A030-登山家

武家の古都で、新田義貞の鎌倉攻めを想う。「鎌倉七口」=後藤美代子

実施日 2010年6月4日(金)

参加者 L 後藤 伊東 尾碕 中村 野上

 鎌倉は三方を山に囲まれており、一方は海に面した自然の要塞である。その地形のために、外部からの出入りは非常 に不便であった。
 周辺との往来を図るべく、山には切通、海には港(和賀江島)を設け、交通が容易に行われるようにした。 この山の切通と坂を併せて「鎌倉七口」と称している。

現在、往時の面影を多く留めているのは、大仏切通(土砂崩れのため通行止め)、朝夷(比)奈切通である。残念ながら化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂、名越切通は極一部に名残りを留めているていどであった。

 新田義貞が鎌倉攻めた。新田軍は三手に分かれて、極楽寺切通、巨福呂坂、化粧坂から攻め入ったのである。待ち受ける鎌倉幕府軍の守りは堅く、新田軍はことごとく討ち破られた。いったんは腰越付近まで退却し、稲村ガ崎の 海上からの侵攻を図った。
 だが、そこには幕府軍の船が矢を射掛けようと待ち受けていたのだ。


 攻め倦んだ新田義貞が、黄金造りの太刀を「竜神 我が願い叶えさせ給え」と言って、海中に投げ入れた。すると、その夜は潮が沖まで退いたので、新田軍は攻め入る事ができた、という有名な話が伝えられている。

 そんな昔に思いを馳せながら、私たちは鎌倉七口を歩き通した。その距離は20キロ余。 現在、鎌倉は「武家の古都・鎌倉」として、世界遺産登録を目指しています。

 しかし、岩手県の中尊寺が落選したので、その代わりに鎌倉という訳には行かず、中尊寺が再チャレンジしてからです、と地元の事情通は言っています。

  今回の山行は、無数に広がる枝道に、悪戦苦闘しながらだった。秋風の吹く頃には、いま一度、迷わず行けるのか、再チャレンジしたいと思っています。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№130から転載
                                                     

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