能力があります。その面では、古来から他民族に比べて、優秀だと言われてきた所以(ゆえん)があります。


「あれ、どうだった?」
「結構、いけるわよ」 
 こんな会話でも、前後の情況から、私たちの会話はながれていきます。

「よかったわよね、きのうのあれは」
「感動よね」
 手ぶり、身振り、顔の表情も入るので、主語がなくても、読み取れます。

「ちょっと、頼んでも、いい?」
「いいけどさ。いまはやめたほうがいいわよ」
 こんな会話もごく自然に成立します。


 古来から大和ことばの言いましにおいて、主語を抜いたほうが心優しくひびきます。

「なにとぞ、お聞き届けください」

「お返事を、心待ちにしております」

「身のほど知らずで、生意気なことを言うようですが」

 欧米人の方、あるいは東洋系の大陸のひとたちとの会話で、こうした大和ことば、隠れ主語の展開では意味が取れないケースがあります。


「なにとぞ、私のねがいをお聞き届けください」
「あなたのご返事を、私は心待ちにしています」
「身のほど知らずで、私は生意気なことを言うようですか」


 大和ことばならば、やはり主語のない方ほうが、流麗な心優しい表現になります。

 随筆はこうした大和ことばで書かれてきました。欧米からエッセイ手法が入り、主語・述語の文体が中心になりました。
 
 エッセイは「私」を中心において描かれます。少なくとも、日本人には、英語のように、「I」、「it」「there」と、主語を書かなくても、文意は読み取れます。
 と同時に、隠れ主語のほうが、大和ことばの手法から、文章が美しく、輝くときが多いのも事実です。

 それが昂じて「エッセイには、『私』は要らない」と指導する方もいます。しかし、これもていど問題です。
 初級の方にはは、文章力向上のためにも必要でしょう。

 上級になっても、すべて隠れ主語で、『私』が皆無になってしまうと、作品全体が平板に陥りやすくなります。盛り上がりに欠けてくるし、なにを強調したいのか、読み手には伝わりにくくなります。

 『強調したいところで、あえて私を挿入る」そうすれば、読み手の心を響かせられます。

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石川達三著「生きている兵隊」を読んで=招集兵で、戦争を考えよう

 戦争はひとたびおこると社会システム、個人生活、私的財産までも破壊してしまう。わたしたちにとって、戦争とは何か。太平洋戦争の戦場体験の日本人は、もはやほとんどいない。書物や写真で、戦争の実態を知り、読書で擬似体験しながら、戦争とはなにか、と常に自分自身に問いかける必要がある。
 
 西郷隆盛や山本元帥になった気で、わたしたちは歴史小説を読んでいる。敵と味方の戦力のちがい、戦術・戦略の頭脳の優劣を問う、そんな大将の立場にわが身をおいている。

 しかし、庶民のわたしたちは逆立ちしても、そんなお偉い人にはなれっこない。現況、大臣経験者でもないのだから、太平洋戦争にわが身をおいたところで、陸軍大臣、海軍大臣、首相なんて、とてもなれるはずがない。
 

  わたしたちは、冷酷無比な殺し合いの戦場にかり出された一等兵である。せいぜい小隊長くらい。敵兵と味方の兵の死体がごろごろ横たわる戦場で、弾薬や食料を運ぶ兵士くらいだろう。ときには慣れない銃を敵にむけて、不正確に発砲する。
 敵弾が頭上や周辺で破裂する。あすは死か。わが身をそこにおいて、戦争を考える。このたび石川達三著『生きている兵隊』(中央公論新社・571円+税)を読んで、招集兵のわが身を想像させられた。


 同書を教えてくれたのは、「かつしかPPクラブ」の郡山利行さんである。さかのぼること、約2年半前だった。
「戦前に、こんなすごい作家魂の芥川賞作家がいたんですね」
 感慨した郡山さんが、新聞記事のコピーを送ってくれた。 それは、朝日新聞(2013/07/29)夕刊に載った、石川達三「のんきな国民に不満」という見出しの記事だった。

『日中戦争を現地取材し、残虐性を持つ兵士の本当の姿を伝えようと石川達三(1905~85)が書いた小説「生きている兵隊」は、38年に発禁処分になった。「安寧秩序ほ乱す」として、有罪判決まで出た言論弾圧事件から75年』と書きだす。

 その裁判記録が遺族から、秋田市の記念堂に寄贈されたという内容だった。

『ふたたび戦争を是認するような世の中になったきた。戦争の過程で、真実を伝えようとする言論は必ず弾圧される。こういう事件があったことを知ってほしい』と、達三の長男・旺さんは記事のなかで語っている。

 郡山さんが勧めてくれた同記事は2年余り、脳裏のどこかに残っていた。

 石川達三は昭和35年に、第一回芥川龍之介賞に「蒼茫(そうぼう)」で受賞した。太宰治が第一回の同賞の選者に、ぜひ受賞させてほしい、と手紙を執拗に送っている。受賞作よりも、そちらの出来事の方が有名である。
 石川達三は戦後、日本ペンクラブ会長(第7代 1975 - 1977)も歴任している。


 ことし2月22日(月)に、日本文藝家協会で、文芸評論家・川村湊さんの講演があった。二次会で、山本源一さん(P.E.Nクラブ環境委員長)から、石川達三著「生きている兵隊」はすごいの連発で勧められた。
 とりあえず買っておいた。

「燃える山脈」の執筆の区切りがついたので、「生きている兵隊」を読んでみた。

 作中の日本人の兵隊が、非人道的な不法な行為に及んでいく。逃げる女を裸にし、暴虐し、刺し殺す。掠奪・強奪する。中国の非戦闘員にたいする殺戮などが次々に展開している。

 20代女性の乳房を軍刀で斬り取る。兵士が夜寝るときに、石を枕にするよりも、中国人の死体の腹部を枕にしたほうが柔らかくて寝心地が良いと記す。
 僧侶の兵士が、左手に数珠をもち、右手の鉈(なた)で敵兵の頭蓋骨を叩き割る。
 政府や軍部がつくった皇軍、聖戦、英霊という表現には、ほど遠い戦場描写である。

『作中の事件や場所はみな正確である』
 達三は後日述べている。

 戦前の言論弾圧が忍び寄る暗黒時代に、よくぞ、これだけの勇気ある文筆ができたものだ、と感心されるというか、おどろきである。官憲や軍部の影の力による達三抹殺、暗殺すらも、覚悟の上で執筆したのだろう。すくなくとも、達三は軍部のタブーはいっさい考慮していない。
 

 当時でも、現代でも、『言論・表現の自由』とは言いながらも、報道は真実を伝えていない面がある。自分たちメディアの不都合はタブー視している。為政者や権力者たちに迎合した画一的なものしか書かない傾向がある。
 戦争という真実を知らせるために、ここまで書ける達三の執念はすさまじい。これぞ、本物の作家だ。
「石川達三の作家魂。それが作家精神の基本である」
 大先輩を越えられるとは思っていないが、「生きている兵隊」を座右の書にし、フクシマ原発の取材・執筆へとむかう。

 

「二十歳の炎」が3刷で発刊=『幕末史のわい曲は国民のためにならない』

「歴史ものは腐らない」と出版業界で言われている。現代小説は時代を背景として展開される。時代の進歩は速く、作品がすぐに劣化していく。文学作品など顕著なものしか、読み継がれていかない傾向にある。
 
「歴史から学ぶ」という格言どおり、歴史小説は時代を問わず、読み継がれる。どんな時代になっても、古代から近代史まで、なにかしら学び取るものがある。

「二十歳の炎」が3刷として、ことし(2016年)3月25日に、重版となった。

 この作品が、広島を中心に読まれている。この先、全国へと広がれば、さらなる増刷も期待できるだろう。

 明治新政府は広島藩が目立ってもらったら困ると言い、広島浅野藩の「藝藩志(げいはんし)」を封印した。そして、薩長閥の政治家が、幕末史を歪曲した経緯がある。

 昭和53(1978)年まで、封印されていたから、過去の小説、歴志学者の論文、教科書すら、幕末広島藩は殆ど無記載だった。

 司馬遼太郎「竜馬がいく」すらも、昭和41年の刊行だから、広島藩はまったく加味していない。龍馬が芸州広島藩の軍艦を借りて、長崎から土佐に1000丁の最新銃を運んだ。
 龍馬がどういういきさつで広島藩から軍艦を借りられたのか。司馬氏すらも、「藝藩志」の存在を知らずして1行文で追求の筆が及んでいない。

 京都で中岡新太郎と坂本龍馬が暗殺された。龍馬と逢う約束で出向いたのが、広島藩の安保清康(あぼ きよやす)だ。もう一刻早ければ、と悔やまれる。かれが目にしたのは血の海だった。
 最初の発見者となった安保は、医者を呼び、厚く手当した。彼は霊山神社に遺体を埋葬した。

 安保は薩摩藩の海軍を育てた人物だ。明治以降は、陸軍=長州、海軍=薩摩、といわれる。安保は薩摩にとっても、日本海軍にとっても重要な存在だった。

 薩摩=龍馬と広島藩との関係は濃密だ。それが解らずして、「龍馬暗殺の真犯人は誰か」と問うても、殺害の動機とか、背景の理解には及ばないはずだ。
 

「二十歳の炎」の副題は『広島藩を知らずへして、幕末史を語るべからず』としている。
 
『幕末史のわい曲は国民のためにならない』
 この理念のもとに、私は「藝藩志」から幕末の事件や場所をより正確に書いた。

『幕府と朝廷と2カ所から政策が出てくるような、こんな国家はいずれ崩壊する。「朝敵の長州・毛利家をダシにして、薩長芸の6500人の軍隊で京都に挙がり、軍事圧力で徳川家を倒す」。広島浅野藩の最強のエリート志士たちは、それを見事に完遂させた』

 だれもが薩長同盟という。しかし、薩摩側の史料として、島津藩主が2藩の同盟に関わったとか、認めたとか、そんな証しは存在しない。トップが関わらずして(当時)国の同盟などあり得るはずがない。

 歴史的事実としては「薩長芸軍事同盟」が成立している。幕末に6500人の兵が広島藩・御手洗港から京都に向けて発進した。

 長州閥(山口)の政治家とすれば、広島浅野藩が「朝敵の長州・毛利家をダシにして倒幕した」という小ばかにした表記の「藝藩志」など、抹殺さなければ、明治政府のなかでいい恰好はできないのだ。

 隣りの広島はもともと毛利元就の出生地・聖地だ。広島城も、毛利家が築城した。広島がつねに高い位置に居て目障りの存在だったのだ。

 明治新政府は、「薩長芸軍事同盟」から、芸州広島を抜いて、薩長同盟に仕立てあげた。後世の小説家らが薩長を誇張したことで、独り歩きしてしまったのだ。

 長州閥が政治の中心に座ってきたのは明治新政府が東京にできた数年後からである。大村益次郎は暗殺される。山縣有朋が富国強兵の実権をもってから長州閥が強くなったのだ。

 最近の傾向として、鎌倉幕府が成立した年号が修正されたり、諸々史実が書きかえられたりしている。「薩長同盟」すらも、怪しげなものだと修正されてくるだろう。

 明治政府によってわい曲された幕末史。「二十歳の炎」はより史実に近い道筋をつける役目だと考えている。