A020-小説家

「知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍」広島県・大竹市=講演案内

 わたしの講演会・明治維新150年記念『知られざる幕末と維新 芸州広島藩の活躍』が、11月24日、広島県・大竹市総合市民会館2階ホールで開催されます。時間は13時30分から16時まで。

 共催は大竹市教育委員会、大竹市歴史研究会。入場料は無料です。

 「薩長倒幕」が最近、疑問が呈されています。かたや、昭和53年にわずか300部、世に出てきた広島藩・浅野家史「芸藩志」から、倒幕の主導は広島藩だった、とクローズアップされてきました。

 河合三十郎、橋本素助編「芸藩志」は、ペリー来航から明治4年の廃藩置県まで、克明に記載されており、全国の史実と照合しても信ぴょう性が高い。

 明治政府がこの芸藩志を厳格に封印したのは、薩長閥の政治家が「俺たちが徳川政権を倒幕したのだ」と胸を張るのには、とても不都合だったからです。

 一方で「防長回天史」は、井上馨の圧力による、長州を美化した私的な要素が強い。不都合なことは記載されていない。事実のわい曲だ、あやしげだ、これまでの薩長史観は鵜呑(うのみ)みにできない、と厳しい批判の目にさらされはじめました。

 講演では広島藩側から、第二次長州征討(長州戦争)の大竹、大野、五日市、廿日市の甚大な被害から、徳川政権の倒幕への展開を克明にお話していきます。
 

 【講演の主だったところ】

 慶応2年、第二次長州征討(長州戦争)まえに、広島藩主の浅野長訓(ながみち)、世子の長勲(ながこと)らが先頭に立ち、幕府の再征には大義がないと非戦を唱えました。

 幕府軍の指揮を執るために、老中の小笠原長行が広島表にきた。執政(家老職)・野村帯刀(たてわき)が折衝する席で幕府をつよく批判したことから、謹慎(きんしん)処分をうけました。
 同年5月、おなじく執政・辻将曹(つじ しょうそう)が幕府に対して非戦をつよく訴えた。すると、辻将曹も武士としては致命的な謹慎処分をうけた。

 老中・小笠原の横暴に対し、広島藩の学問所(現・修道学園)の有志たちは憤り、夜を徹して議論し、「執政の謹慎は藩主をないがしろにした、頭ごなしの処分である。わが藩にたいする脅迫にも等しい、老中の首を打ち取るべし」と決意する。それは切腹を覚悟する行動でした。

 拙著『広島藩の志士』(倒幕の主役は広島藩だった)は、ここからストーリーがはじまります。

 浅野家の世子・長勲が、不穏(ふおん)な空気から、すべての藩士を広島城内にあつめました。「いましばらく自重せよ、身分を問わず腹蔵するところ藩に建白せよ」と申しわたしました。

 文武師範(しはん)の55人が連署で建白した。『藩主の直命があれば、水火も辞せず(命も惜しまず)、暴挙に対して行動を起こします、今後とも長州藩ヘの出兵は固く拒否してください』という趣旨だった。この抵抗運動が德川倒幕への精神となりました。

 広島藩は若者の意見を取り入れて不参戦を表明した。小笠原老中は藩内の過激な動きに怖れをなして、夜に紛れて広島を脱し、小倉に移っていった。

         *

 しかしながら、慶応2年6月には第二次長州征討が勃発(ぼっぱつ)した。大竹から廿日市まで、戦場になってしまった。
 ……町並の家々は焼かれ、農民は田畑を踏み荒らされ、無差別な暴行をくり返えされた。流浪の難民となった数はかぞえきれない。庶民の生活が甚大な影響をこうむり、荒廃してしまった。

 広島藩は戦争反対、開戦反対の建白を20回に及び、出兵を辞退していながらも、わが領地が戦禍にさらされてしまった。
 藩主の長訓以下、無念の極みだった。ここで徳川政権に見切りをつけます。
「こんな徳川家には政権を任せられない。このままだと、いずれ西欧列強の餌食になってしまう。徳川家には天皇家に政権を返上させよう」
 藩主・長訓、世子・長勲、執政・辻将曹たち、そして若い家臣たちが、倒幕へと藩論を統一し、大政奉還運動を加速させていきます。

 当時、政治の中心となっていた京都で、広島藩士たち上下を問わず、烈しく倒幕活動を展開していきます。岡山、鳥取、徳島、津などへ働きかけます。
 さらに公武合体派の薩摩藩を巻き込みます。
 御手洗交易で親密な薩摩は、広島藩の提案する大政奉還という倒幕運動に同調します。ここで、土佐藩の後藤象二郎も巻き込みますが、山内容堂の出兵拒否にあってしまった。
 そこで、禁門の変から朝敵だった長州藩を、薩芸は秘密裏に仲間に加えます。ここに薩長芸軍事同盟が結ばれます。

 慶応3年秋、波乱に満ちた歴史がははげしく動きます。大政奉還、3藩進発(挙兵)、小御所会議における明治新政府の誕生、鳥羽伏見の戦いへと展開します。

 第二次長州征討の最大の被害地だった大竹市で、この歴史展開を語ります。

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