寄稿・みんなの作品

【寄稿・掌品】 春終の三段峡 = 広島hiro子(1)

 峡の春終は、智子にとり、かつて感じたことのない別物の趣きを放つことになる。
 同じ景色でありながら、連れ行く人によって、情感の機微というそれぞれの彩が添られてゆく。心に映し出される風景は単なる色ではなく、こもごもの想いと共に、忘れ得ぬ一枚の絆をうつす瞬間だった。
 それはどんな人間にも、ひとつあるいはいくつかを持っている自分自身にしか見ることができない風景なのだ。

 とおにソメイヨシノの見どころを過ぎた広島市内では、緑の桜葉に勢いを増し始めてきている。が、さすがに広島の奥地に位置する三段峡だけに、今が桜の盛りだ。
 三段峡行きの路線バスの終点で降り立つと、智子はあたりを見渡した。
 小さな古びた商店が数件並ぶ。例年よりは遅い桜の見ごろだと茶屋の主人が話してきた。今日は4月21日、春の終わりといえそうだ。
 5月となれば、それは初夏の様相に変化する。今は残り少ない春を満喫するときだった。三段峡の桜は日本古来の山桜だ。自然特有の透けて見えそうな淡い色合いの花びらが、少しばかり舞いながら、まばらに訪れる客たちの歓迎をしているかのように見えた。
 人ひとり分の間を空けて智子の前を歩くのは、今回の旅の友となった4歳年上の後藤信弘であった。
 中背でもやや猫背に歩くために小さく見えたその後ろ姿は、25年前に見たまだ若かりし日の彼とあまり変わりない。変わったとすれば、顔こそしわを刻み、男性の割にはまつ毛を蓄えた美しい目であったものも瞼の筋肉が衰えてややたれ目がちにと変化してしまったことだろう。

 50代半ばにして贅肉に悩まずに済んだのは、今に至っても裕福でいられなかった暮らしぶりからなのだろうか……。世間体ばかりを気にしていた元姑や後藤家一族の面子が思い浮かぶ。
 後藤は、智子の25年前に別れた元夫であった。あまり余計なことは考えるまいと智子は思った。
(わざわざ松山から私に会いに来たのは、別れた息子の様子を知りたいためなんだから。でも、昨日、仕事中に会社の電話から呼び出されたときは心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。それにしてもわたしの仕事のミスが見つかって課がもめているときに架けてくるなんて、ほんとうに間の悪い人……)

 
 一昨日の職場でのミスは痛かった。信託銀行でなくとも金融機関であれば、基本中の基本とされるルールである、
 高齢者にリスクの高いものを勧めてはならないという絶対の決まりを、智子は単なる不注意であっさりと犯してしまっていた。昨日の昼に、総務から呼び出され、ぎゅうの目にあわされているさなかに、間の悪いあの人から連絡があったのだ。

 開口一番に彼は言った。
「佑が結婚したと聞いたよ。はやめに時間をくれないか?」息子の結婚式は、もう一年近く前にすでに済ませている。実の父親の顔も覚えていない佑は、生みの父を結婚式に呼ぶ選択肢を持たなかった。

 それは、智子とても同じことで、話題にさえ上らないものだった。智子の再婚後の結婚生活は20年にも及んでおり、後藤とのほんの1年半の生活は過去のものでしかなかったのだ。しかし、結婚式の招待はおろか、25年もの間一度も会わせる機会をもたせなかったことへの負い目が、智子を前向きにさせていた。
「いいよ、いつがいい?」
「急だけど・・今晩がいい」
 こんな忙しい時に、やっぱり勝手な奴だとイラつき加減に思いながらも、夜にファミレスで会う約束をした。電話を切ってからも、法令違反という重大違反の文字が踊り、目がぐるぐるまわりそうだった。

 今日の週末休日をはさみ、来週には本社への経緯書の始末や支店長をはじめとする上司たちの検印という詰めが待っている。考えれば考えるほど、胃がざわめき、気が滅入る。50歳を過ぎた年齢のせいにはできないが、智子はどの同僚より失敗を繰り返す問題社員であることにまちがいはなかった。
 現社会は女性活躍が持てはやされている。一般人から見れば、大企業に勤める花のキャリアウーマンと見られ、羨む職業なのだろう。しかし内情は相反して、同じ職場内において格差が定着している金融機関特有のドロドロした側面も持ち合わせていた。昔で言う窓際族であった。

 魔の金曜は、仕事を終えても智子を落ち着かせなかった。二時間余り、夜のファミレスで互いの状況を話しているときも、後藤にまで責められるのではないかを身構えさせていた。

「俺なんか、悪いことは山ほどあったと思うよ。でも考えないことが一番だね。
 いつかは時間が解決することが大半だ。そのままにしておけないことは片づけるとしても、感情的な落ち込みには、時間薬が一番だから。」
「ふうん、そうよね、わかっているから」
「わかっている顔には見えないけど?」
「私のことは、あなたと関係ないでしょ」
 学生が多いファミレスの手前、小さく小声で話していても、智子の言葉はやはりドげドげしい。後藤もそれなりに負けてはいなかった。
後藤はコーヒーを飲み干すと、おもむろに煙草を吸い、横を向いたまま智子に言
「もう、帰ったほうがいい。ご主人に心配かけないように。今日のところは何も考えずに寝てくれ。その代わり、明日は休みだろ?久しぶりの広島だから、春の渓谷を堪能したいな、一緒に案内しておくれ。君もストレス発散した方がいいしね」
(前の呼び名、智、よびすてだったな。今は君、なんだ。……)
 ふと昔をよぎる思いを断ち切るように智子は言ってのけた。
「タダの観光ガイドって、ほんと、相変わらず強引だわ。昔から私の意見なんて聞く耳持たないからこうなったっていうのに。でも、お互い配偶者も別の子供もいるんだから、今さら二人の縁なんてもうないけどね。お餞別に付き合ってあげるわよ」
 後藤は礼も言わず、黙ってうなずいた。

 半ば強引に三段峡の観光案内を押し付け、その夜はホテルに帰るという彼の口から、その日のうちに旅の目的を切り出すことはなかった。

 翌日を迎え、薄曇りではあったものの、三段峡は山桜の見ごろだった。智子にとっては、正直せっかくの休みを返上され、うっとうしいというのが本音だったかもしれない。
 それでも、なお癒しを必要とする智子のためにゆっくりと歩いているのだろう後藤の後を、智子は言葉もなくついて歩いた。ぬぐい切れようにないもやもやは仕事だけではないことを智子自身、気が付いてはいなかった。そんな複雑な悩みを抱えたままの智子と比べ、4月後半を過ぎ、遅い春の盛りを迎えた渓谷は、薄雲を交えつつ智子とは対照的に明るかった。

 最初の入り口である赤い大橋から、透き通る豊かな流れが一面に拡がる。涼やかな風になぶられ、新緑の木々を軽やかに揺らす山のやさしさと、岩々をごうと勢い流れる力強さが、一挙に別世界を感じさせた。
 後藤がゆっくりと先に歩をすすめているのを気にも留めず、智子は橋の下をのぞき込んだ。さすがに渓谷だけあって、流水をうけながらも岩々の模様を惜しげもなく見せつける。悴んでいた智子の五感を、くすぐっていくのが解かる。たった数十歩、別世界に入り込んだだけでも、雄大な自然の片鱗を受け、智子の何かが変わっていくのを感じた。

                 【つづく】

【寄稿・写真エッセイ】 やまざくら = 矢澤 春美

 3月から4月にかけての日々は、人それぞれに、卒業、入学、転勤など人生にからんで、ばたばたすることが多い。

 私は3月末に実家から、亡父の25回忌、亡母の13回忌の法要を勤めたいとの連絡を受けた。そこで年度末の計画をいくつかキャンセルして郷里の和歌山に帰った。
 法事のすべては弟一家にお任せにしろ、参列するだけでは申し訳ないからと、ほんのちょっとだけ手伝った。26日の法要の朝、お墓の花の取り替えや、無住の寺の雨戸開けなど、弟の作業の補助をした。

 実は私には、不謹慎な下ごころがあった。お寺の入り口にある、桜の花を観たかったのだ。樹齢は不明だが、相当な古木で、いつもならばこの時期には満開になっている。しかし、ことしは固いつぼみが、しっかりと枝にしがみついたままで、私のあてが外れてしまった。

『写真:白浜駅裏の山桜。ホームで撮影.2017/03/29』

 それにしても、ことしの日本列島はどうかしている。花冷えに違わぬ冷えこみ方である。東京では、すでに桜が咲いている。しかし、新大阪から、白浜方面行きの「くろしお号」に乗り換えて、紀勢線を南下しても、沿線の山並みにさくらは見当たらなかった。
 下車する藤並駅に近づいた頃、左手のみかん山の中腹にわずかな山桜の花を見つけてほっとした。

 私はどちらかというと、さくらの花にさして執心する方ではない。特に夕暮れ時に満開の染井吉野を見ると、不気味な感じがして好きになれない。むしろ、紅い葉っぱと共に咲く、山桜の方に親近感を覚える。


 実家のある吉見集落の入り口に、友人たちが「春ちゃんざくら」と呼んで、花見をしてくれた山桜の大木があった。この木は数年前から勢いを無くし、とうとう2年前に枯れてしまった。
 桜の花盛りには、近在の写真愛好家が何人も来て、カメラを構えていたそうだが、この話も、もはや昔語りになってしまった。

 久しぶりに味わう故郷の春だ。桜の花がないのは寂しすぎるよ。きっとどこかに咲いているだろう。

『写真:友人が「春ちゃん桜」と呼んだ桜。仲良しの松本君(故人)が撮影した』

 私は、翌朝、家の周辺で記憶に残っている、山や谷を訪ね歩いてみた。実家のある吉見集落は、四方が山に囲まれた谷間にある。

 山といっても、多くは拓かれてみかん山と化している。だから、みかん山に登って反対側を眺望するのだ。しかし、その努力の甲斐もなく、山桜の花には出会えなかった。

 午後は弟が援助の手をさしのべてくれ、有田川町の谷のあちこちをドライブできた。
 我が家の東南の方にある、国道424号線で田辺の方に向かい、長い白馬(しらま)トンネルを抜けて、とうとう日高郡の旧美山(みやま)村にまで着いた。
 ここは日高郡龍神村のさらに奧で、標高も高く、もちろん桜の開花は遅い。

『写真:みかん山が続く吉見集落。低い山だが斜度がきつい』

 きょうはここまでと、戻ることにした。
 白馬トンネルを抜けると、有田郡の一方の境である宇井苔(ういごけ)集落で、深く長い谷が続く。「有為の奥山」ということばが浮かんで来た。そこから戻って二つ目の集落を「松原」と言い、私の友人の瀧アツミさんの家がある。

 高校時代は、このあたりは1本の細い道があるのみで、片側は崖になっていて、眼下に有田川の流れが見える。あっちゃんはこの道を通り、1時間以上もかけて、自転車通学をしていたのだ。50年近く経って、友の日々の行き帰りを思うと、恐怖心で山桜どころではなくなってしまった。

「この道こわい。早く帰ろう」
 と弟に言ったが、弟は慣れたハンドルさばきで、今度は別の谷の入り口まで連れて行ってくれた。そこは「西が峯」で、級友の鍛地くんの家がある。ここも、片方が崖の、細くて急な坂道だ。

 私は「いやあ、おおきに。もうええわ、はよいなんけ(早く帰ろう)」と、まだ案内しようとする弟を急かせて帰ってきた。



『写真:高校3年の元日の山登り。千葉山頂上にて。前列左と後列左の男性は、すでに故人である。 

 高校3年の元日に、クラスの仲良しグループの8人が、揃って有田川の河口近くの、千葉山(せんばやま)に登った記憶がよみがえった。
 山の頂から、私の住む吉見の集落が見えた。1本の坂道が吉見にむかって、蛇のようにくねらせて這っている。「家(うち)はあんな場所やったんか」と、ことばに表しきれない思いがこみ上げてきた。
 しかし、友人の何人かは、もっと奥地の人だったのだ。

 30年ほど前になるが、ある会合で同席した男性が、「私は伊豆の山奥で育ったので、すり鉢型思考というのか、高みの向こうを知りたくなる」と言った。その言葉に私も同感だった。私たちは、山のあなたに憧れたのだ。

 ふたたび桜の話。希望を棄てなければ、いつかかは実現できる。3月28日に弟夫婦と妹と4人で白浜へ行った。実家を出て、藤並から、国道42号線を南下して白浜に向かった。
 津木のトンネルを抜けると日高郡だ。日高川にさしかかるあたりから、山桜の花が視界に飛び込んできた。やっぱり南紀だ、やっと桜に会えたと喜んだ。しかし、染井吉野のつぼみは、固く結んだままだった。

 私の今回の帰郷は、山桜のおっかけで終わった。白浜の景勝地に来ても、足の悪い弟に「あそこは前に行ったから、もうええよ」と言って、どこにも立ち寄らず、海岸線を車で通過するだけにとどまった。これ以上を望んだら、山桜もかなしむだろう。

『写真:弟夫婦と妹(前列右) この3人と今回不参加の弟は両親亡き後、物心にわたるパトロンである』

深田久弥終焉の山・茅ヶ岳(1,704m) = 関本 誠一

日時:2016年10月15日(土)  晴れ

メンバー:L関本誠一、栃金正一、岩渕美枝子   (3名)

コース : 深田公園入口 ~ 女岩 ~ (深田久弥終焉の地) ~ 茅ヶ岳 ~ 金ヶ岳 ~ 茅ヶ岳登山口BS


  今回計画した茅ヶ岳は今夏(6/28)に日本百名山完登に恵まれた筆者にとって、どうしても今年中に行きたかった山である。

 だが、周りに魅力的な山が沢山あり、『偽八』と不名誉な呼び方もされている不遇な山の一つだ。それでも、登山中に亡くなられた山…深田久弥氏終焉の地を訪ねたかった思いからだ。


 韮崎駅に集合(7:40)。15:50発のバス30分ほどで、深田公園入口に到着。そこは駐車場になっており、マイカーで来ている人たちが沢山いる。

 準備後、駐車場を出発(8:30)。歩いて5分位の所に氏を偲んで作られた記念公園がある。
 質素な佇まいだが、氏の筆跡による『百の頂に、百の喜びあり』が刻まれた石碑がひと際目立つように建っている。

 ここから両側自然林の明るい登山道を緩やかに登ってゆき、女岩到着(10:40)。
 崩壊の恐れがあるため女岩は現在立ち入り禁止になっており直接見ることはできないが、ここで5分ほど休憩。
 ここから傾斜がきつくなるが登ること30分、尾根に出たところに小さな石碑が建っている。この石碑の場所が終焉の地とのことだが、座って休んでいるときに亡くなったとのこと。…あまり景色も良くない山頂直下で休憩とは、よっぽど体調が悪かったと思いながら掌をあわす。
 石碑の裏側には亡くなられた時刻も刻まれていた。

 このあと山頂に向かうが、15分ほどで茅ヶ岳山頂だ(11:40)。

 当日快晴もあって山頂からの眺めは、富士山を始め南ア、奥秩父、八ヶ岳と360°素晴らしい景色。昼食後も眺望を充分堪能し尽くし、結局は1時間近く贅沢な時を過ごす。

 山頂からは一旦急斜面を100mほど下って、そこから登り返すこと150m。…本コース一番きついところだ。
 到着したのが、無名のピーク。ここから緩やかにアップダウン15分で金ヶ岳に到着(13:25)。振り返ると茅ヶ岳~富士山が一直線に見える以外は木々に囲まれて展望はあまりよくない。

 小休止のち、山頂直下のかなり急な斜面はロープを使いながらの下りを過ぎれば、あと快適な登山道。明野ふれあいの里まで下りてくれば、登山道は終りだ。
 あとは、宇宙線観測所等の施設を横目に見ながら、ひたすら舗装路を下りバス停到着したのが15:30。
 バスに十数分間に合わずタクシーで韮崎駅に向かう(16:30)。

 駅前に居酒屋があったが、16:38発のホリディ快速に乗り込む、車内でささやかな反省会を行いながら帰宅の途につく。お疲れ様でした。


《日本百名山を終えて…》

 55年前、大菩薩嶺が最初の登山…日本百名山は筆者にとって登山人生そのものになった。

 当初、気ままな山行を繰り返していたが、20年後転機が訪れる。…、八ヶ岳(24座目)山頂小屋で同年代登山者との出会いを機にピークハンターとなる。

 だが、80座で頓挫し諦めかけていたが、当倶楽部入会にあたりリベンジ。今夏7年目にして達成する。応援してくれた山仲間に感謝の気持ちで一杯だ。
 今後は身の丈あった登山を楽しみたいと思ってます。


       ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№209から転載

登山中の落し物が多発 奥多摩・雷電山(494m)= 武部 実

平成29年1月17日(火) 

参加メンバー : L武部実、渡辺典子、岩淵美枝子、中野清子、開田守の計5人

コース : 軍畑駅 ~ 榎峠 ~ 雷電山 ~ 辛垣山(457m) ~ 三方山(454m) ~ 青梅丘陵ハイキングコース ~ 梅岩寺 ~ 青梅駅


 ここ数日来の大寒波襲来で心配していたが、朝晩の冷え込みはあるものの、当日は晴れて風もなく、穏やかなハイキング日和であった。

 9:50 軍畑駅を出発。榎峠に向かう道路脇に定期券入りカードの落とし物を発見。まだ一か月以上の有効期限がある。
  さぞかし本人は残念がっていることだろう。駅名から判断するに地元の人でなく、高水三山か雷電山かのハイキングにきた人にまちがいなさそうだ(青梅駅前交番に届ける)。

 ところで登山中の拾得物は意外と多い。帽子、小型の三脚、テルモスそしてデジカメ(交番に届け出)までも。みなさん気を付けましょう!

 10:17榎峠着。ここが登山口だ。
 杉林の中の階段を登っていくこと約35分で雷電山に到着する。

 山頂は北方方面が開かれている、何の変哲もない山だが、山名の由来が面白い。

 むかし、付近一帯が干ばつに見舞われたときに、雨乞いをこの山でおこなったところ、稲光とともに大雨が降ってきたということだそうだ。
 関東での雨乞いは大山が有名だが、ここにもあったのですね。

 11:23 二番目の辛垣山(からかいやま)に到着。山頂からは見通しは無く、戦国時代の山城跡であるが、石灰石の採掘により面影はほとんど無い。
  三方山に行く途中にこのコース唯一の日当たりのいい場所があり昼食を摂るが、我々の来る前にツアーの団体さんもここで昼食にしていた。
  皆さんいい場所をご存じなのですね。


 12:44三方山着。ここも山頂からの見晴らしはないが、少し降りたところがビューポイントだ。
 筑波山、新宿高層ビル群、そしてスカイツリーまで眺めることができた。このコースは東屋が設置してある休憩所が4か所もあり、整備されているのが良くわかる。

 最終目的地の青梅駅には鉄道公園から行く予定であったが、途中に石碑が多く設置してある場所があり、ここが梅岩寺に降る道であることが判明(地図には載ってない)。

 14:38 梅岩寺着。この寺の有名なのは2本の大きなしだれ桜。関東でも有数の名桜と説明板に書かれているほど立派だ。
 4月中旬に咲くが、このほかにもソメイヨシノやミツバツツジ、そしてカタクリの花も見られるのでぜひ青梅に来てはいかがでしょうか。
 

ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№210から転載 

話題にはこと欠かない、真鶴半島自然観察&ハイク =  市田淳子 

日時:2017年3月18日(土)JR真鶴駅9:00集合


メンバー:L市田淳子 渡辺典子、栃金正一、中野清子、開田守

 コース : JR真鶴 ~ 真鶴港 ~ 貴船神社 ~ 灯明山 ~ 森林浴 ~ 遊歩道 ~ 番場浦遊歩道 ~ 潮騒遊歩道 ~ 三ツ石海岸(昼食) ~ ケープ真鶴 ~ 御林遊歩道 ~ 中川 ~ 一政美術館 ~ 岬入り口 ~ 真鶴港近く(反省会) ~ JR真鶴駅


 真鶴は話題に事欠かない場所だ。

 石材業は漁業と並ぶ産業で、「小松石」は江戸城の石垣にも使われた。所々に見られる歌碑も小松石なのだろうか。
 歴史的にも面白い場所のようだが、今日の主役は海と山。真鶴駅から海を眺めながら下って行くと、真鶴港に着く。

 カモメたちが集まりイソヒヨドリの美しい声が聞こえ、山行とは違う趣だ。海の反対側に貴船神社がある。この日一番の難所と言ってもいい急な階段を登ると、本殿が現れ周囲にはサクラが咲いていた。

 海の神様を祀った神社で、漁の無事と豊漁を祈る。貴船神社をあとにして、港の岸壁に整備されている遊歩道を歩く。釣りをする人、岩場で遊ぶ親子、海をぼーっと眺める人、犬と散歩する人…山と同じように海は人々を魅了する。


 港の橋まで行くと、真鶴半島がだんだん大きくなって来て、いよいよ御林に向かって歩く。アスファルトの車道は車で岬に行く人たちのためだが、できれば土の道が欲しい。

 少し歩くと山道の入口があり、やっと土を踏みながら歩ける。地元の人たちは、海に恵みをくれる森を「御林」と呼んで大切にしてきた。
 その御林は「魚つき保安林」として保護されている。

「木々の枝から海面に落ちる虫を求めて魚が集まる」

「樹木の影を魚が好む」

「森から海に注がれる栄養豊富な地下水に、魚が好むプランクトンが集まる」

 などの諸説があるようだが、どれも本当に思える。

 御林には巨木が多く、5人で手を繋いでやっと木の周囲を囲むことができるようなものがたくさんあった。クスノキ、スダジイ、アカマツ、クロマツといった照葉樹の森で、奥多摩や丹沢の山々と違い鬱蒼としている。
 半島にしっかり根を張って強い潮風を受けながら、何百年もの月日を過ごしてきたのだろう。


 暫く歩くと道は下り坂になる。
 三ツ石海岸が近い。潮騒の音、潮風、明るい太陽の光、海岸の植物、山から海に到着。海抜4mの海岸で昼食にした。上空を時折トビが飛翔するが、トビの食事は自然食にしてもらおう。


 昼食後はケープ真鶴に登り、再び御林を歩いて中川一政美術館へ向かった。
 御林の片隅にひっそりと佇む美術館。97歳で亡くなるまで、描く欲望を捨てなかった中川一政氏の人生と作品を始めて知って圧倒された。

 自然ばかりでなく同時に芸術にも触れることができたことは本当に贅沢なことだ。さらに贅沢なのは、港の近くにある定食屋さんで、地元の魚をお腹いっぱいいただいたことだ。

 アジが有名で、アジのたたき、豆アジのフライ、そして、たたきに使ったアジの頭と骨を揚げてもらった。こうして、山、海、芸術、味覚の四つを楽しんだ贅沢な一日だった。(森林インストラクター)

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№210から転載

【寄稿・写真エッセイ】 母の想い = 黒木 せいこ 

 会社の同僚で、いつも元気な森田さんが、最近は落ち着かない様子である。時々ため息をついたり、考え込んだりしている。わけを聞いてみると、一人息子の弘くんが大学受験の真っ最中なのだそうだ。

 森田さんは、50代前半の女性で、ずっと正社員として働いてきた。ショートカットで、いつも背筋がスッと伸びていて、スマートだ。会社ではデザインの仕事をしているので、いつもおしゃれで、さっそうと歩く姿は、いかにもキャリアウーマンのイメージそのものである。

 森田さんのご主人も、デザイン関係の会社を経営している。両親からの芸術家の血が流れているせいか、息子の弘くんも大学は芸大を希望していると聞く。

 昨年も受けたが失敗したので、一年浪人して、今年は二年目の挑戦である。1月に私立の美大を二つ受けたが、ともに落ちた。予備校では大丈夫だろうと言われ、本人も手ごたえがあった大学だけに、かなり落ち込んでいるそうだ。

 それに、仲のいい友人たちが、次々に合格したため、弘くんの失意のショックは人一倍らしい。そんな弘くんを見て、森田さんは、母親としてどうしてやればよいかと、心を悩ませている。


 私の子どもたちはもう社会人なので、「受験生の親」はすでに卒業したが、森田さんの様子を見ていると、当時を思い出す。
 娘の中学受験の時は、その学校まで付き添った。受験当日、冷たい雨が降る中、私たち母子は、朝早くから駅まで歩いて行き、電車に乗った。慣れない満員電車に、娘は気分が悪くなってきた。それでも、何とか受験校にたどり着き、青白い顔をして教室に入っていく娘を、私はなすすべもなく見送った。

 娘は一次試験には落ちたが、あきらめずに二次募集に挑戦し、希望する中学に合格した。学校の掲示板で合格発表を見た瞬間、あまりに嬉しくて、入学手続きの書類を、涙を浮かべて震える手で受け取ったのを憶えている。
 子どもの喜びは、そのまま母親の喜びになる。しかし、子どもが苦しんでいるとき、親は自分の身を切られるようにつらいものだ。  

「こんな落ち着かない日は、お菓子を焼くことにしているの」
 と、森田さんは、家で焼いたクッキーやケーキを、何度か会社に持ってきた。

 彼女はなぜかオーブンが好きだと言う。自ら生地を作り、オーブンに入れてそれが焼きあがっていく状態を見ていると、心が落ち着くそうだ。それはちょうど私がイヤな出来事があったとき、チクチク針を動かしていると、次第に心が穏やかになるのと似ているのだろう。

 3月に入り、その日は会社を休んでいた森田さんから、弘くんが芸大の一次試験に合格したとメールが来た。
「おめでとう。よかったね」
 私はすぐに返信した。
「でも、まだ一次だから合格したわけじゃないよ」
「頑張れ。私も応援してるよ」
「何だか、また胃が痛くなってきた」
「仕方がないよ。親の宿命だもの。ここはまた、クッキーでも焼くしかないね」
「そうする」

 そんなやり取りをした数時間後、大量のクッキーの写真が送られてきた。

 森田さんからだ。私はあわてて、どうしたのか聞いてみると、あのあと、ひたすらクッキーを焼いたというのだ。彼女のやり場のない気持ちが、クッキーの山になったのだと思うと、切ない気持ちになった。
 翌日、森田さんは、その大量のクッキーを少しずつ袋に入れて出勤し、会社の人たちに配った。

 もらったクッキーをそっと口に入れてみると、ほんのりバターの風味がして、甘さもほどよく、とても美味しかった。
 森田さんの、母親としての想いがいっぱい詰まったクッキーで、私は胸がいっぱいになった。どうか願いがかなって、いい知らせが来ることを、心から祈っている。
                
                

霧のなかで硫黄が鼻を突く、 那須三山 = 松村幸信

平成25年10月7日(月)~8日(火) 二日間とも晴れのち曇り

参加メンバー : L石村、武部、野上、市田、中野、松村

ルート:

【一日目】  那須塩原駅 ~ 那須ロープウェイ ~ 茶臼岳 ~ 硫黄鉱山跡 ~ 牛ヶ首(姥ヶ坂) ~ 姥ヶ平・ひょうたん池~姥ヶ平下~沼原分岐~三斗小屋温泉

【二日目】 三斗小屋温泉~大峠~三本槍岳~熊見曽根~朝日岳~峰の茶屋跡~
    那須ロープウェイ山麓駅~鹿の湯~那須塩原駅        



 今秋は、台風が次々と襲来し、雨が多く天候が安定せず、出発の間際までやきもきしていた。

【一日目】

 8:12に到着の東北新幹線で、三々五々と那須塩原駅に集合した。駅前から、8:30発の那須ロープウェイゆきバスに乗車する。車内で購入できるフリーパス券は、2日間は何回でも、乗り降りできて往復料金よりも安く実にお得だった。

 9:45、山麓駅に到着するや否やロープウェイに飛び乗る。
 紅葉時期にはまだ早いと思っていたが、ロープウェイから見える鬼面山は、見事に色づいていて、他の乗客から歓声があがる。

 4分で、頂上駅に到着する。準備をして、茶臼岳を目指し、歩き出す。だが、ガスが掛かり見晴らしはよくない。
 風に乗って、硫黄の臭いが鼻を突く。
 10:45 茶臼岳の山頂に到着した。眺望もなく、集合写真を撮ると、直ぐ先に進む。ガスに巻かれ方向を見失い、お鉢の回りをうろうろ。

 11:35 硫黄鉱山跡分岐に着いた時には、ガスも晴れ、姥ヶ平の鮮やかな紅葉が、目に飛び込んでくる。

 11:41 お腹も空き、山道脇に腰を下ろし、眼下の紅葉を楽しみながらの昼食である。12:36 姥ヶ平、ひょうたん池に写る逆さ茶臼岳と紅葉は見事だった。
 紅葉を思う存分満喫し、今晩の宿である三斗小屋温泉に向かう。

 14:48 煙草屋旅館に到着した。楽しみにしていた露天風呂は基本混浴だが、15時から17時の間は女性専用のため、残念ながら男性陣は内風呂へ。

 16:30 夕食をとり、21:00 消灯。

【二日目】

 4時過ぎに目を覚まし、暗闇の中を露天風呂に向かう。ひとり満天の星を見ながら、静かにゆっくりとお湯を楽しむ。
 夜が白み始めると、次々と人が入ってきて、あっという間に芋洗い状態となる。

 東側に山を背にしているので、日の出が見えないのが残念である。

 6:30朝食をとり、7:05に出発、天気は晴れ。大峠までの間に、三回の渡渉があり台風による増水もなく、全員が無事に渡り9:00に大峠に到着した。

 ここからは尾根道で木立も無くなり、日差しが強く、肌を突き刺す。

 11:14 くたくたになりながらも、三本槍岳に到着し、やっと昼食を摂る。ここまで、予定時間より大幅に遅れる。
 三本槍岳から清水平へ下り、登り返すと、茶臼岳が目の前に現れ、終点がみえたことでほっとする。那須三山の最後の朝日岳に13:19に登頂した。
 バスの時間に間に合うよう、急ぎ下山していく。バス発車時刻の5分前の、14:50に山麓駅バス停に到着する。那須湯本で、途中下車し、硫黄泉質の鹿の湯で汗を流す。
 さっぱりしたところで、再びバスに乗車、17:10に那須塩原駅に到着。今回は天候にも恵まれ紅葉と温泉を存分に堪能した山行でした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№173から転載

三浦アルプス(二子山)立派な一等三角点、横須賀~横浜まで一望=武部実

 山行日 : 平成28年10月12日(水) 

 参加メンバー : L武部、中野、開田、武部弟の計4人

 コース : 逗子駅 ~ 長柄交差点 ~ 川久保 ~ ゲート ~ 二子山 ~ 阿部倉山の裾 ~ 川久保


 逗子駅から長柄交差点までは、バスで5~6分である。国道311号を東に向かって15分ほど歩くと川久保交差点。その横断歩道を渡り、5分で「葉山にこにこ保育園」入口の看板が見えてくる。
 道路を少し歩くと、保育園児たちのにぎやかな声が聞こえてきた。

 10:04、ゲートに着く。ここから車や自転車は通行止め。ゲートを潜り抜けると、ようやく山道らしい雰囲気だ。森戸川林道である。左岸には森戸川が流れる。樹木が濃いので、日差しがさえぎられて意外と涼しい。気持のいい林道だ。

 この辺から山頂まで、小鳥のさえずりが盛んだ。大きい鳴き声から、可愛らしい小さな鳴き声まで、何種類もの声を聴いたことだろう。だが、残念ながら、小鳥音痴の私にとっては、名前がわからず無念である。
 山頂の直下には「この森で見られる野鳥」の看板があり、15種類の小鳥が描かれている。今度行ったとき時に、確認してはどうですか。

 三浦半島中央道路の下を通り、15分ほど歩いたところが、林道の終点だった。(10:46着)。ちょっとした空き地になってベンチがあり、小休憩する。ここは分岐になっていて、東方向は中尾根を歩いて乳頭山に、北側は森戸川沿いに二子山に行くことになる。

 二子山コースには「マムシ注意」の看板があってドッキリさせられたが、ここから渡渉が始まる。小さい川なので、水量はもちろん少ないが、滑れば相当なケガはまぬかれないだろう。慎重に歩を進める。5~6ヶ所ほど渡渉し、この間にはトラロープが張ってある登りもあって、なかなかのバリエーションぽいルートだ。

 東逗子駅との合流点を過ぎれば、山頂はすぐそこだ。標高は低いが、立派な一等三角点の楚石を確認し、木材で組み立てられた展望台に登れば、眼下の横須賀はもとより横浜まで一望できる。見通しが良ければ、スカイツリーまで眺められるようだ。

 12:10 阿部倉山(161m)を目指して出発。樹林帯の中を小さなアップダウンがいくつも繰り返して歩く。なぜか一か所だけに、大きな50弁ほどの花をつけたトリカブトが咲いていた。もう、そろそろ阿部倉山に着くはずだが、一向に目的の山に着かず、とうとう川久保の登山口まで着いてしまう。
 どうやら阿部倉山を巻いてしまったようだ。これから登る、という地元の人に話を聞くと、わかりにくい場所らしい。それに阿部倉山は見通しも良くないと言われて、まあしょうがないかと納得した。
 13:10という早い時間に下山したので、帰りは逗子駅までのんびりと歩く。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№208から転載

小唄 = 石川 通敬

 人生を豊かにしてくれたものはいろいろある。その中でも、小唄は大きな比重を占めている。最近、最もうれしかったのは、毎年、小唄仲間の唄に合わせて踊ってくれている赤坂の芸妓育子さんが勲章をもらったことだ。
 これまで芸者という職業人が勲章もらったことはなく、彼女が第一号だそうだ。私は彼女の大ファンである。心意気が素晴らしい。
 あるとき赤坂の例会で、育子さんに、
「唄いたい唱があるが、師匠にあなたの身分の人が唄う唄ではない、と教えてもらえない」
 と愚痴をこぼした。すると、私が踊ってあげるから自主トレをしてきなさいと激励された。これを励みに練習し、翌年育子さんに踊ってもらったという思い出がある。
 叙勲の知らせを聞いた時、世間の目は確かだと感激したのだ。

 小唄が楽しい最大のポイントは、苦労して覚えた唱を発表するところにある。赤坂もその一つだが、一番緊張するのが、2年に一度師匠が三越劇場で主催する会で唄うときだ。
 時には半年近く練習を重ね、仕上げる。
 それだけに聞きに来てくれた友人から、よかったよ、と言われた時のうれしさは格別だ。老人ホームにも慰問に行くが、また来てね、と言われると、練習の苦労も吹っ飛ぶ。

 演奏会出演の副産物として得たものが、和服を着る楽しみである。家内の熱心な協力があって実現したのだが、有難いことと感謝している。

 しかし、ここまで来るには、50年の時間がかかった。小唄はマニアックなものと思う。なぜそんなものに関心を持ったのか、というと遠因が二つある。
 一つはビジネスだ。私が就職した50年前には、ビジネスマンの必修科目として囲碁、ゴルフ、小唄の三ゴが上げられていた。
 就職して間もなく私も囲碁とゴルフにはチャレンジしたが、小唄の世界は敷居が高く、長年憧れの対象であった。
 もう一つは、家族の思い出である。母はよく実家の昔語りのなかで、深川生まれの祖母が100年前に、祖父に連れられてサンフランシスコに駐在した。この時に、異文化の地でよく三味線を弾いていたと話していた。
 なぜか、深川、サンフランシスコ、三味線の取り合わせが面白く記憶に残っていたのだ。 

 それでも、40歳前後になると、外国人ビジネスマンを料亭に接待し、芸者の踊りと小唄を楽しむ機会が出てきた。そうした折、チューリッヒに駐在していた時のことである。日本から出張して来られた取引先の役員が、スイスの銀行員との昼食会の席上で、突然、
「小唄をご披露するので、君訳してくれたまえ」
 と私に依頼したのだ。
 その唄には、「こたつ」とか「向島」という言葉が入っており、日本を知らないスイス人が想像することはむりなものだった。だが、何とかその場のピンチは切り抜けた。おかしなもので、この体験が本気で小唄を習いたいと決意させることになった。

 夢が実現したのは、50歳になり、接待で日本のビジネスマン相手に料亭に出入りできるようになった頃だ。ある料亭の女将が、今、稽古をしていただいている春日とよ徳花師匠を紹介してくれたのだ。

 小唄の楽しみは、唄うことだけではない。
 日本の伝統芸能、邦楽、文学に幅広く接することができることだ。唄の題材は、江戸時代の流行り唱から、民謡、清元、長唄、浄瑠璃の世界が中心だが、奈良、平安時代の和歌、芭蕉の俳句まで取り込んでいる。時間的幅の広さは1000年だ。領域の広さは、歌舞伎や新派の芝居の取り込みに象徴される。 
   
 楽しむという観点で特に重要な特徴は、演奏時間が短いことである。短いものは1分。長くても5分だ。そのお陰で2、3時間かかる芝居や、読めば数時間かかる物語のエッセンスが短時間で楽しめるのだ。

 小唄のご縁で、享受しているもう一つの楽しみは、多彩な人との出会いだ。新年会、浴衣会の機会を通し、ビジネス界、官庁のOB・現役から、医者の奥様、女性社長や、師匠の弟子仲間の、神楽坂のベテランから若い美人芸妓まで、これまでに100人を超える人々と出会えたのだ。

 人気の街神楽坂が楽しめることも、気に入っている一つだ。
 師匠のお稽古場が神楽坂にあるので、月に4,5回は神楽坂に行く。そして、稽古の帰りには老人仲間と居酒屋で一杯飲む、それが恒例となっている。
 話題は小唄、三味線談議にはじまり、最近ではトランプ大統領、ときには石油、金融問題などが盛り上がる。

 ある時は、家内の友人とミッシェランの星のあるフランス料理店に行き談笑する。また、お稽古場の向かいにある八百屋での、買い物も得難い恩恵だ。場所柄、その店には料理屋向けの安くて、おいしい旬の野菜がいつもある。

 私は生来、歌が下手だった。習い始めたころ師匠が、「いいお声ね」と言ってくださったのがうれしく先輩に聞いたら、褒めるところがないときに使う常套句だと教えてくれた。
 今でも「いいお声」とよく言われるが、中々うまいとは言っていただけない。だが、たまに褒められるとうれしい。
 小唄にかける思いが、残された人生への活力の源泉となっている。

「了」

消費という奴隷 = 広島hiro子

 一月の早朝はまだほの暗く、静かだ。

 飛丸智子は布団に入ったまま、半覚醒状態でインスピレーションを拾いあつめた。枕もとのメモに、おぼろげな頭のまま、今日のメッセージを殴り書きした。


(富裕層をふくめ、超富裕層と言われる人々にも参加する権利はある。)
つぎつぎに思いもよらない言葉が湧いてくる。
いくら富裕層を顧客にもつ信託銀行勤務の彼女とはいえ、超富裕層との縁など、じっさいには無いに等しかった。にもかかわらず、飛丸智子はある確信をもって、かけ離れた世界に住む裕福な人々に思いをめぐらせていた。

(戦争をなくす最短の方法は、欲望の体系を再構築することです。そのためには、同等の機会を世界の隅々にまで与えなければなりません。お金を持つとされるものも、そうでないものも等しくです。)
 とメッセージはつづいた。

全文は、下記をクリックしてください。

消費という奴隷 全文・PDF


          写真 : google写真フリーより