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【歴史から学ぶ】日本の経済・文化が変わる=渋沢栄一からヒントを得る(下)

  渋沢栄一は、ヨーロッパ帰りで、静岡で商法会所を起ち上げて、資本主義の原点である商工業と銀行業をスタートさせた。
ところが約半年後に、大蔵省の租税正に任命されたのだ。渋沢はかたちのうえで出仕してから、大隈重信に直接面会して、辞意を述べた。

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「たとえ足下(渋沢)が、充分なる学問がないにせよ、すでに駿河で一商会を組み立てている。それを日本全国に普及させて、日本に実業界を作ってくれ。それにはまず大蔵省で仕組み(法)をつくる。そのためにも、有為な人物が必要なんだ」
 肥前藩出身の大隈重信は、頭が切れるし、強引だった。
「私は静岡で自分流の事業を行いたいのです。官吏にはなりたくない」
 渋沢は新政府の要職は御免だとばかりに、あれこれ申し立てた。

「慶喜公にたいする義理は一応もっともである。だが、慶喜公のみを思うて、天子(明治天皇)にたいする奉公の念はなくても良いのか。大蔵省で財政・金融の仕組みを作ってから、足下(渋沢)が思う存分に実業すればよいことだ」
 薩長土肥の政治家は、資本主義の経済そのものが理解できておらず、日本が今後どの方向に進んでいくべきか、まったくわからないのだ、と大隈はくり返す。


「奉職は引き受けかねます」
「なにを苦しんでおる。足下(渋沢)の考えはちがう。静岡と、日本の将来という大小を比べてみたまえ。わが国は欧米諸国の先進国の谷間で、封建主義の古い体質から変わらないと沈没してしまう。解るだろう」
「私は一橋家に仕えた身です」
「大蔵省は新政府をつくるというよりも、日本の資本主義を作るのだ」
  弁の立つ大隈重信に、渋沢栄一はとうとう口説き落とされてしまった。

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 ここから4年余り、渋沢は財政・金融の総合プランナーになって、貨幣制度を「両」から「円」に切りかえた。銀行条例を作った。会社組織の条例も次つぎにつくった。

 この間、明治4年には廃藩置県があり、全国から大名支配が消えた。これにともなう数々の新制度を作った。

 租税もお米から紙幣に改正した。鉄道を作るために、外債を発行する。新紙幣は信用をつけるために、ヨーロッパと同様に兌換紙幣にした。新政府の国庫には金・銀の手持ちがない状況下で、実にハイ・リスクである。

 失敗を恐れていたならば、日本経済は死ぬか止まってしまう。渋沢は突っ走った。新事業として、官営冨岡製糸場をつくる。

 写真=冨岡製糸場のHPより

 武士階級が消える。士族には公債証書(有価証券・売買はできる)を発行し、年4分の利息を付けて、6年間は元武士の生活保障をした。


 話を割り込むが、新型コロナウイルスの現在、政府が収入のない中小・小規模企業のみならず、国民に一律の支給する。さらに5年間は無利息・無担保という。
 国民の生活保障をして支えようとしてる。失業した武士を支える。収入がない人にたいする政策努力において似ている面がある。

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「君は生まれつきの経済の天才だ。そのうえ、良く勉強もするし。物事は学問だけではできぬ。経済から近代化を推し進めてくれ」
 激賞する井上馨がとくに後押した。

 大蔵卿の大久保利通が岩倉使節団と海外に行って不在だったから、渋沢の企画がスムーズに採用されていた。貨幣制度、公債発行の方法、銀行の仕組みが整った。

 当時は、外国から招聘(しょうへい)した行政官、教育者(北大・クラーク博士など有名)、産業指導など多分野で指導をあおいだ。しかし、大蔵省だけは、渋沢栄一がいるので、1人も外国人を入れず、財政・金融システムを創りあげた。


 渋沢栄一は、日本が植民地にならなかった最大の貢献者である


 戊辰戦争の勝利者だった薩長土肥の政治家だけでは、渋沢栄一のように資本主義の骨格形成などは、とても迅速にできなかっただろう。疑いもなく、歴史的にもそう言い切れる。

 渋沢栄一は大蔵省を辞してからも、第一国立銀行を創立した。そして、日本の基幹産業の会社づくりに猛進した。印刷業の発展からも、製紙業は和紙から洋紙にするためには必要不可欠な企業だった。「王子製紙株式会社」を設立した。

 物品の海上輸送と荷為替の両立するためには、保険が必要である。「東京海上保険会社」を作る。株券・社債・証券の売買には「株式取引所」を作り、古巣の大蔵省の認可を得た。

 外国から綿糸を輸入していると、外貨がながれでていく。そのためには紡績業の発展が必要だと言い、「大阪紡績株式会社」を設立し、成功させる。

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 明治42年まで、渋沢栄一は約500社の株式会社の設立にかかわった。
 新規の産業となると、リスクもあり、失敗する事業がある。他人から批判されることもあった。それでも、彼はみずから率先し、先進国並みの企業を創立した。

 諸外国で産業革命から200年余りかかったことを、20-30年でやり遂げようとしていた。
 現代にまでつづく大企業が多かった。日本郵船、清水建設、東京電力、東京ガス、IHI、帝国ホテル、東京製鉄、サッポロビール、川崎重工など、書きつくせないほどある。

「私が一人で作ったのでなく、たくさんの企業家、資本家と深い関係をもちながら、創業にかかわったのです」
 渋沢は信頼が財産という考えだった。


 渋沢のすごさは財閥を作らなかったことだ。三井財閥、住友財閥、安田財閥とまわりは巨大化していく。

 日清戦争・日露戦争のあと、渋沢は企業活動から手を引いた。そして、慈善活動、教育活動へとシフトした。数々の大学の設立にかかわった。
 欧米、アジアとの民間外交に専念する。
「外国との協調なくしては、日本の繁栄がない」
 渋沢栄一は、昭和6(1931)年、91で永眠するまで、世界の激しい変化のなかで、民間外交に尽くした。
 2度もノーベル平和賞にノミネートされながら、日本が大正・昭和初期の戦争という路線で、受賞から外されている。

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 渋沢栄一が推し進めた資本主義は基幹産業として企業を作ってきた。それが現代日本の根幹だった。
 新型コロナウイルス禍で、新しく日本が生まれ変わろうとしている。これからはテレビ会議、オンライン、ネット文化のなかで、いかなる社会になるのか。
 個々人が独立した起業家になっていく様相を呈している。
「新しい事業には、一直線で無難な進行などないのです。躓(つまず)き、種々の悩みを経て、辛苦(しんく)をなめて、はじめて成功をみるものである」
 新しい分野への道は、いつの時代もまったく同じだろう。

 農民の出で学問はありません、と言いながらも、苦労に苦労を重ねて、率先して「日本を資本主義の大国に導いた」渋沢栄一の一つひとつの言葉は、含蓄(がんちく)があり、「座右のことば」にしたくなるものがたくさんあります。
 そこから読み解いていくと、私たちの将来へのヒントが生まれるでしょう。
 

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