A010-ジャーナリスト

志和の知られざる幕末・芸州広島藩の活躍=神機隊創設150余記念

 芸州広島藩の神機隊の320人が自費で、戊辰戦争に出兵してから150年が経ちました。『神機隊創設150余記念事業』として、隊員名簿から末裔(まつえい)をさがし、9月23日の秋分の日に本陣だった西連寺で、墓参していただこう、という企画がなされました。

 当時の隊員名簿から、多くの方々が末裔さがしに労を惜しまず、きょうに及んでいます。

 岸田文雄代議士の奥さんの(一族)先祖、軍医だった小川道甫さんの末裔・小川栄さんなど多々、わかりはじめています。
 きょう現在、進行形です。
 
 9月23日(月・秋分の日)は午前中の10時~12時は、神機隊の末裔の方々に、西連寺の墓参、さらに訓練地の和田山・大行事原、八条原城(はちじょうばらじょう)跡などを訪ねていただく予定です。
 RCCテレビ・ラジオが入ります。
 FM東広島など

 午後の13時00から講演会『志和の知られざる幕末・芸州広島藩の活躍』がおこなわれます。サブタイトル「幕末・日本最大級の戦闘部隊である神機隊は、なぜ志和で創設されたのか?」
 講師:穂高健一
 会場:西蓮寺 
 入場料は無料
 主催:(財)中国地方郵便局長会
 後援:東広島郷土史研究会
    西志和まちづくり自治協議会
    幕末芸州広島藩研究会

 なお、車の駐車場は、近くの西志和小学校のグランドを利用してください。西蓮寺まで、送迎があります。
 
『概略』
 志和盆地(東広島市)には1200人の神機隊が駐屯していました。本陣は西連寺(さいれんじ)です。そのなかから精鋭部隊が上野戦争(彰義隊)、飯能戦争、さらには奥州戦争へと出陣しました。

 かれらは、戦場で凄まじい戦いを挑みます。その戦闘は、浅野家史『芸藩志(げいはんし)』にくわしく記載されています。昭和53年まで、その芸藩志が封印されていましたから、世に知られてきたのはつい最近です。
 かれらの活躍は、穂高健一著『広島藩の志士』、『神機隊物語』などで、小説化しています。



 戦場での死傷者は多く、負傷しながらも歩けるものは、わずか80人弱にまでなりました。命を亡くした神機隊の御霊は、広島護国神社に、高間省三(砲隊長)を筆頭祭神として祀られています。

 京都・東京・福島の現地に、かれらの墓石があります。こんにちでも現地の人たちに、花を添えられたり、厚く見守られています。
 それだけ、芸州広島藩の神機隊は、軍律を守り、日本人として民の安堵(あんど)ために戦っていたからです。

「鬼の官軍だとおもっていたら、兵士が家にやってきて、仏壇を拝ませてくれ、と手を合わせていた、……子どもを大切にしてやれ、戦争が終わったら、わしは安芸の国に帰る、達者でな、と立ち去った。あれは阿弥陀様の身代わりだ」と、ナカという若嫁の話が大熊町史「戊辰戦争余話」として書き残されています。

 南相馬では、西軍が没収した蔵の米が、農民が凶作のときの備蓄米だった。それを知った西軍は金で相馬藩に売り払った。しかし、唯一、神機隊は無償で相馬藩に返却した。自費で出陣してきた神機隊は、のどから手が出るほど、お金が欲しい状態だったはずだが、民にたいする略奪など一切しなかったのです。

 後世において東北人は薩長嫌い、官軍嫌いですが、ただ芸藩は別だったという。それは神機隊が浅野藩のエリートが立ち上げた、知的な優秀な部隊だったからでしょう。

 志和盆地の西連寺においても、神機隊の墓地があります。

 かれらの活躍を偲び、お彼岸の供養でお参り、講演にお出かけ下さい。

【関連情報】
志和の知られざる幕末・芸州広島藩の活躍・チラシPDF

「ジャーナリスト」トップへ戻る