小説家

被災地からの声「私たちを忘れないでほしい」=「ペンの日」懇親会

 日本ペンクラブ(PEN)は1935年11月26日に創立された。初代会長は島崎藤村である。毎年、創立記念日「ペンの日」を開催している。11月28日、東京会館、ローズ・ルーム(9階)で行われた。

 設立した当時、日本は満州事変後に国際連盟を脱退し、国際的に孤立に向かう、暗い世相の時だった。戦争国家へと突き進んでいった。作家たちへのきびしい言論弾圧にも耐え、生き永らえてきた団体である

 PENが設立する2年前、1933年3月3日に昭和三陸地震が起きている。地震は震度5だったが、津波の高さは最大で28.7m(現・大船渡市)にも達し、大勢の犠牲者を出している。


 2011年は「3.11」という途轍もない巨大な地震が東日本を襲った。地震、津波、さらに原発事故というトリプルの大被害となった。大都市・東京すらも、帰宅難民が出るほどで、都市機能が一時停止した。 日本人はそれら映像を目にし、大自然の猛威と恐怖に打ちのめされた。と同時に、日本は再生できるのか、どうなるのか、いっときは途方に暮れたものだ。

 いまは災害復興の兆しはあるけれど、傷跡は深く残っている。作家たちは被災地に入り、文学として何をなすべきか、とそれぞれ向かい合っている。
「ペンの日」の挨拶でも、3.11が取り上げられた。

浅田次郎会長の挨拶
「3.11は大変な事故、事件でした。ほかの作家の方に比べると、私は地震、津波、放射能について原稿を寄せていない。私としては、今までの仕事を全うすることが大切。自分がやってきたこと、自分の蓄積してきたものを変えたり疎かにしたりしない。それがいま一番必要な力ではないか、と考えて過ごしてきました」


来賓祝辞、日本文芸家協会の篠会長

 同協会とPENの会員とが重なっている作家が多く、兄弟のような役割と存在である、と前置きしてから、
「わが協会はへっぴり腰ですが、PENは海外との文化交流、言論の自由に対する諸活動が活発です。堀さんが国際ペンの専務理事になり、この重苦しい時代に、海外との文化交流がいっそう伸びやかに進展されることでしょう。

PENは災害と環境の問題にも取り組んできたし、浅田会長になって、『脱原発を考えるペンクラブの集い』が300人を超える盛会だったそうです。うらやましく伺いました」と述べた。
 
 ことし公益法人になった同協会は、相互扶助のみならず、文化活動をより推進していくことになった。7月からは毎月、文春ビル5階の会議室で文芸サロンを開催している。

 11月度は50人の満員のなか、俳人の鷹羽狩行さんと篠会長と対談で、『俳人・歌人はいま……東日本大震災と「ことばのちから」について』と題した熱ぽく語ったと紹介した。

「関東大震災のときは、(短詩形は)素朴なリアリズムが持っていたし、言葉を煎じきっていた。これは強いですね。現代の俳人・歌人はどうあるべきか。より一層、レトリックに磨きをかけ、個人の着想としての、うずき、儚さ、空しさ、痛み、そういうものをどう表現するかです」

 このトークショウの場で、松本の宮坂静生さん(俳人)が、仙台の会員の俳句を紹介した。篠会長は傑作だと思ったと言い、それを朗読した。
『春夕焼 海を憎むと誰(た)も言はず』 専門家の句ではないが、見事だな、と思ったという。

 PEN・企画事業委員会のカメラマンの杉山晃造さんと 山本幸一さんは、3.11の直後に、災害現場に飛んでいる。被災地の写真が同会場に展示されていた。

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東日本大震災の(小説)取材ノート=陸前高田で、あの両親が死す(4)

 11月15日、陸前高田に入った。気温が3℃で、ミゾレが降る。広大な市街地は跡形もなく、いまや想像を超えた、巨大な荒野だった。
 3.11の大津波で、倒壊した家屋や建造物はすでにシャベルカーなどで整地された、人気すらない、「無」の世界だった。それが却って、数千人の死者に取り囲まれているような、得体のしれない不気味な戦慄すら覚えた。

「広島の原爆投下の後とおなじだな」
 それが率直な印象だった。1945年、広島に原爆が投下され、大火炎で市街地のすべてが焼かれてしまった。見渡すかぎり焼け野原となり、建造物は唯一、原爆ドームだった。

 廃虚の高田市役所の近くに車を停めた。降りて建物を凝視した。天井が落ち、各階の窓がすへで割れ、漂流物の流木や布類が絡まる、無残な姿をさらしだす。広島原爆ドームと、どこか類似するものを感じた。

 私がこの陸前高田にきたのは、約20年前だった。ある企業の人事部に勤務していた私は、求人の挨拶を兼ねて高田高校を訪ねた。同高出身者には、卓球(団体)で県大会準優勝、東北大会の出場経験ある、脇本久美さんがいた。彼女にとっては、社会人になって、私が最初の上司だった。そんなことから、高校訪問の後、彼女の自宅に立ち寄って挨拶した。

 彼女の両親はクリーニング店を経営していた。夫婦して思いのほか歓待してくれた。そのうえ、父親が美しい松原の海岸まで案内してくれた。実に見事な風景だった。父親が郷土自慢の口調で、海岸の特徴を語ってくれたことが印象に残る。

 3.11の大津波が強烈な破壊力で、高田の海岸線を乗り越え、市街地を襲った。平坦な市街地は広域に濁流の渦になり、阿鼻叫喚の地獄絵となった。逃げ惑う高田消防団員がビデオで撮っていた。映像は前後左右、逆さま、悲鳴が続く。それは撮影できたというよりも、ビデオカメラが回り続けて記録されていたというべきだろう。高田市は2千人以上の大勢の犠牲者を出した。

 3.11以降、脇本クリーニング店の両親の安否が気になっていた。しかし、脇本久美さんは結婚退職し、その後の音信などない。月日が流れた。9月末に、小さな手がかりから、脇本クリーニング店の両親と、消防団員だった弟さんの3人が亡くなった、と聞いた。胸が痛んだ。


 私が東日本大震災の現地取材を決めて、東北へのチケットを買い求めた11月初旬、彼女から不意に電話がかかってきた。連絡がついたのだ。
 父親と弟さんの遺体は早くに見つかった。母親は長く行方不明だったという。約半年後、8月末に遺体が瓦礫の下から見つかり、DNA鑑定で死が決定づけられたと語った。
この間、彼女は数多くの棺を見て回ったようだ。
「私の結婚式の写真が2キロ先で見つかったんですよ」
 こうした話をふくめて約45分ほど、当時からの状況を聞いた。

 高田に入った私は、脇本クリーニング店の場所を特定したうえで、そこで3人の冥福を祈りたかった。
(店舗は市役所に近かったが、どこにあったのか?)
 住民から場所を教えてもらいたくても、気温が3℃だと、見渡すかぎり歩く人などいない。ただ、碁盤の形状の道だけが視野に入る。

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東日本大震災の(小説)取材ノート(3)=阿鼻地獄を見てきた顔

 仙台市に隣接する名取市の、閖上(ゆりあげ)漁港に出むいた。町は死んだというよりも、消えていた。視界のなかで確認できる構造物となると、破壊された東禅寺、1階が吹きさらしとなった笹カマボコの工場、そして原形が残る閖上中学校の三階建て校舎のみだった。他はすべて整地された更地で、建物の区画がわかる土台だけが残る、『無』の世界である。

「ここは魚市場だったんですよ。跡形もないけれど」
 その敷地の横で、佐野謙三さんが車を停めた。閖上は赤貝、ほっき貝の有名な産地だという。
「港に係留する、漁船がまったくいなくなった。大震災の前は、この岸壁には漁船がびっしり詰まり、釣り人が竿を投げる隙間もないほどだったのに……」
 と謙三さんは絶句していた。いまや漁船は10隻にも満たない。

「仙台や名取の人はだれもが、大地震のあと津波がここに来るとは予想していなかったんです」
 3.11の大津波は約8メートルの高さで、海岸から襲いかかってきた。仙台平野は海岸からどこまでも平坦な地形だ。大津波の速度と勢いは収まらず、住民のほうは使い慣れた車で避難しようとした。だが、大渋滞で逃げきれなかった。

 大津波は港の漁船を陸上の奥まで打ち上げ、人家をことごとく破壊し、人々の命を一度に奪っていった。数千人が逃げ切れずに死んだのだ。


 7か月経ったいま、閖上の建造物や構造物の残骸や残材が、海岸の一角に集積されていた。5メートルほどの廃材の山が幾つも目立つ。それぞれ複数のシャベルカーが荒々しくつかみあげてダンプカーに積み込む。海岸から町全体を見渡しても、動きのある光景はその一連の作業しかなかった。
 
 周辺には古墳の形状に似た、高さ10メートルの盛り土が幾つもある。瓦礫撤廃の作業者たちが、もし次なる大津波に襲われたときに逃げる高台だという。

 漁港だけに、船を海上から陸に引き揚げる船台レールがある。ひん曲がっている。その先には倒壊家屋の廃材、ゴムタイヤ、布団、漁具、家具、材木とあらゆるものが山積みされていた。一区画だけでも7台のシャベルカーがそのアームをせわしなく動かしていた。

 約3メートルほど離れた場所には、木製の険しい形相の仏像が一体置かれていた。しゃがんで手を合わせると、目線がちょうど合う高さだった。その顔は目がつりあがり、口もとは歪み、いまなお阿鼻地獄のなかにいる表情に思えた。
 仏像を見つけた作業員が、おおかた廃棄物として処理するには忍び難く、取りおいているのだろう。安置して供養されている様子ではない。いましがた発見された像かもしれない。

 私がいつまでも凝視していると、仏像のほうから、
「住民はみな平穏に生きていたのに、一瞬にして死者となり、今なお無間地獄をさ迷い、苦しみを受けている。あなたの筆で、世に知らせてほしい」
 と訴えている表情に思えた。少なくとも、仏像が私の心をとらえて放さなかった。

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東日本大震災の(小説)取材ノート(2)=二つの偶然で、命拾い

 大災害とか、大事故には生と死を分ける、偶然性のドラマは必ずある。そのまま小説化すると、却ってリアリティーのない作品になってしまうから不思議だ。

 長年使ってきた血圧計が3.11にふいに不具合になる。それが一日違いならば、佐野謙三さん(65)は間違いなく死んでいたという。絶妙なタイミングで命拾いしている。

 謙三さんは2年前にJR関連会社をリタイアしている。奥さんはいまも勤務を続けるので、かれが家事を受け持ち、朝、昼、夜、とタイムスケジュールで日々を過ごす。同居する92歳の父親・良蔵さんの世話も組み込まれている。

 謙三さんにとって、自由な時間は昼食後からである。かれは乗用車で、仙台市若林区の荒浜から名取市の海岸(スポットとしては6カ所)に出向き、好きな海釣りをしたり、ウォーキングをしたりする。それが日課の一つ。
「家の回りのウォーキングは、リタイア老人に成り下がったようで、一切しないんです」

 海が大好き人間。10年前に亡くなった、母親譲りだという。

「母親は四国・今治市出身で、幼少女の頃から海釣が大好きだったそうです。看護婦になり、満州の病院に勤務し、そこで結婚し、終戦後に引き揚げてきてから、父の故郷である仙台で半生を過ごしています」
 母親は瀬戸内に里帰りしても、伝馬船で毎日沖に出て、一本釣りで大きな魚を釣り上げていた。

「ボクは母の里帰りの夏休みが、最大の楽しみでした。祖父母が瀬戸内の島暮らしでしたから、もう釣り三昧です」
 歳月が流れて、母親は80代になった。それでも海釣りが大好きだったという。謙三さんは勤務先が休みになると、親孝行のつもりで、母を仙台港まで車で連れて行き、夕方になると迎えに行っていた。
「釣りは集中力ですね。ボクの3倍は釣っていました。『お婆ちゃんが、こんなにもたくさん釣ってる』と岸壁で覗き込む人はみな驚いていました。血筋ですね、ボクはともかく海が大好きなんです」

 そんなふうに語る謙三さんの話が、3.11に及んだ。
 92歳の父親が、今朝から血圧計の調子が悪いという。謙三さんが点検しても不具合が生じる。
「もう寿命だから、買い替えた方が良いよ」
 高年齢者の血圧測定は大切である。どうせ買うなら、早い方がよいだろう、と考えた謙三さんは、昼食後の片付けが一段落すると、海辺のウォーキングは後回しに決めてから、乗用車で仙台駅前の量販店に向かった。

 ものの数分、陸上自衛隊駐屯地の横にさしかかった時、車体が大きく上下左右に揺れた、さらにバンドする。急停止した謙三さんは車から出ても、立っていられず、両手をついたと話す。激しい余震が続けざまにきた。これでは量販店に行っても、営業停止だろう。

 そう判断すると、かれは自家に引き返してきた。父親は無事だった。家のなかは家具や食器などが散乱しており、片づけを始めたという。

「3月はまだ寒いし、窓を閉め切って片付けをしていました。自衛隊駐屯地が近くて、すべての窓が防音ガラスなんです。だから、防災無線が聞こえず、津波による避難の呼びかけもわからず、ずっと家にいました。電気が止まり、TVも見られず、状況がまったく判りませんでした」
 謙三さんは周辺住宅で、避難せずはきっとわが家だけだろう、と苦笑する。

 大地震の後に津波がくる。その考えはなかったのですか、と聞くと、「仙台には大津波の歴史がないし、大地震=仙台に津波がくる。その考えはまったくありませんでした。ぼくが海岸でウォーキングしていても、津波は警戒しなかったでしょう。それは三陸のリアス式海岸の話だという先入観がありましたから。ボクは間違いなく津波にのみこまれていたはずです」と話す。
 
 3.11で、宮城県が大津波で未曽有の死者と行方不明者を出したのは、謙三さんと同じ考えだったからだろう。と同時に、仙台平野はどこまでも海岸との高低差がなく、三陸海岸のように裏山がないので、津波被害が広域に出たのだ。
 
 かれはもう一つ幸運を語る。

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東日本大震災の(小説)取材ノート(1)=原爆ドームから仙台・若林区へ

 2011年3月16日13時46分に、巨大地震の東日本大震災が発生した。その直後から、ジャーナリストたちが現場から生々しく状況を報道してきた。とくに大手マスコミは機動力にものを言わせ、世界に向けて大惨事を発信してきた。
 一方で、全国から大勢のボランティアが東北地方の現地に入り、復旧に手を貸してきた。

 大災害から2か月、3か月と月日は経っていく。
 「私には何ができるのだろうか」
 と常に自分に問いつづけてきた。この際は被災地に飛んでいき、被災者への援助、手助け、片付けなど体力を使うべきだろうか。と同時に、一度は大災害の生々しい現場、リアルな状況を見ておくべきではないか、という衝動に駆られていた。
 そうではない。私は作家として、なにか別の役割があるはずだ、と圧えた。

「文学は災害に対して何ができるか」
 作家の立場で、被災者一人ひとり、あるいは一家族と向き合う。そして、小説で書き残す、それしかないと結論づけた。

 早くに被災地に入れば、大自然の恐怖、倒壊、破壊の物理的な惨事に目を奪われてしまい、私自身が距離感をなくすだろう。距離感のない作品は、作者の空回りで、駄作になってしまう。

 小説は災害の惨(むご)を伝えるものではない。数奇な運命を語るものではない。大震災で、人間の生き方、考え方、ものの見方がどう変わったのか。そこを書くのだ。小説は報道ではない、人間を書くことだ、と律してきた。

 個人商店のような小説家の出番は、災害発生から約半年が経った頃かな、とあえて抑えてきた。とはいっても、被災現場が漸次片付けられていく。やがて災害の痕跡がなくなり、何も書けないのではないか。その焦燥感がたえず付きまとっていた。
 
 11月半ば、行動を起こすことに決めた。大津波の被災地となった仙台市・若葉区、名取市、陸前高田市を当座の取材先とした。

 その1週間前の11月7日、私は広島原爆ドームの前に立っていた。大勢が火炎や白血病で死んだ、投下後の様子(資料から)を思い浮かべた。太田川の川船にも乗ってみた。私が小学校低学年の頃、川沿いは被災者のバラック建がずらり並んでいた。
 一方で、大災害を小説として書くのは何十年ぶりだろうと、考えていた。

 小説習作時代、おおかた30代後半のころ、私は原爆投下後の、両親を失った悲惨な兄妹を書いた。まずは広島平和記念資料館で、原爆関連資料を徹底して読み込み、焼けただれた人間の写真なども脳裏に刻みこんだ。原爆の恐怖が夢に出てくるまで熟知したうえで、ストーリーを構成し、書き上げた。

 恩師の伊藤桂一氏から、「これは児童文学だね。環境は厳しいけど、低いところでまとまっている。小説はもっと厳しく書かないとダメだよ」と酷評された。それが理解できるまで、十数年かかった。

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第53回・元気に100エッセイ教室=紀行エッセイの書き方

 江戸時代は日本橋から京都まで、「東海道五十三次」を徒歩で行く。一日中歩いて、まず品川宿に着く。旅籠で宿泊し、翌日も次なる宿場町・川崎にむかって足を運ぶ。53日間がすべて晴れている、それはあり得ない。風雪を考えると、旅人は大変な苦労をしたと思える。


 毎月1回の作品提出のエッセイ教室が53回を迎えた。(8月と12月は休み)。5年以上も、「次は何を書くかな」と頭はつねに休む間もなく、考え続ける。

 講師の私からは、「病気、孫、自慢話し」は書かないでください。そんな条件付きだから、書く材料・素材が枯渇した気持ちにも陥ったことだろう。

「楽にすらすら書かない。隠したいこと、伏せてきたこと、恥部を描くように。苦しんで書く」という付帯条件もある。となると、妻子や友人に作品をみられたら? とプレッシャーが生じてくる。

 書きあがった初稿は、数日寝かせ、大きな声を出して読み、圧縮と省略を図り、無駄な文言を削るように。そうなると、作品の仕上がりにも時間がかかる。

 徒歩で行く「東海道五十三次」と、5年間エッセイの筆を執る。どっちが楽か、苦しいか。ともに体験者でなければ、回答が出ないだろう。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(下)

 田老地区にはすでに強大な防浪堤があった。ところが、60年代に新たな防波堤が角度を変えて着工された。1979年には新堤防ができた。この防波堤は、津波に向かって正面から受け止める、という考え方で作られたものだった。

 古い堤防が一つの時、堤の外側はワカメの干し場、漁業の作業場だった。角度が違う、新たな防波堤ができると、新旧はX型になり、そこには中間の空き地ができた。
 二つ堤防の組み合わせだから、町の人は二重に守られている、と考えた。中間地の空き地は出入りができることから、家が建ちはじめた。当時は、核家族時代の到来で、人口が増えないが、家が必要になってきたころだった。130、140軒ほどできた。

 3.11災害被害で、二つの堤防を持った田老地区は他の地域と歴然とした差があった。新旧の中間地点に建つ家が全壊し、死んだ人も多数。一番被害の多い地域となってしまった。

「新しい堤防の内側は、きれいさっぱ流されています。古い堤防の内側には瓦礫(がれき)が、ふつうの町の4倍から5倍ありました。一瞬、町全体(新旧の中間の町)が巨大なバスタブだと思いました」と話す。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(中)

 日本ペンクラブのミニ講演で、吉岡さんの「被災地を歩いて」は、大地震および大津波の時代的な背景へと及んだ、

 1896年(明治29)年の「明治三陸地震」の大津波では、三陸海岸の多くの町や村が全滅した。それは日露戦争が終わった直後のことだった。

 1933(昭和8)年の「昭和三陸地震」は夜中に起きた。時代としては、日本が国際連盟を脱退した、一週間後の津波だった。世界の中で、日本が孤立化していく時代背景があった。


 「昭和三陸地震の大津波でも、(岩手県宮古市)田老地区はほぼ全滅でした、ほかの東北地区でも甚大な阻害が発生し、窮乏の対策という理由から、日本が中国への侵略を加速させていったのです」と吉岡さんは語る。

「明治と昭和の大津波で、二度も町がやられた。いくらなんでも、何とかしなければならない、と人は考える。田老は後ろに山が迫っている町です。住むには平地がない。そこで村長は大きな堤防を作ることを考えたのです」
 強大な「防浪堤(ぼうろうてい)」は長さ1.3キロ、高さは10メートルで、断面の形状は富士山に似る。下部が23メートルで、上部には3メートルの歩道ができる、巨大な堤防だった。

 資金的な面もあって、「防浪堤」の完成は戦後だった。と同時に、津波防災の町として、世界的にも有名になった。

「この防浪堤のアイデアは、どこから学んだのか。田老の人たちは、関東大震災後の、後藤新平による帝都改造計画から学んだのです」と話す。
 後藤は、東京の町を碁盤の目にすることを考えた。道路を縦割りにすれば、まっすぐ逃げられる。現在の昭和通り、明治通り、靖国通りはこの構想が元になってできたもの。
 ただ、東京の復興都市計画は、車も少ない時代であり、お金もなかったことから、頓挫した。

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被災地を歩いて、文学の役割とはなにか=吉岡忍(上)

 日本ペンクラブの月例会では毎回、ミニ講演会が行われている。11年9月例会では、吉岡忍・専務理事よる題目『被災地を歩いて』の講演と、企画委員会である杉山晃造さんの「三陸被災地の写真」が展示された。
 吉岡さんは、3.11の東日本大震災が発生した直後から現地に入り、岩手、宮城、福島など数十ヶ所の市町村を歩いてきた。と同時に、多くのメディアを通してさまざまなレポートをしてきた。


「発生から半年経った今、20分でしゃべるのは難しい」と前置きした吉岡さんは、被災地と文学との関連について話をされた。

 今回の震災では、約1万5千人が亡くなり、五千人余りが行方不明となった。その内訳がなかなか表に出ず、詳しい調査が進んでいない。
「漁師さんとか、漁業関係者とかで亡くなった方は意外と少ないのです。たぶん1割いるか否ないか。犠牲者はどういう人だろうか。港の後ろ側で、飲み屋、ホテル、住宅がある、町場(市街地)の人たちが犠牲になっています」
 大地震の発生が昼間だったことから、働いている人は一斉に逃げている。あるいはあまり犠牲者が出ていない。他方で、組織的でないところに居る人、高齢者に多くの犠牲者が出ている。

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第52回・元気100エッセイ教室=語尾には敏感になろう

 エッセイ作品は小説と違って、限られた文字数のなかで、人生を上手に描き出す必要があります。その枠組みのなかでも、書き手によって短い作品、長い作品、と得意分野が違ってきます。短距離ランナーと長距離ランナーと似た体質の違いです。


 読み手も同様です。短くてシャープな作品が好きとか、多少長くても、じっくり味わえるほうが良いとか、それぞれです。
 いずれにしても、エッセイはストーリーよりも、文章の深みと味わいがより重要になります。

 人間の行動や心の動きは、ほとんどが動詞で表現されます。日本語の場合は、動詞が語尾にきます。
 作者はすぐれた作品を書くためにも、ワンセンテンスごとに、語尾に敏感になる必要があります。ふだんの何気ない言動や感情でも、語尾の動詞を上手に変化させていけば、魅力的な文章になります。


【今講座のレクチャーは、語尾の工夫と留意点です】


 ①体言止めは味付けの無い文章になり、素材・情報だけの提供です。

    ・危険だ、と彼は背を丸めた姿勢。
      ⇒ 危険だ、と彼は背を丸めて身構えた。

   ・私は姉と妹の三人兄弟。
      ⇒ 私は姉と妹の三人兄弟で仲がよかった。

   ・話の途中で、彼は相づちばかり。
      ⇒ 話の途中で、彼はうなづきばかりで、心の中がわからない。

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