寄稿・みんなの作品

【孔雀船Vol.92】 ひさしぶり=中井ひさ子

羽音がした

ごきげんさんと声がかかった


カラスごときに知り合いはない

耳の底がうごく

奇妙な懐かしさが

にじんでくる


会ったことあるか


子どもの頃か

いや

もっともっと


なみだつ向こう

おぼろな 

ひかりのなか


目と耳だけで話したな

抱えていた思い


宙にういていたな

いちにのさんで飛び降りた


カラスになってどうだった

トカゲとイモリが怖いねん


人の暮らしはどうなんや

人ってあんがい怖くって


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

    イラスト:Googleイラスト・フリーより

【孔雀船Vol.92】 さくらいろにそまれ廃墟=船越素子

  さくらいろにそまれ廃墟

     新宿梁山泊「少女都市からの呼び声」2018・3・26へ寄せて

                                  船越素子

廃墟のように生きてきたので

そういって帽子をとり会釈する男に

見覚えはなかったが

でらしねのひとだろうか

かすかに古めかしい匂いもする

そのノスタルジアは涙をさそう

胸と石畳に彫り込もうとした

若くて無謀なわたしの記憶を

あなたは空中で抱きとめた

人はノスタルジアで死ぬのですよ

焦がれる思いが胸を突き破る

丸の内三号館 秘密の花園前にて下車

ゴム引きコートの裾翻し

あなたと呼ばれる男が消えていく


都心の一等地のまぼろしの廃墟で

果てしない土地転がしのその先の先へ

スカラベ・サクレの相似・相反性を

いつかはあなたと語りあいたいから

ファーブル『昆虫記』をひもとき

ランチボックスをひろげ

昼の時間を 笑いさざめいていたのだ


気づきもしないだろう

あの中庭のマロニエと

出会ったときにはもう 

恋におちていたということ

樹の根はいのちだから

ガラスの子宮が砕け散っても

密やかな作業が繰り返されること


それからは害虫駆除も剪定も

砂粒のような日々を労働にかえた

地下茎が繰りひろげる

不思議な挨拶の作法が

わたしの身体奥深くに棲みつき

さくらいろのガラス玉が廃墟を埋めつくす

いつしか瓦礫のむこうから

吹き荒ぶ行軍の気配が たしかに近づいてくる


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738


イラスト:Googleイラスト・フリーより

緑と紅のコントラストが魅了する飯豊山(2105m・個人山行)=関本誠一 

日時:2014年9月下旬  晴れ時々曇り

コース:【二日目】大日杉小屋~地蔵岳~切合小屋~本山小屋~飯豊山 (往復:10時間)


『山行』
 南麓(川入)からの山行を計画していたが、昨年7月の集中豪雨で川入に通じる道路が寸断、『開通見込みない』とのこと。

 今年(2014年)はなかば諦めていたが、東麓から登るルート(中津川口)が車利用で可能なことに気づいた。
 まず最寄り駅からのタクシーを考えたが、駅がローカル線で東京から乗り継ぎ不便なのと、タクシー代が約1万円と高額なので諦めた。
 今回は山形新幹線・米沢駅でレンタカーを借りて、3時間かけて登山口がある大日杉小屋まで入る。
 町営の山小屋だが、鉄筋高床式で隅々まで清掃されて、まるで新築のようだ。

 素泊り(,500)のみで、8月迄のシーズン中は管理人も駐在し、女性も安心の山小屋だ。毎夕、見回りの管理人から尾根上の山小屋の情報入手し、翌日に備え、早めに就寝する。

【二日目】

 4時に起床する。朝食後、5時に出発した。今日は尾根にある小屋で泊まる予定なので、シュラフ・コンロ・コッフェル・食料など自炊装備を背負っての長丁場だ。
 登山口からほどなく、ザンゲ坂の急登が待ち受ける。
 鎖はないが、土が滑りやすいので、慎重に行登っていく。このコースは地蔵岳までの急登をどう乗り切るかが、キーポイントになる。
 途中『だまし地蔵』と呼ばれるピークあたりで、疲れもピークに達する。最近は、軽量装備で山頂往復という登山に慣れているせいか、今回のフル装備は一段と辛い。

 8時に地蔵岳に到着、ようやく谷を挟んで、飯豊山の全容を見ることができる。なんと立派な山だろう。これを見たら、誰でも感動する素晴らしい景色だ。
 地蔵岳から、ダケカンバの休憩ポイントまでは、アップダウンを繰り返しつつ、緩やかな下りだ。
 最低鞍部からは、飯豊山、切合小屋、種蒔山に至る稜線が、間近に見え気分も、ハイテンション。残り僅かになった秋のお花が元気を与えてくれる。

 切合小屋の手前にやぶ漕ぎ道があるが、左側から初夏の雪渓跡?を避けていけば、問題なく切合小屋に出る。
 ここからは、飯豊の醍醐味である。この時期は紅葉前線のなか稜線を本山に向う。
 快晴の空、緑と紅のコントラストが素晴らしい。草履塚、姥権現、御秘所と緩やかなアップダウンを繰り返す。御前坂の標柱まで標高を下げ、そこから本山小屋へ最後の急登だ。
 小屋前ベンチに荷物デポ、山頂へは平坦な道を約20分。山頂からは梅花皮方面の眺めも一段と素晴らしい景色だ。


 時間的に早かったので、山小屋には泊まらず、日帰りにすることに決定する。下りは登ってきたコースを逆に辿る。
 飯豊山はアクセスもルートも長く遠い存在だったが、今回ようやく山頂を踏むことができた。
 天気も待ちに待った晴天である。登りのきついということも忘れてしまうほど、なんと景色の素晴らしいことか…。
 しかし、飯豊の魅力のほんの一端しか触れてないと思う。それでも、すでに飯豊のとりこになってしまいそう。
 まさに『飯豊はイイデ~!』(笑)という皆さんの言葉通りの山です。ぜひ出かけてみてはいかがでしょうか。

(草履塚から望む飯豊本山)

  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№189から転載 

名もなきキノコの群生地、山梨県・倉見山(1256.2m)=佐治ひろみ

日時…2014年10月7日(火) 

メンバー … L武部実、飯田慎之輔、石村宏昭、大久保多世子、中野清子、佐治ひろみ、関本誠一

コース … 富士急行線・東桂駅 9:30 ~ 山頂12:30 ~ 堂尾山公園 ~ 寿駅15:00


『山行』

 台風で中止になった甲斐駒ケ岳の代案で倉見山に登って来ました。

 東桂駅に9:30に集合する。駅前から南に20分ほど歩くと、長泉院というお寺の墓地に着く。ここが倉見山の登山口になっていて、案内板も出ていた。なんだか変な感じだが、墓地の中からスタートすると、まもなくお堂が出てくる。

 そのまま進むと、道はだんだんと急になり、息も弾んでくる。両側はアカマツの林で、立派な木の根元には松茸が、…あるわけはないが、名前も知らないキノコが大小はえていて、見つけながら登ると面白い。

 鉄塔の所で、おやつ休憩の後、更に急坂を登る。
 道は相変わらず林の中の登り一辺倒だが、たまに木々の切れ間から三ツ峠方面や、下の町並みがきれいだ。

 そのうちに登山道には、トリカブトの花が目立つようになり、下山するまであちこちに咲いていて目を楽しませてくれた。

 それよりも楽しかったのは…、突然大きなナラの木? の根元に何か発見し、一同ざわめきが起こる。それはナメコの形をしたキノコの大株である。あちこちに生えていて、食べられるかは疑問だったが、誰か地元の人に聞くとして、みんなでビニール袋に2つも取ってしまった。

 それを担いで、更に登ったり下ったりすること30分。最後の急坂を登り切ると、頂上に到着する。

        倉見山山頂にて

 目の前に富士山が見えるはずだが、残念ながら今日は雲の中である。
 さっきのキノコを手に持ち記念撮影し、少し先のベンチで、昼食を取ることにした。富士山は見えないけど、6人で秋の果物などつまみながら、楽しいランチタイムだった。

 約30分の休憩後、寿駅に向けて出発する。登りもそうだったが、ここもイノシシが掘り返したのか、登山道はフカフカに耕されて、足には気持ち良い。登りルートに比べると、傾斜も緩やかで、回りも開けた感じだ。

 下りながら、杓子山や富士吉田方面の眺めを味わう。ススキの穂がいかにも秋の山行らしい。
 途中の堂尾山公園の東屋は屋根が壊れていたが、ここまで来ると、もう下界の音もチラホラ聞こえる。
 腰ほどある草をかき分けて下ると、ほどなく車道が見えてきて、14時40分本日の山行も無事に終了する。

 あとは寿駅への車道歩き。道々、地元の人に、先ほどのキノコを見せるが、はっきりとした回答は得られず、大月の観光案内所で紹介された定食屋のおばちゃんに聞く事なる。

 15:13発の電車で大月に戻り、定食屋で≪大≫反省会をして締めくくる。
 
 台風で甲斐駒には行けませんでしたが、武部さんの計らいで一日楽しい山行ができました。秋の味覚のキノコのその後は、中野料理長に聞いてみましょう。

 皆様お疲れ様でした。

     ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№182から転載

積雪期の魅力・奥多摩・御岳山(929m)=武部実

登山日: 平成30年1月28日(日) 

参加メンバー : L上村信太郎、武部実、大久保多世子、中野清子、佐藤京子、開田守の計6人

コース : 滝本~ビジターセンター ~ 御岳山 ~ 奥ノ院(1077m) ~ ケーブルカーで滝本


         奥ノ院への急登

【山行】

 10:00に滝本を出発する。ケーブルカーは使わず、樹齢が数百年の杉並木の大木が両側に鬱蒼(うっそう)と繁っている道を歩く。

 御嶽神社の参道だが、今日は寒いせいか、登山客や観光客も少なく、われわれ以外は数人しか歩いていなかった。参道は、山に住んでいる人たちの生活道路でもあり、舗装してあるので山登りという雰囲気はあまり無い。

 1時間10分ほどでビジターセンターに着く。休憩を兼ねて久々に中を覗く。職員に尋ねると、最近は外国人観光客が増えて対応が大変らしい。
 そういえば、パンフレット類も英語表記が多いようだ。私は、少しでも名前を覚えようと、鳥と花のパンフを貰う。これからの山登りに活かせたらいいのだけれど。


 御嶽神社に着いて目に付いたのは、イヌ年に関係あるのか、犬にご利益があるのか、それは知らないが、犬連れが多かったことだ。

 ペットブームだそうだが、ここにもその影響がおよんでいるのですね。神社の奥に御嶽山の山頂の石碑があり、ここが正真正銘の925m地点である。
 石段を登った正面にある拝殿だけで満足せずに、必ずここまで行くべし。


 12:40、奥ノ院に向けて出発。10分ほどで、ロックガーデン等の分岐の長尾平に着く。ここに登山家・長谷川恒男の顕彰碑が設置されてあった。
 大きな石に長谷川恒男の字、石碑にアルプス三大北壁単独登攀などの略歴が彫られてあった。2011年に没後20周年を記念して建立されたものだ。

 奥ノ院の登山口にあたるところの鳥居をくぐり、少し先の浄水場あたりから雪が積もっている山道となり、アイゼンを装着する。
 初アイゼンの人もいて少し手間取ったが、全員が揃って出発する。急登は無く緩やかな登りは快適だ。われわれの他に登山客は、数人のみの静かな登りであった。途中、一か所クサリ場があるが、慎重に歩けば危険なところではない。

 14:10奥ノ院の祠が設置してある所に着いた。ここから山頂までは5分ほどだが、見通しはあまり無い。大岳山や西方向が少し見えるくらいだ。
 登った道を下り、ケーブルカーの御岳山駅に着いた。(15:40)、丁度タイミングよく発車寸前に飛び乗ることが出来た。

 一週間前に降った雪がまだまだ残っていて、アイゼンの練習には程よい積雪であり、楽しく登れて良かったと思う。やはり、この時期にはアイゼンは必携だ。

  ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№221から転載

「和キルトX百段階段2018コンクール」で、黒木せいこさんが審査員賞を受賞

 2018年5月15日から、東京・目黒区のホテル雅叙園東京で、「和キルトX百段階段2018」が開催される。
 同コンクール「衣桁に掛ける和のキルト 和-モダン」の表彰式が、同日15時から雅叙園アンコタワー内「アルコ・ザ・ガーデン」で開催された。主催は公益財団法人・日本手芸普及協会で、投稿作品59点のなかから33点が選ばれた。 

 金賞はファションデザイナーの大澤恵美子さん(群馬・桐生市)で、作品は「蒔絵と回路」である。「子供のころから機織り機が聞こえる町に育った。いま、退職後、手間を省かず、時間を節約せず、思い切った作品をつくりかった」と受賞のことばを述べた。

 朝日カルチャーセンター千葉の「フォトエッセイ教室」の受講生・黒木せいこさんが、みごと審査員賞・岡本洋子賞を受賞した。


 審査委員の岡本洋子さんは、黒木さんの「夢まぼろし」について、
「白と紫の配色とコントラストが素晴らしかったです。6角形のヘキサゴンで構成されて、今回のコンクールのテーマ『モダン』にも、すばらしく上手にマッチしていましたので、選ばしてもらいました」
 と選評を語ってくれた。

 黒木さんは受賞の喜びとして、
「キルトの指導講師のもとから離れて、独りで制作に専念する道を選びました。それだけに、ひとりで制作する緊張感もありました。ただ、やり直し、手直し、という面がなく、3か月の短期間で仕上げることができました。ともかく、一人で作って受賞できたので、とてもうれしいです」と語った。

 紫の変化をたのしむ作品として、『夢まぼろし』のイメージ通りに、出来ましたと語った。

 自信作ですが、完成度は80%です。次作に対しても、粗材はたくさん持っていますから、と意欲的に語っていた。


【用語説明】

 衣桁(いこう)とは、和服をかけておく道具。衝立(ついたて)しきと屏風(びょうぶ)しきがある。

春末峡 第3章 黒淵を継ぐもの = 広島hiro子

 黒淵にたどり着いた。
 いつの間にか白くしぶきを立てる水音が途切れ、双璧に囲まれた黒淵の静けさが、また別世界を思わせる。舟付き場から先に見える水面は、風にそよぐほどの小さな波があるだけで、その色は深い碧色をたたえていた。垂直に伸びた岩壁が見上げるほど高く陽をさえぎり、なおさら深淵さをただよわせていた。

 ここは観光案内の紙面を飾る名所のひとつだ。川を行く渡舟と、山道を辿る登山道がある。舟は例年なら4月終わりでなければ運行していなかったが、今年は半ばからはじまっていた。智子と後藤信弘の二人は迷わず、登山道ではなく渡舟を選んだ。

「黒淵」の文字を入れた青Tシャツの若い舟頭が、片道か往復かを尋ねた。片道300円で、往復は500円だという。智子が山道もあるからと片道と言おうとすると、信弘が智子の肘を軽く抑えた。智子が言葉を失くしたすきに、ズボン内ポケットから素早く舟頭にお札を手渡した。
「往復。ふたりで1000円だね」


 平たい舟に先頭と後部に分かれ、前に中年の男性と、後ろに智子たち、舟頭が乗り込んだ。板だけを数枚左右に張った舟椅子の後部に信弘が座ると
「帰りはきっと疲れてるから。こうやって舟で座っていれば、一休みにもなる」
 と、小さくつぶやいた。
 智子は何も帰りまで同じ景色をみなくてもいい、と言おうとしていたが、なるほど運動不足とストレスとで疲労気味の智子にはちょうど良かった。運動用の靴を履いてこなかった智子には、なおのことありがたかった。
「気を使ってくれてるのね。なんだか昔より優しくなったみたいね」
「いや、そんなもんじゃないよ」
 彼は照れているのだろうか、だんだんと深くなっていく水底をじっとみつめた。

 若い舟頭は、5メートルほどの竹竿を水底に押し付けながら、ゆっくりと川上へ向かう。エンジンのような器具は何もなく、竹竿のみで舟を渡していた。
 先頭にひとり座る男性は、作業着の身なりからして少なくとも観光客ではないらしい。どうやらこの地の人のようだ。20代に見える舟頭さんは智子たち二人に、風景の説明を始めた。
「雪解けの水も含まれていて、この時期でも冷たい水の流れとなっています。
 水底に敷き詰められた丸石が透けて見え、浅いように感じらえますが、これでも3.4メートルの深さです。石の表面に小さな巻貝があるのがおわかりですか。これが蛍のエサとなるカワニナです。7月半ばには、夜の景色を薄明るくするほど蛍の群れで・・・・・・すぐ先は深さ5メートルになります。この切り立った崖に……」
 と慣れた口調で、渓谷美を伝えてくれた。

「なんだか貸し切りみたいね。申し訳ないみたい」
 智子の独り言のような問いに、舟頭が答えた。
「今年はちょうど数日まえから再開したばかりです。年によって変えたりするので、最初はお客さんは少ないです。ゴールデンウィークでなくて良かったですよ。それに秋なら、もっと並んで待つようになります」
「まあほんとに? ちょうどよかった。こんなにゆったり満喫出来て。運が良かったのね、私たち。いったい誰の運かしら」
 21歳で後藤と新婚旅行に行ったことを、ふと思い出した。別れて25年もたったのに、まるでつい数日前にも思える。
「運がいいのが僕ならいいけど、それはきっと、トモのほうだよ。君は自分では判かってないだろうね。君がものすごく強運の持ち主だってこと」
 後藤はまるで自分のことのように嬉しげに笑った。 

 舟は、いちばん深いあたりをゆっくりと漂う。もう少しで岩壁に根をはった山すみれに手が届きそうになった。見上げると、岩苔をたくわえた岩壁は天高く続き、その先さえ見えない。智子は幽玄な自然美に浸りながら、後藤の言葉をおぼろげに聞いた。
(私、運なんて強くないと思うけど・・・あれ? トモって今日、初めて言った?・・・・・・なんだか、昔行った新婚旅行みたい・・・)
 涼やかな波に揺られ、ゆったりとした時に流される。

 知らぬ間に、智子の数日前の仕事の悩みは、どこかに消えてしまっていた。

「その昔は水底が見えないくらい深く、黒く見えたので、黒淵という名前が付いた、というのがここの由来です」

 確かに水の色は緑碧色にみえるが、黒淵という名前のように黒とまでは言い難い。真下をのぞくと、しっかりと水底の石の形や模様まで見えた。
「石が丸いね。山道に転がってたのは、みんな角張ったのに」
 智子が独り言のようにつぶやくと、若い船頭は聞きもらさず答えた。
「この渓谷の強い流れが岩をまるく研磨するんです」
「え?ここは流れが少ししかないのに?」
「船底に見える丸石は、集中豪雨があるたびに、上流から流れて溜まったものです。聖湖のダムの建設で出た石や、岩雪崩で積もった石が集中豪雨で、徐々に黒淵の底に積もるんです。ここまでの話しは、あまりお客様にしないんですけれど……、今は流れてくる石に黒淵が埋められないように格闘してますよ」
「どうやって? 流れ込んでくる石は積もる一方だろう? ダムによらず、最近の豪雨も昔よりひどくなってきているし」
 後藤が身を乗り出した。
「以前より確かに浅くなってきてますね、黒淵は。昔は11メートル以上の深さがありましたから。だから時折り石を掻き出して、下流に押し流すんです。ひどい時には黒淵の底の石が水上につもり上がってきたこともありますよ」
「たいへんそう。自然の美しさもずっと同じじゃないものね。ここを守るのにも大変なことはあるのね?」
「そうです。ここは渓谷で、海に近いような幅広い川ではないので、集中豪雨の時はひどいことになります。石が流されるだけでなく、10メートルほど水かさが上がってくる時があるんです。あそこに見える茶屋のすぐ下まで、水が渦巻いてました」
 ふたりは唾をのんだ。この黒淵を10メートルもかさ上げする水量とはどのくらいのものだろう・・・
「津波みたいだね。家まで持っていかれそうじゃないか。怖いな……」
 静かな時には幽玄なたたずまいを見せながら、やはり自然の力は計り知れないものなのだ。
「ええ、実際、昭和63年には、あの茶屋の一階の丈半分が水に浸かりました。サッシも、押し入れも布団も何もかも流していったそうです。茶屋は辛うじて残りましたけど」
「うう……ん、恐ろしい。人なんてあっという間に飲み込まれそう。でも、あの建物もよく流されなかったけど、茶屋の目の前の大木も、良く流されなかったわね。あれば何の木?」

 茶屋よりも1から-2階分ほど下にある一本の大木は、ゆうに20メートルの高さがあった。63年の豪雨では、ちょうど川の中央で、踏ん張っていたことになる。20年近く前なら、木の先端近くまで豪水にまみれていたにちがいない。今では遠くから見ても堂々とした大木だが、新芽が吹き始めたところで、それが何の木の葉なのか、見極めることができない。
「あれば、ケヤキの木です。もう50年以上になります。僕がちょうどその半分の齢ですね。良く流されずにいるって、母がいつも言ってます。母がここに嫁に来た時は、まだ腕くらいの大きさだったそうです」
 智子は背筋の寒気を払いながら、話をつないだ。
「あ、お若いからアルバイトさんかと思っていたけど、こちらの息子さんな
んだ?」
「はいそうです。今は僕がここをやってます。よくいわれますよ。アルバイトかって」
 20代半ばという青年は、さわやかな笑顔で返してきた。

「小さい時から、ここを手伝ってます。祖母の代からずっとです。これからも僕がここを繋いでいきます。外国人のお客様も増えてきてますし。母では対応しきれないですからね」
そう言えば、あらかじめ見てきたHPに、フランスのミシェランで三ツ星をとったと紹介されていた。やはりネットの威力はものすごく、急に異国の観光客が増えたのだと、若い経営者は話してくれた。
 飾り気のない素朴な舟渡しの旅は、またたくまに間に終えた。青年は別の客をのせて、今度は舟を下った。
 青年は過酷な自然と、立ち替わる様々な客の対応に相対する。その背中は、黒淵を担い、心なしか頼もしく見えた。
 ケヤキの木は、もう流されることはないであろう。そして、この黒淵に深く根付いていくのだろう。

「ひとと自然か……。今日はいいもの見せてもらったな。来てよかっただろう」後藤は満足げだった。
 智子は黙ってうなずいた。

(おとといまで、仕事でがんじがらめになっていた私をここまで解放してくれた。それはこの深い自然の力なんだわ。ここに住む人も木も草も、生き物たちもすべて。そして、あなたのお陰でもあるのよ。でも、あなたにとって、これが目的ではないはずなのだけど・・・本当は観光旅行のつもりではないでしょう?あなたの言葉を聞かせて、ヒロさん)

 ふたりはそれぞれの感慨をもって、黒淵を後にした。

                       【つづき】

なぜだろう  =  林 荘八郎

 冬はカキが美味しい。わたしの好みは伊勢のものだ。そこで養殖している漁師に電話で注文する。年に2、3回取り寄せる。もう20年くらい続いている。
「横浜のハヤシですが」
 それだけ名乗ると、わたしの長ったらしいフルネームをわざわざ発して確認してくる。なぜだろうと思う。

 それが漁師本人でも奥さんでも、若夫婦であっても、電話をとった人はフルネームで念を押す。悪い気はしない。自分も上客に列せられているのだろうか。しかし、なぜだろうと思っていた。

 この冬、30年ぶりに伊勢神宮に詣でた。くだんの漁師は民宿を営んでいる。その機会に宿泊することにした。


 鳥羽から先の英虞湾の景色は美しい。多くの小さな島が浮かぶ静かな景色だ。入り江は波が立たず池のように穏やかだ。岸辺は驚くほど透き通っている。緑豊かな国立公園だ。開発を規制しているのだろう。
 的矢の隣の浦村の浜に着く。

 宿の前には小舟の発着用の桟橋が浮かぶ。そこから舟は沖の養殖用筏へカキを挙げに行き来している。30分ほどで戻り、小屋に運び込む。5、6人で泥にまみれて掃除している。この泥だらけの貝が、あの美しいカキになるのかと驚く。


 その民宿は母に教えてもらった。彼女は伊勢の実家で晩年を独り住まいしていた。女学校時代の幼友達に誘われて、あるとき泊った民宿での料理が素晴らしかったらしい。
 わたしが家族を連れて母を訪ねたら、その民宿へ案内したいと言ってくれた。わたしたちは喜んで同行し料理を堪能した。しかし母はそのとき不満だった。

 彼女にとっては友達と来たときのような内容でなかったらしい。食事が終わるまで、おかしい、おかしいと呟いていた。
 
 その時、隣の部屋にいる5、6人の若い女性グループの歓声が聞こえてきた。
「あんな予算でこんなすごい料理が出るなんて。この宿は最高ネ」
 わたしは直感で、配膳係が船盛り料理を運ぶ部屋を間違えたのだと思った。

 母は、その歓声には気が付かず「特別料理を注文したのに」と納得がいかない表情を続けていた。
彼女は、我々の歓声こそ聞きたかったのだ。


 帰りの車中でも嘆いていた。あんなにもしょげた表情を見せるのは珍しかった。母の思い出を家族と話すときには、今もこのときの話が出る。

 今回の宿は、実はその民宿なのだ。30年前のあの出来事は内緒にして、泊るのは初めてのように、わたしは振舞った。

 緑豊かな志摩半島に囲まれて、この入り江はカキの養殖には最高の立地だと若主人が言う。その夜の料理に満足し、そっと心の中で母に報告した。

 電話で注文すると私のフルネームを復唱するのはなぜか。刀を差した侍のような名前がオモシロイのか。理由は他愛もないので、いささかがっかりした。
「注文をいただく東の端のお客様は、昔は沼津の方でした。その後、永いあいだハヤシさんがいちばん東の端の、わが家では大事なお客さまだったのです。いまではもっと東のお客さまも増えましたが」

波の伊八 =  廣川 登志男

 アメリカのライフ誌が1999年に掲載した、「過去千年の世界の文明に最も影響を与えた偉大な人物百人」の記事がある。
 科学(31)、政治(19)、芸術(14)、思想(10)、その他(26)であり、そのなかで、日本人はただ一人。ダ・ヴィンチ、ベートーヴェンなどと並び、芸術(14)の中に、「葛飾北斎」の名がある。

 北斎は、優れた芸術家として世界的に高く評価されている。彼の作品の中では、とくに「神奈川沖浪裏(なみうら)」が有名だ。確かにその通りなのだろう。だが、房総の人間である私としては、若干気に食わないところがある。


 昨年11月中旬、東京都美術館で開催された「ゴッホ展―巡りゆく日本の夢」に足を運んだ。ゴッホ中心ではあったが、浮世絵や北斎の富岳三十六景なども展示されていた。とりわけ、北斎の「神奈川沖浪裏」は別格で、豪壮な大波が、まさに崩れ落ちる一瞬を切り取った、素晴らしいものだ。

「動」の一瞬を切り取った絵画はそれまで存在せず、ゴッホはもとより、カミーユ・クローデルの彫刻作品「波」、それに作曲家ドビュッシーの交響詩『海(ラ・メール)』の着想など、西洋芸術の多くのジャンルに多大な影響を与えた、と紹介されていた。

 
 房総鴨川の一角に、「波の伊八 生誕の地」の碑が建っている。
「波の伊八」とは、武志伊八郎伸由(たけしいはちろうのぶよし)のことで、1752年(宝暦2年)に生まれている。

 小さい頃から手先が器用だったので、彫刻師の弟子となった。そこで腕を磨き、安房・上総をはじめ、江戸や相模など、南関東を中心に百ヵ所近くの寺社に彫刻を残している。
 得意な作品は、「波」と「龍」だ。特に「波」の彫刻は当代一との誉れ高く、上方の彫師たちの間では「関東に行ったら波だけは彫るな。彫ったら笑われる」といわれていた。


 彼の欄間彫刻作品は、鴨川や夷隅周辺の寺に多く残っている。私が最初に見たのは、八年ほど前の鴨川の鏡忍寺。伊八の墓もそこにある。南房総市の石堂寺も有名だ。
 これらの寺院はほとんどが名刹で、火災等で縮小はしているものの、大寺院であった面影を今も残している。

 いすみ市にある行元寺(ぎょうがんじ)には三年ほど前に行った。ここにも、伊八の手による欄間彫刻「波と宝珠」が現存する。寺の坊さんから説明を受けた。

「表から見ると、右から左に打ち寄せる大波の波頭が、まさに崩れんとする一瞬を切り取っています。これを、裏から見ると、北斎の「神奈川沖浪裏」と同じ構図になるのです。よーく、ご覧になってください」
 この「一瞬の切り取り」が、北斎に「神奈川沖浪裏」の構図を創造させたのだという。私自身、にわかには信じられないほど驚いたことを覚えている。帰宅後、インターネットで伊八の勉強を続けた。

 行元寺の彫刻を制作したのは伊八58歳のときで、北斎は50歳だった。「神奈川沖浪裏」を含む冨嶽三十六景の製作より20年ほど前のことになる。

 北斎は房総によく来ていて、打ち寄せる波のスケッチが多く残っている。しかし、それらは正面から描いた平凡なもので、「神奈川沖浪裏」のような、波を横から切り取ったものでも、波頭の「一瞬の崩落」を描くものでもなかった。

 どのようにして、北斎が伊八の作品を知りえたのか?

 当時、雪舟十三世を名乗っていた有名な浮世絵師「三代堤等琳(つつみとうりん)」が、多くの弟子とともに活躍していた。
 いすみ市の太東﨑(たいとうさき)断崖上に飯縄寺(いずなでら)がある。本堂外陣欄間には、伊八五十四歳の作品「波と飛龍」があり、その内陣天井には、堤等琳自身が来て描いた「龍や花鳥図」五十数点が飾られている。また、さきほどの行元寺では、等琳の弟子のひとり等随(とうずい)が襖絵を担当していた。

 伊八は、等琳一派と、多くの寺で一緒に仕事をしていたのだ。

 北斎も等琳の弟子だった。彼は、師の愛弟子でもあり、その影響を最も受けた弟子だった。したがって、北斎は、等琳一派が一緒に仕事をしていた伊八の話も聞いていたことだろう。
 尊敬する師の仕事を見んと房総を巡るときに、伊八の作品もみたいと思っていたに違いない。こうして、北斎と伊八が結びついたと、歴史書は述べている。

 伊八の「波と宝珠」が波の一瞬を切り取っているのに間違いはないが、それを「神奈川沖浪裏」にまで昇華させたのは、さすがに北斎なのだろう。

しかし、世界的に有名な「北斎」に、天啓と呼べるほどの衝撃を与えた一人の「彫師」、片田舎に生まれた手先の器用な一人の「彫師」、が房総にいたことも事実だ。

 これらを知ったことで、「神奈川沖浪裏」を見る目が変わっていった。


  葛飾北斎作「富嶽三十六景」の小型画像を著作権フリーより

葉の裏に隠れた小さな青虫 =  月川 りき江

 数年前、兄から我が家のお墓が佐賀県にあるので、長崎に移したいとの話しがあった。
 兄は全盲で兄嫁が車の運転をしているので、歳とともに佐賀まで行くのが辛くなったと言う。私達姉妹は一も二もなく賛成した。それからほどなくして、6名で佐賀のお寺へ行くことになった。

 男性2名、女性4名。

 お寺の話し合いは午後になっていたので、佐賀に着いてすぐにお昼ご飯を食べることにした。一般的な小料理屋さんで、個室があった。

 食事が運ばれて食べようとする時、兄嫁がこそこそと兄に話しをしている。
「どうしたの?」
 と聞くと兄が、
「僕は見えないけど、『お皿の生野菜の上に小さな青虫がもぞもぞと動いている』と言うんだよ」
 とおしえる。
 兄嫁は内気でおとなしい人だから、何も言えないことは解っている。私はすぐに、
「そのお皿は私のお皿と交換しよう」
 と言って私の前にそのお皿を置いた。

 次のお料理を運んできた若い仲居さんに、この虫を見せて、
「調理場の方に一応話してくださいね」
 と優しくいった。ところが、再度部屋にきて、
「調理場ではいつも丁寧に洗っています。そのようなことは決してありません」
 そのうえで、
「その方のお一人分だけ御代はいりません、とのことです」
 この言葉で私は頭にきた。
「どなたか調理場の人か責任者に、ここに来ていただきたいと言って下さい」
 と穏やかに言った。


 横にいる姉たちは「もういいよ、いいよ」と心配そうに言う。
「私はいやよ、僅か3000円でケチをつけたと思われるなんて、私の気持ちは収まらない」
 すぐに女将さんらしき人が来た。
「事情はお聞きになったでしょう。調理場では洗い方に落ち度はないといわれますが、キャベツやレタスの葉の裏に小さい虫はあるかもしれないでしょう。私も一人分の食事代をけちる為に、五ミリの虫を大事に真綿にくるんで、長崎から、抱っこしてきませんよ。それともハンドバックに隠して持ってきたとでも言うのですか?」
 と、強く言った。
 女将さんは私の剣幕にびっくりしたのか、
「申し訳ございません。調理場の者たちにも言い聞かせます。たしかに小さな虫は葉の裏にいる事もあります。どうぞ機嫌なおして召し上がってくださいませ。お許しください」
 と頭を畳につけて謝られた。

 それから一同は食べたけど、私だけは半分も入らなかった。

 その後お寺へ行き、大事な話をすませて、6時の列車で長崎へ帰る予定だった。ところが兄が飲み直し、食べ直しで、夕飯をすませて帰ろうと言うので、お寺の奥さんの紹介で、近くの料理屋さんへ行った。小さなきれいな店だった。

 部屋に入るとテーブルの上に卓上コンロが二つ用意してある。姉と二人で、「これはおなべだね。」と笑って待った。

 案の定、大皿に食材がいろいろと美しく並べて運ばれてきた。仲居さんがお酒や、おつまみ等の小鉢など運んでから、
「ではどうぞごゆっくり」
 といって去ろうとした。そこで私は、
「あのねぇ、私達主婦はいつも家で炊事をして、お料理しているの。だからこのように外に出た時は、何もしたくない『上げ膳、据え膳』で食べたいから、貴女作ってくださいませんか?」
 とお願いした。
「あ、そうですか、男性だけの時は作りますけど、奥様がいらっしゃるから」
 と優しく言われて、二つのおなべができあがった。
「やはり貴女たちプロはお上手ね」
 と、褒めたたえ味以上に『美味しい、美味しい』と言って食べた。


 帰りの電車の中で姉が、
「貴女、よく言ってくれたね。私もグループで出かける時、いつもおなべは嫌。お店の方は楽なのよ。次からは私もこのように言って頼むことにしよう。やはり貴女がいないとだめねぇ」
 と喜んだ。
 おだてと思っても心地いい。
 私は、今日の自分を振り返って
(私ってクレーマーおばさんかしら?)
 と忸怩たる思いだった。


         イラスト:Googleイラスト・フリーより