登山家

秩父宮殿下のマッターホルン登頂=上村信太郎

 スイスとイタリアの国境に優美な山容でそそり立つ名峰のなかの名峰マッターホルン(標高4476m)は、世界中の登山者を引きつけてやまない。

 この名峰に、アルプスの日本人登山者はまだ数えるほど少なかった大正15年に、昭和天皇の弟宮、秩父宮雍仁(やすひと)殿下が登頂に成功されたことはあまり知られていない。宮様24歳。若き日の英国留学中の山旅であった。


 では、宮様のアルプス登山はどのように実現されたのであろうか。まず英国最高峰のベン・ネヴィス(標高1344m)登頂後、念願のマッターホルン登攀計画を日本に打診した。すると宮内庁は「とんでもない。けがでもしたら誰が責任をとる! 」と猛反対。断念を強く説得されるも、宮様の意思は固かった。
 結局、アルプス登山実施が決まり、準備が進められた。

 肝心の宮様の案内役は、すでに宮様と山スキーの経験があった槇有恒に決定。槇は、すでに11年前に英国に帰国していたウォルター・ウェストンに助言を求めた。同行する人たちは松方三郎、松本重治、渡辺八郎の各氏で、彼らは準備のために一足先にスイスに入った。

 8月12日、宮様が登山基地のグリンデルワルドに到着。ウェストンらの出迎えを受けた。同時期、スイスには細川護立侯爵(細川護熙首相の祖父)、浦松佐美太郎(後にウィンパーの『アルプス登攀記』翻訳)、麻生武治(後に日本初の冬期オリンピック選手)、東京朝日新聞の特派記者藤木九三などが駆け付けた。

 一行はトレーニングを兼ねて周辺のいくつかの山々を登攀後、ツェルマットへ移動。8月31日、朝3時に山小屋を出発。マッターホルンの頂をめざす。宮様と槇の前後はスイス人ガイドが付いた。6時40分ソルベイ小屋着。8時15分イタリア側頂上着。ここで宮様から少量のブランディが振る舞われた。30分後、イタリア側へ下山開始。シュワツゼー・ホテル着は深夜になっていた。

 宮様とウェストンの親交は、じつはこのアルプス登山のみではなかった。同年5月、ウェストンは宮様から午餐に招かれていた。さらに昭和12年には、国王ジョージ五世の戴冠式参列のため渡英した宮様に招かれた他、アルパイン・クラブ(英国山岳会)の総会に出席された宮様をエスコートしている。


 アルプス登攀後の宮様は穂高岳、槍ヶ岳、小槍を登攀され、その後もアルパイン・クラブの会報に山の紀行文を寄稿されるなど、終生、山への関心を持たれた。
 宮様がアルプス登山の際に使用されたピッケル、ザイル、登山靴などの記念の品々は、昭和34年に開設された東京・国立競技場内の「秩父宮記念スポーツ博物館」に一般公開されている。

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№57から転載


     写真:Google写真フリーより 

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