東京下町の情緒100景(089 縁日)
東京下町の情緒100景(088 夕暮れの慕情)
下町の彼女は商家の娘だった。10歳も年上の男性に想いを寄せていた。かれは売れない戯曲を書いていた。彼女はふいに彼からデートに誘われた。
ふたりは街なかで肩を並べて歩いた。公園でブランコを乗ったり、外食レストランで食事したり、会話が弾んだ。かれの最新作は『夕暮れの慕情』だった。今回もお金にはならない作品だったけど、落胆には慣れているという。売れない戯曲家は、フリーターで生活費を稼いでいた。
「ストーリーを聞かせて」
「淡く切ない愛の物語なんだ」
かれがしずかに語ってくれた。
「かわいそうな恋人ね」
彼女は哀れなヒロインに同情した。彼女自身は実に幸せなひと時だった。
「きょうは夜の帳(とばり)が下りる前に、君を帰してあげたい。また、逢おうね」
かれは優しい口調でいう。
(夜になっても、いいのよ)
彼女は自分のほうから言えなかった。
数日後、かれから二度目のデートを誘われた。
「また、いろいろ話したいけど、ぼくの休みは水曜日なんだ」
「水曜は習い事で、都合が悪いの」
彼女は心にもないことを言ってしまった。
東京下町の情緒100景(087 川原のススキ)
東京下町の情緒100景(086 汽罐と煙突)
白髪の老人がふいに足を止めた。かれは若いころから船乗りだった。日本の主要な港を知り尽くす。60歳で引退したけれど、あるときは隅田川の川船で船長帽を被っていたこともある。
老人のそばには十代初めのひ孫がいた。
「汽罐の意味はわかるかな?」
ひ孫は首をかしげた。まるで難しい国語のテストに出会ったような表情だ。
「ポンポン蒸気船って、どんな船か、わからないだろうな?」
知らない。ひ孫は素っ気ない口調で、まったく興味を示さなかった。
「焼玉エンジンって、聞いたことがあるか?」
ぜんぜん。
「焼玉エンジンは煙突からポンポンという音を立てて、煙を吐きだしていた。小太鼓をたたくようなリズムで。だから、ぽんぽん船といわれたものだ。いい情感があった」
もうないの? ぽんぽん船は。
「いまはジーゼル・エンジンなどに変わってしまったからな」
じゃあ、みられないんだ。
「ポン船のあの懐かしい響きは、もう聞けないだろうな」
東京下町の情緒100景(085 格子戸)
格子戸の家があると、妙に懐かしい情感をおぼえる。なぜだろうか。格子戸から、ごく自然にちょっと奥をのぞき見る。もう何十年前の情景だろうか。格子戸の家が残っているだけでも、下町に情緒を感じる。
碁盤の升目の奥には、庭の花壇に四季の花が咲く、縁側の老夫婦が日向ぼっこする、幼子が庭で三輪車のぺたるを漕ぐ。生活が明け透けにみえるそんな時代があった。「胸襟を開く」ということばがあるが、格子戸の家と家は、良い近所付き合いができた。
「奥さん、いる?」
「まだ、使いから帰ってないよ。どこかで立ち話しさ。井戸端会議が忙しい女房だから」
「煮物を作ったら、食べてみて」
ガラガラと戸が開く。
「悪いね。いつも」
「あら、こちらこそよ。昨日は奥さんに、魚をいただいたわ。新鮮で、とてもおいしかった」
「外房に、釣りに行ったもので、な。お裾分けさ」
「あら、そうなの。坊主だったから、魚屋で買ってきた、ときいたけど」
「余計なこというものだ。亭主の恥をさらして、喜ぶ女房さ」
東京下町の情緒100景(084 おもちゃ屋)
子どもたちが成人してしまうと、おもちゃ屋から遠ざかってしまった。でも、思い出がたっぷり。2人の子どもが生まれても、エンゲル係数の高い生活だった。
幼い子の手をつないで、おもちゃ屋の前を通るのが怖かった。子どもらは決まって、玩具をねだるから。
「まだ結婚するには、早すぎる歳だ。家庭に入れば、経済力が大切だ。男の生活が固まってから、結婚したらどうだ」と、実親に反対された。
あの時は、いまの愛を失いたくなかった。駆け落ちする勇気はなかったけれど、「ぜったいに親に迷惑はかけない」と断言し、ともかく結婚までこぎつけた。
子どもが生まれると、親の忠告が身に染みてわかった。給料日から数日にして、財布のなかはもう空っぽと同然。おもちゃ屋の前で、2人の子どもが泣き叫んでも、わが家につれて帰るより仕方なかった。子どもらに玩具を買ってあげられないのが、とても心底から切なかった。
それでも給料日の翌日に、上の娘には『おしゃべり熊さん』を買ってあげた。寝床に入っても、娘は手から離さなかった。
東京下町の情緒100景(083 祭りの準備)
槌音が早朝からひびいていた。とび職がやぐらを組み立てていた。
下町の秋祭りがきょうから始まる。
槌音で呼ばれたかのように、町会の世話役が集まってきた。「きょう、あしたは天気に恵まれそうだね」という挨拶が交わされた。各班ごとに散っていく。それぞれが分担された持ち場で働きはじめた。
神社の格納庫からは、金箔が光る神輿がおごそかに取り出された。子ども神輿だ。テントまで運ばれた神輿は、脚立の上にていねいに置かれた。
午後から、二つの神輿が稚児たちとともに町内の路地をねり歩く。
本殿では、背の高い男性が竹箒を手にして背伸びしながら、天井や軒下をすす払いしている。上向きの仕事は体力がいるものだ。それぞれの顔には汗がにじみ出ている。
かれらは一通りの清掃が終わると、こんどは純白の太いしめ飾りを取り付けはじめた。すると、神社全体に威厳が出てきた。
東京下町の情緒100景(082 花屋)
けさも早朝に市場から彩り豊かな花を仕入れてきた。朝10時の開店準備で、最も忙しい。それでも、きょうはどんな客が来るのだろうか、と気になる。
人生の幸福でも、不幸でも、花だけはつきものだから。毎日いろいろな買いにきてくれる。
「恋人にプレゼントの花は何がいいかな?」
若い男性が相談してくれたならば、きょうならば、ローズマリーのバラを勧めてあげよう。
夫婦仲のよい夫が、{愛妻の誕生祝に花を贈るんだ」といったら、新婚時代のの思い出の花を選ぶかもしれない。差し出がましい、花のお勧めなどは止めよう。商売には控えめも大切だし。
「玄関に一輪挿しの花を買いたいの。週に一度、一本だけで悪いわね」
路地裏の40代の女性がやってくる日だ。彼女は香りのよい花が好きだという。お香代わりなのかしら。きっと家のなかは整然と片付いるのだと思うわ。
