ジャーナリスト

地球のかなたに奏でる国際派の箏(こと)演奏家(中)=酒井悦子さん

 酒井悦子さんは海外にも飛びだす筝曲家(そうきょくか)の国際派である。

 酒井悦子さんは、大田区・羽田に生まれ育っている。筝(こと・以下は琴)との出会いについては、
「私の母が日本的な稽古事として、3歳年上の姉に琴を習わせたかったのです。ところが、当時はオルガン、ピアノが人気でしたから、姉にはいやだと断った。その実、私は筝がとてもやりたかった」
 その理由はなんですか
「6歳の私は、筝をやれば、絵柄の美しい好い着物がきられるし、みた感じがかっこう良いと子どもながらに憧れていたのです。羽田のまわりの子は、だれも筝を弾いていない」
 実姉が断ったことで、酒井さんの人生が、小学1年生にして決まったのですね
「そうです。母親が週2日、羽田から蒲田の琴の師匠(生田流筝曲)の家まで、送り迎えしてくれた。一方で、遊びたい盛りですからね、ときには練習を怠けて稽古にいきました。先生がどういうシチュエーションのときだったのか、『努力は裏切らない』といわれました」
 そこから酒井さんは琴の第一歩を踏みだした。

 15歳で宮城流の免許皆伝となり、高校時代には沢井筝曲院に入門している。その後は、歌舞伎、芝居音楽、黒御簾音楽を第一人者である竹内道敬氏に師事する。1997年、NHK邦楽オーディションに合格した。

               *

 筝は日本の伝統楽器であるが、一般人には、その知識や歴史は意外と知られていない。酒井さんに語ってもらった。

 江戸時代には、三曲(さんきょく)合奏として「筝、胡弓(こきゅう)、三味線」の三種類の楽器が使われていました。
「筝は座敷芸ではありません。筝とお茶の直接の関係はないのです。盲人音楽家のあつかう楽器でした」
 それは意外だった。
 江戸時代半ばに、尺八(しゃくはち)が出てきますと、胡弓が衰退していきました。その結果として、現在では「琴、胡弓、尺八、三味線」を総称して「三曲」と呼ばれています。

 酒井さんは学校教育の場でも活躍されていますね。
「はい。1995年より幼稚園、小学校、中学校、高校まで、芸術鑑賞教室や体験事業として、筝の指導をおこなっています。最近の学校は和室がありません。台のうえに筝を置いて演奏いたします」
 時代が変わりましたね。
「そうです。小学生らははじめて直(じか)にみる楽器です。ものめずらしい顔をしています。アンパンマン、ジブリ、ディズニーソングで、まず楽しんでもらいます。そのうえで、伝統的な筝の曲「さくら さくら」などを演奏して教えています」
 教室で、ほかにはどんなことをされますか。
「筝という楽器では、こういう楽しいこともできるのよ、と。弾き方の特徴や演奏方法もわかりやすく指導しています。高学年の生徒には、民話などに曲をつけ、読み聞かせる演奏もおこなっています」

 子どもらのしつけ関連の本が、電子書籍で出版されていますね。
「いくつか出版しています。琴はとても高価な楽器です。教室で筝に勝手に平気でさわる子どもらがいます。『他人の物を勝手にさわらない。がまんする』。日本人の古来の良さ、辛抱、がまん、これらのしつけは琴の指導を通して、お教えしています」

 大人の世界でも、恥ずかしい、と思う感じ方が違ってきていますけれど、
「それはずいぶん感じます。『お互いさま』と相手を想う、気づかう、がまんする。ここらの倫理・道徳の良き価値感が失われつつあります」

 稽古場のしつけも変わりましたか、
「ここ10年で、随分ちがってきました。琴を習う子らに、姿勢をなおすとき、『さわっても、良い?』と断ってから、首や背筋に触れてをなおしています。過去にはなかったことです」
 芸能・芸術は、体罰とまでいかなくても、厳しく、という認識がありましたが、
「従前は、指導者が勝手に『背が曲がっているよ。姿勢が大事です』と叱り、勝手に双肩を触ったり、膝でも直接さわって正させていました。現在は、指導者が子どもに気を使う時代になったのです」
 手をぴしゃり叩くなどは、いまでは考えられないらしい。 

 子どもが琴を習う層としては、拡大傾向、縮小傾向、どっちですか、
「ご両親、親戚筋で、琴関連の和文化の音楽・芸能文化など携わっている家庭をのぞけば、まず自分からやりたい子どもはいません。およそ琴を観る機会がないですから」
 なるほど、
「琴は幅広く、奥が深いものですが、一般の人にはハードルを低くし、筝を解りやすく、興味を持ってもらう。『やりたいな、こういうのも良いな』と思ってもらう。『皆さん、気楽にとんとん扉を叩いてください、かんたんに開きます』ところからはじめています」
 それでも、門をたたく人は少ないのですか。
「お座敷のある家屋から、マンションへと住宅事情が変わってきました。マンションでは長い楽器の筝を、着物のような布から出す。ピアノのように、開いて、すぐ弾けないので。コトジを立てて調弦する手間もかかります」
 酒井さんは、琴は生活空間に制限されていると話す。


【関連情報】

                
酒井悦子さん・プロフィール


                    写真提供=酒井悦子さん


                       【つづく】

地球のかなたに奏でる国際派の箏(こと)演奏家(上)=酒井悦子さん

 豪華客船のなかで、箏(こと・以下は琴)の音がひびく。クルージングの乗船客が日本の伝統音楽に、ふかく心酔している。そこは海洋ですごす非日常の快適な空間になっていた。
 弦を奏でるのは、筝曲家(そうきょくか)の酒井悦子さんである。

 酒井悦子さんは、国内航路の数日間ツアー、世界一周(約3か月)の乗船客のまえで琴を奏でる。
 彼女は1992年から豪華客船の「ふじ丸」、「にっぽん丸」、「ぱしふぃっくびいなす」、「飛鳥2」などに乗船し、船内のメインステージで活躍されている。

 日本客船は99%が日本人である。洋上の船旅が単調にならないように、船会社は日々に楽しくなるメニューを用意している。エンターテイナーとして、有名タレントの出演からはじまる。落語、日本舞踊、ダンス、ジャズなど、さまざまな催しのメニューがつづく。

 日本豪華客船の世界一周は、横浜港から荷を積み込み、出航する。
「エンターテイナーがそれぞれ分担されて、寄港地から乗り込みます。琴の演奏はいきなり横浜ではなく、飛行機でシンガポールに入り、そこで乗船し、演奏活動を行って、エジプトで下船するとか、あるいは南アフリカで乗り込み、ブラジルで降りるとかいたしております」

 世界一周の船旅で、琴の演奏をメインに期待した乗船客はまずいないという。
「皆さんはふだんの生活で邦楽に接したり、目にしたりする機会はまずありません。船内で、私たちの琴の演奏があって聞き入ってくださる。日本の伝統音楽の良さを思いだしてもらう。一期一会です」
 ときにはブラジルで豪華客船に乗り、パナマ運河を通り、サンフランシスコで船から降りて空路で帰国する。

 酒井悦子さんは、国内の船内イベントにおいて、客船の航路や地域の特性や四季を考えた企画を立てて船会社にプレゼン(提案)をする。単に琴の演奏にとどまらない。

 酒井悦子さんには彩な文化に精通した才能がある。夏場には、「お菊の皿」の幽霊を落語や新内(浄瑠璃)でストーリーを運び、琴と尺八と三味線を組み合わして楽しんでもらう。

 瀬戸内海の航路では、清少納言「枕草子」の父親(清原元輔)が転勤で船の通った道だったからといい、文学者の講演と組み合わせた教室を開く。
 まさに、彼女は日本文化を継承し、推進していくコーディネーターである。

「複数の組合せによる企画を考えるのが、とても好きなんです」
 おなじ乗船客(リピーター)が大勢いるので、いつも同じ出し物はつかえない。お茶席においては、客船が寄港する土地の焼き物(陶器)をつかい、特産のお菓子をだす工夫がなされる。

「乗船された地方のお客さまから、うちの県にはこんな民謡があるわよ、と教わります。選曲のヒントをもらうこともあります」
 酒井悦子さんはそれらも吸収しながら、日本の伝統文化や古来の芸能などを大切にし、幅広くジャンルを組み合わせた企画立案をおこなう。むろん、それだけの多種多彩な知識が、彼女の頭脳になければ、とても複数のコーディネートなどできない。
 

 クィーンエリザベスⅡが来日した横浜港の入港の際には、酒井悦子さんがメインステージを勤めている。

 主要な演奏の経歴もおどろくほど幅広い。かんりゃくに紹介すると、世界文化交流協会カナダや、アメリカ公演には最年少で参加している。東京都庁がオープンときの記念演奏。大田区とは姉妹都市のアメリカセーラム市で、交流会の記念演奏もおこなう。

 サッチャー元首相が来日(1982年)したときには、歓迎のオープニング・レセプションで、琴を演奏している。選曲としてビートルズを選んだという。1人で演奏はできないので、琴の四重奏(4人で弾く)で奏でた。
「サッチャー元首相にはとても、喜んでもらえました。離日まえにも招(よ)んでくださいました。そして、琴=ビートルズの録音テープを持って帰りたいと、サッチャーさんから申し出がありました。急きょ、わたしたちは別のホテルの一室で録音いたしました」
 彼女は良き思い出として語る。

 日本が主催した世界首脳会議(サミット)においても、彼女は歓迎演奏をおこなう。さらには、JOCオリンピック総会のVIPレセプションで記念演奏。世界各国から来賓の歓迎レセプションの公邸、迎賓館などでも演奏している。
 
 ブータン(国王)夫妻が、東日本大震災後に初めての国賓として来日された(2011年)。参議院議長公邸で、ワンチュク国王夫妻の歓迎昼食会が開催された。同公邸の庭では、酒井悦子さんたち3人が日本伝統音楽である筝曲「六段の調」、「お江戸日本橋」など抒情歌を弾いていた。
「素敵なご夫妻でした。私たちの琴演奏のまえで、ご夫妻が足を止めて、じっくり聴いてくださいました」
 彼女は思い出ぶかく語る。
                 

【関連情報】

酒井悦子さん・プロフィール
                       写真提供:酒井悦子さん

                               【つづく】

「大政奉還150年記念・御手洗大会(1)=10月14日(土)

「大政奉還150年記念・御手洗大会」が10月14日(土)に開催されます。慶応3(1867)年10月14日に、徳川15代慶喜将軍が朝廷に大政を奉還しました。

【場所】   広島県・大崎下島「御手洗」(現・呉市豊町御手洗)

【主催者】 「御手洗 重伝建を考える会」代表・尾藤良

【後援】 日本ペンクラブ、幕末芸州広島藩研究会、フジサンケイ ビジネスアイ、(社)御手洗デザイン工房、他

【開催内容・イベント】

①  講演:穂高健一『芸州広島藩はなぜ大政奉還の運動へ進んだか』(乙女座)

②  郷土史家(複数)と歩く、「御手洗と幕末歴史」の史跡を訪ねる。
 七卿の都落ちの庄屋・竹原屋、薩摩藩の密貿易港の遺跡
豪商・鴻池と住吉神社の玉垣(経済的な結びつき)、広島藩の砲台跡

③  金子邸・茶室の特別拝観(広島藩と長州藩の出兵条約を締結した場所)

④  江戸みなと展示館 特別企画『幕末の嵐と御手洗』の展示会

⑤  若胡子屋(元遊郭)の拝観 (中岡慎太郎、高杉晋作、河井継之助、木戸孝允、坂本龍馬、吉田松陰、河田佐久間の諸々の上陸記録がある)

【世に知られていない、幕末史実と事実の宝庫】

① 御手洗港は西国諸藩の経済の中心地。指定船宿として薩摩、肥後、長州、中津、延岡、飫肥、小倉、福岡、宇和島、大洲など16〜17藩があった。

② 船宿には各藩士が常駐し、勤王、佐幕、草莽志士などが日々に上陸し、遊郭(広島藩公認4カ所)で、秘かな情報収集の場としていた。

③ 薩摩藩の密貿易港で、極秘に西欧船を入港させ、世界綿不足に目をつけて輸出でぼろ儲けした。巨額の贋金づくりの銅・鉄を御手洗港経由で鹿児島に運ぶ。それら「メッキ2分金」でイギリスから軍艦・武器を大量に購入する。

【問合せ先】 潮待ち館 0823-66-3533    ※交通と地図は裏面

【交通】

・東京~新幹線・三原駅~呉線・竹原駅 →(バス)竹原港フェリー乗り場
・羽田 ~ 広島空港 → 竹原港(リムジンタクシー1000円・要予約)→ 大長(おおちょう)行き (高速連絡船・45分) 大長桟橋から・散策しながら御手洗港へ徒歩で約15分

・バス 広島市内(呉経由)→ 御手洗港バス停 高速バスで2時間20分
    中国労災病院(新広駅付近)→ 御手洗港バス停 1時間30分
 
・車では、
 広島呉道路呉ICから安芸灘大橋有料道路(ここだけ有料橋)を経由し、車で約1時間10分

・車とフェリーでは、 
・竹原港→(フェリー)白水・垂水(大崎上島)→明石港(大崎上島)より(フェリー)→小長港フェリー(大崎下島)

「山の日」大崎上島・神峰山大会=『初潮のお地蔵さま』 【冒頭の一節】(4)

 うすい単衣(ひとえ)姿の13歳の恵美(えみ)が、女郎屋(じょろや)『立木屋(たちきや)』に連れてこられてから、すでに2か月半が経(た)つ。

 清楚な娘にはおよそ縁遠い場所だった。
 立木屋は、大崎上島の木江(きのえ)港にあり、『一貫目(いっかんめ)遊郭街(ゆうかくがい)』と呼ばれる目立つ場所にあった。

 朝日が昇るまえ、室内がうす暗いうちから、彼女は働きづめである。釜戸(かまど)に枯れ松葉をつかって火を熾(おこ)す。土間の窓ガラスまだうす闇で、恵美のはたらく姿が写る。
 細面の恵美は、二重瞼で、目鼻立ちがはっきりしている。艶(つや)のある黒髪は、後ろで束ねて輪ゴム一つで結ばれていた。

 台所の一角には、近所の造船所の廃材が積み重ねられていた。恵美はそれを鉈(なた)で細く割り、釜戸に入れて赤い火を大きくする。

 釜戸の火が上手(うま)くまわると、ぞうりを脱ぎ、板の間の食堂にあがり、折り畳み式の長テープを3つならべる。それぞれの四脚を開く。背丈ほどの戸棚(とだな)から、姐さんたち7人の食器、箸、湯呑み茶碗をテーブルにならべていく。

「順番がまちがうと、姐さんたちから癇癪(かんしゃく)玉(たま)を投げつけられる。この位置で大丈夫かしら」
 食器類を個々におく位置すら、彼女は慎重(しんちょう)にも慎重をきす。それとは別に、立木家の四人家族用の食器類をお盆にのせはじめた。


「もう6時まえ。急がなければ……。朝帰りの早い船員がいると、たいへん」
 彼女の視線が壁のながい柱時計にながれた。
 帰りぎわの男の顔を見たらいけない、といわれている。泊り客が帰る前に、玄関を掃除しておかないと叱られる。

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「山の日」大崎上島・神峰山大会=『ちょろ押しの源さん』 【冒頭の一節】(3)

 祖父の大学ノートが押入れの片隅から見つかった。セピア色に染まったノートの書体は古い。

 祖父はいっとき瀬戸内海に浮かぶ大崎上島の木江(きのえ)中学校の教員だった。ノートを読む私には、祖父の島嶼(しま)の生活やしごとメモにさして関心がなかった。

 一方で、克明に記載(きさい)された『ちょろ押しの源さん』には、つよくこころが引き込まれるものがあった。
 太平洋戦争の敗戦後で、世のなかがまだ食糧難のとき、ひときわキラキラ輝いていた港町があった、と祖父は特徴を書いていた。これは日記かな? 祖父は小説家に憧(あこが)れていた節があったようだから、取材メモかな。どちらにでもうけとれる内容だった。


 祖父の古い大学ノートをもった私は、真夏に、現地の島を訪ねることにきめた。呉線の竹原港から、大崎上島行きの高速連絡船に乗船した。
 瀬戸内の澄んだ青い海上に浮かぶ、どこか富士山に似た名峰があった。


 わたしの視線の方角を知ったのだろう、乗船客の年配女性が、
「あれは神峰山(かんのみねやま)よ。悲劇のお地蔵さんが数百体もあるの。いまでも、大切にされてね。夏場は、みんなして冷水をくみ上げて、お地蔵さまを水で洗って、磨いて、亡くなった若い娘たちを祈ってあげているのよ」
 とおしえてくれた。

 その数の多さにおどろかされながら、どんな悲劇なのか、と問う間もなく、高速艇が大崎上島に到着した。

 祖父が『ちょろ押しの源さん』を書いたのは昭和20年代後半だろう。祖父とちょろ押しの源さんは、ともに将棋が好きだったらしい。

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第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会=数百体の石仏に、鎮魂の祈りをささげる(2)

 この島は、瀬戸内海で最大の離島です。名峰・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が眺望できる、絶景です。

 さらなる特徴として、多くの幼い少女、若い娘さんがお地蔵さんとして祀られています。


 室内会場:大崎上島町観光案内所2階 ( 白水港フェリー乗り場から徒歩1分)


開会の挨拶は、大崎上島地域協議会・事務局長  榎本江司 さん (左)


 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から、世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げました。
 このたび、大崎上島において、8月11日の祝日「山の日」に、大崎上島・神峰山大会を開催することができました。


 どんな悲哀があったのか、時代背景などを朗読・小説で知ってください。そして、鎮魂歌の演奏を聴いたうえで、皆さんで神峰山に登り、「悲哀のお地蔵さんを洗う、磨く、祈りましょう」 


 司会  平見健次 さん (右)

 朗読 三原 みずえ さん

     濱本 遊水 さん

 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 「ちょろ押しの源さん」

   第2部 「初潮のお地蔵さま」

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化しています。


音楽演奏者

      Duo de naranjo(デュオ・デ・ナランホ)

・三須磨 大成さん(ボーカル・ギター)

・三須磨 利香さん(ボーカル・パーカッション)

  


 * キューバ音楽による鎮魂歌を聞き入る。



 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート
 
 大崎上島町の木江町は、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。そして、多くの悲劇が生まれた。


 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動しました。~ ハンドタオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布されました。
  
 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいきました。

  石仏の巾や前掛けを付け直します。
 

                       【つづく】        

第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会=数百体の石仏に、鎮魂の祈りをささげる(1)

 大崎上島は、瀬戸内海で、最も大きな離島である。(離島振興法による)。平成の大合併では、周辺の島々は、地方都市に吸収されてしまった。
 しかし、この大崎上島町は、広島県の豊田郡で唯一の市町村として残る。

 この離島で、「山の日」をやろうよ。なぜ?「海の日と勘違いしているんじゃないの」ということばも飛びだしてきた。そうだろうな、瀬戸内海のど真ん中で、「山の日」だから、おどろかれるのは当然だ。

「神事の回伝馬競争、サマーフェスティバル、盆踊り、諸々の行事が立て込んでいる。お盆の時期は、島にはイベントがたくさんある。そんな手が回らないよ」

 8月11日は、ナショナル・ホリディ―だから、別の日にやろう、というわけにもいかない。国家が決めた祝日だから。

「ともかく、やろうよ」 

 広島県・大崎上島町で、平成29年8月11日(金)山の日(国民の祝日)に、11:00~15:00、イベントが開催された。
『第1回 祝日「山の日」大崎上島・神峰山大会』で、主催者:広島県・大崎上島町地域協議会(藤原正孝会長)、後援:全国山の日協議会(谷垣禎一会長)である。

 大会名:悲劇の石仏を「洗う」「磨く」「拝む」~神峰山(かんのみね)の石仏を清める登山の日

 瀬戸内の名峰・神峰山は、昨年『しま山100選』に選ばれた。北は利尻富士とか、南は屋久島の宮浦岳とか、その著名な山と肩を並べている。

 神峰山(標高452m)の山頂から、日本一、大小115島が眺望できる、絶景である

 この島は、明治初年からに昭和33年の売春防止法の制定まで、約100年間近く、瀬戸内随一の遊郭が発達した「木江港」(きのえこう)があった。

 明治から戦争の連続で、暗い時代だった。富国強兵だから、国税は軍事費につかわれてしまい、国民の社会福祉や民の生活向上には回ってこない。挙句の果てには、太平洋戦争の敗北で、国民はさらに飢えてしまった。

 この間、「貧乏人の子だくさん」という言葉が日本を支配していた。「口減らし」「満州や海外移民」「ひそかな間引き」とか、食糧に対する過剰人口であった。貧困や食糧難の犠牲になったのが、口減らしの対象となった少女や若き女性だった。

 遊郭に、5~10歳で売られてしまう。そのうえ、14、5歳になると、青春を愉しめず、
「日々、身を売って、親や兄弟に仕送りする」
 という貧困家庭を支える働き手になった。

 遊郭の劣悪な環境の下で、結核や性病、過酷な精神的・肉体的な負担から、いのちを落とした少女や若い娘が多い。
 遺骨が引き取られない、あるいは帰っていく先がなくて、無縁仏になる。

 この島の尼僧が、明治初期から昭和50年代まで、3代にわたり庵を守りつづけてきた。こうした不幸な子どもたちが亡くなると、お地蔵さんを作ってあげる。そして神峰山に奉じてきた。その石仏は、数百体ある。

 島人がいまなお赤いエプロンを着せてあげている。個人なのか、団体なのか、それはよく解らない。

「山の日」に、時代の犠牲となった少女・若き女性たち数百体の石仏(お地蔵さま)に、鎮魂の祈りをささげることにした。

                    【つづく】

第1回 祝「山の日」大崎上島・神峰山大会=ことしからスタート・8月11日

 目的
〇 国民の祝日「山の日」は、昨年(2016年)から世界で初めて「山の恩恵に感謝する」ことを掲げた。
 この祝日に、瀬戸内の名峰・神峰山(しま山100選)に眠る、売春の犠牲となった少女・若き女性たち数百体の石仏(お地蔵さま)に、鎮魂の祈りをささげることを目的とする。


1.主催者:広島県・大崎上島町地域協議会
後援 : 全国山の日協議会 (谷垣禎一会長)


2.開催の内容

大会名:悲劇の石仏を「洗う・磨く・拝む」~神峰山(かんのみね)の石仏を清める登山の日

開催日時:平成29年8月11日(金)山の日(国民の祝日) 11:00~15:00

会場:大崎上島町観光案内所2階

          * 白水港フェリー乗り場から徒歩1分

          * 住所:大崎上島町東野6625番地61/電話:0846-65-3455

3.参加費: 1000円 昼食、お茶、石仏を磨くハンドタオル代等として

4.スケジュール
 11:00 開会挨拶:大崎上島・木江出身の作家・穂高健一
                (日本ペンクラブ広報委員、日本文芸家協会会員)

 11:10 穂高健一が献じる、小説「神峰山物語」の朗読会

   第1部 短編小説「ちょろ押しの源さん」(400字詰め約40枚)

   第2部 中編小説「初潮のお地蔵さま」(400字詰め約60枚)

   木江港の遊郭街に生まれ育った作家が、亡き若き女性が石仏になった悲劇を小説化した

12:00 神峰山頂上へ移動

 * チャーターしたバスで、山頂近くの駐車場まで移動 

~ 山頂・展望台で昼食  

13:00 悲劇の少女達への鎮魂ミニコンサート

  南米ミュージシャン(ミスマ夫妻)が山頂で鎮魂曲を奏でる

13:20 登山道に点在する石仏を洗い、磨き、拝んでいく

 タオルや水(ペットボトル)は事務局から参加者へ配布、石仏の巾や前掛けを付け直す

15:00 山頂・石鎚神社前にて解散
          * 希望者は駐車場まで戻り、バスで案内所まで移動

【大崎上島・特徴】

・大崎上島は、瀬戸内海で最大の離島です。(離島振興法にもとづく)

・神峰山(標高452m)の山頂からは、日本一の大小115島が望める絶景です。
 北海道から九州まで厳選された名峰『しま山100選』(公財・日本離島センター)にも、神峰山は選ばれています。日本最大級の眺望です。

・大崎上島町・木江港の街には、明治時代から昭和33年の売春防止法が成立するまで、瀬戸内の最大級の遊郭があった。
(おちょろ舟で、女性が身を売っていた)。そして、多くの悲劇が生まれた。

6.問合せ先: 同実行委員・事務局 平見健次 090-1659-5722

平和は戦争の仮面をかぶる(3)

 平和は、子々孫々まで伝承できるとは限らない。政治家の平和や安全の連呼は、ときに戦争を招く凶器にもなる。

 戦争関連の法律ができる。そのうえ民衆の平和を脅かす類似の法律ができる。政府も、政治家も、メディアも、結果として『法律はつくり放し』である。『悪法も法である』という格好の餌食になる。これが戦争ガンの浸透になって、次世代で、戦争ガンが発病してくる。

『廃案に持ち込む』。国民は政治家なんて、嘘だ、そこまでやるはずがない、と見限っている。まやかし、口先だけの繕(つくろ)い。できた法律はもはやあきらめてしまう。ここに大きな戦争への落とし穴がある。

 戦争体験者が少なくなった今、「戦意高揚」を高々に謳(うた)った軍国主義時代すら、理解できない。過去の戦争がなぜ起きたのか。なぜ軍国社会になったのか。歴史から学び取るしかない。

 戦争に関連した歴史は、とかく政治家の都合よく歪曲やねつ造されやすい。教育にも悪用されやすい。

 松下村塾がなぜ『明治日本の産業革命遺産』になるのか。これなども、世界に向けた歴史の欺瞞(ぎまん)である。

 吉田松陰は安政の大獄で、危険思想の持ち主として斬首された。まちがいなく、松下村塾の寺小屋は江戸時代である。
 韮山の反射炉も、老中首座だった阿部正弘のもと、江川太郎左衛門がつくった江戸時代の遺産である。
 それなのに、「Meiji World Heritage Convention」と英文すらも明治である。

 世界にむかってまで、Meiji、となぜ嘘をつくのか。日本人として恥ずかしいかぎりだ。もう世界遺産として決まったものだ、とメディアの批判は影や形すらもない。これで良いわけがない。
 吉田松陰の『幽因録』は、歴史の検証として、日本人全体が知っておくべきだ。むしろ、教科書にこれを載せるくらいの勇気が必要だ。

 ※ 中公クラッシック「吉田松陰」より抜粋

『太陽は昇っているのでなければ西に傾いているのであり、月は満ちているのでなければ欠けつつあるのである。同様に国も隆盛でなければ衰えているのだ。

だから、よく国を保持するというのは、ただたんにそのもてるところのものを失わないというのみではなく、その欠けるところを増すことなのである。

いま急いで軍備を固め、軍艦や大砲をほぼ備えたならば、蝦夷の地を開墾して諸大名を封じ、隙に乗じてはカムチャッカ、オホーツクを奪い取り、琉球をも諭して内地の諸侯同様に参勤させ、会同させなければならない。

また、朝鮮をうながして昔同様貢納させ、北は満州の地を割き取り、南は台湾・ルソンの諸島をわが手に収め、漸次進取の勢いを示すべきである。しかる後に、民を愛し士を養い、辺境の守りを十分固めれば、よく国を保持するといいうるのである。そうでなくて、諸外国競合の中に坐し、なんらなすところなければ、やがていくばくもなく国は衰亡していくだろう」


 明治時代に入ると、台湾出兵、日清戦争、日露戦争、シベリア出兵、第一次世界大戦、日中戦争(シナ事変、満州事変)、太平洋戦争と連続してくる。

 大陸侵略と、吉田松陰の『幽因録』と重ね合わせてみると、いかに危険思想家とわかる。これらを国民に広く教えずして、かたや江戸時代の松下村塾を世界遺産にしてしまう。

 これでは子々孫々まで、吉田松陰が世界に承認された思想家だと勘違いさせてしまう。現代から歴史を歪曲して送りだすことになるだろう。

 20年後、30年後、50年後においても、「Meiji」にふさわしくない、間違っている、と悪評がたち、正されるよりも、現代において『明治日本の産業革命遺産』の一部は事実誤認だったと、一部取り消し申請するほうがよい。

 世界遺産の取り消しは、他国で事例がある。
 だから、日本時の不得意な「廃止」「修正」、「廃案」の鍛練として、松下村塾、韮山反射炉など、江戸時代の建造物の取り消し申請からやってみよう。
 現政権で無理なら、次なる政権で勇気をもっておこなう。


 平和は黙っていれば、後退してしまうものだ。戦争に結びつきやすい法律は、あきらめで次世代に送ってはいけない。くり返しになるが、『法律のつくり放し』が最も危険だ。同次世代に生きたものとして、『廃案』へと挑戦する責任感が必要だ。
 アキラメという無責任さが戦争ガンとして、いつしか拡大し、発病してくる。

 多数決、政党政治で決めた。これが逃げ道になってはならない。政治家一人ひとりは与野党を問わず、自己責任で、再吟味のうえ、時代にそぐわない法律は責任を持って『廃案』にすべきである。

 平和は戦争の仮面をかぶる。江戸時代の農民一揆のように、命を掛けてまで、と言わないけれど、合法的に、日本人が最も不得意な、お上の決めた『危険な法律は廃案』へと追い込んでいくことだ。『安全、安心、自由』という視点で、ダメなものはダメと、廃案ができる政治の土壌づくりが、現在からの平和創造の出発点である。

 

平和は戦争の仮面をかぶる(2)

 太平洋戦争はとはなにか。
 日本が中国大陸において、満州国の独立を宣言し、国際連盟から総批判を受けた。諸外国から経済封鎖がされてしまった。
 それをもって、統帥部の山本五十六司令長官がパールハーバー(真珠湾)を攻撃した。むろん、国民のコンセンサスなど、みじんもない。

 マスコミが戦争を煽ったり、戦争への道筋を作ってきた面がある。政治家が事実を折り曲げたり、明らかに嘘をついたりしている。それを知りながら、大本営発表で、記事にしてきたのだ。政治家への批判精神が大きく欠けていた。政治家や軍部の嘘が、戦争のがん細胞となり、戦争を優先する国家へと、不随の国家になってしまったのだ。

 現代でも通用するが、政治家のウソを見過ごす、体質がマスコミにあることだ。あきらかに歪曲と嘘があると知っていても、次の記事ネタをもらうために、深く追及をしない。ジャーナリズムの本質の批判精神が、ポーズだけで終わっている。

 この頃はメディアの発信よりも、フェイスブック、ブログの方が真実味がある。鋭い追及や、良い勘所をもっている。
「龍馬の手紙発見」という記事に対して、文面、実物写真、専門家の「本物に間違いない」というコメントにたいして、見事なまでに異論を展開し、偽ものだと実証してみせるのだ。説得力がある。

 博物館の研究員の発表通り。そこに危険を覚えた。メディアの記者が目を閉じた。

 戦争とは何か。平和とは何か。わたしはそれを取材のテーマとし、片や、つねに自分自身に問いかけている。大砲や銃弾が飛び交っていなければ、平和なのか、それは違う。

『安全、安心、自由』の三つがそろった社会である。私はそう定義している。戦争抑止のためには、自衛の軍備は必要だ。国民の総意だったとしても、過剰になっていないだろうか。


 古代ギリシャ時代から、戦争の起きる理由は3つに要約できる。『利益』、『恐怖』、『名誉』、この三つは現代にでも十二分に通用する。軍事資源の確保、武器産業と政治家が裏利益で結びつく。ここらは狂いがない戦争理由だろう。

 過剰な武器と軍備をもつと、相手(仮想敵国)の国民や軍部に、じわじわ恐怖を与えていく。やがて、相手は自己防衛のためにと言い、先制攻撃をしかけてくる。抑止が戦争の原因になる。つまり、あいてに『恐怖』を与えすぎると、戦争になってしまう。

「平和」という耳ざわりの良いことばは、使い方によって戦争を招く凶器になる。
 
 東条英機が内閣総理大臣になった時、就任演説で、十数回も、平和ということばがでてくる。国民はみな平和社会がくると信じた。当時、中国大陸で展開されていた日中戦争の解決につながる、とも思った。
 まさか、2か月後に、パールハーバー(真珠湾)攻撃がなされる、海軍統帥部の頂点にいた山本元帥が、そんな準備をしているとは国民は想像もしていなかったのだ。

 政治家は口で平和を唱え、両手で銃弾を撃ち込む。

 太平洋戦争は軍艦マーチで始まり、国民総動員令で、個々人の自由を奪い取り、戦場へと駆り出されていった。そして、国内の民衆は大空襲で逃げ惑った。

 政治家や軍部は、きまって自己防衛、平和回復のため、という理由で突入する。最終目標は、平和社会を取り戻す、という理由だ。

 平和は政治家の道具にされやすい。政治家はいつも平和の仮面を被っている。