寄稿・みんなの作品

山頂は広角の展望が楽しめる青梅長淵丘陵・赤ぼっこ(410m)=栃金正一

青梅長淵丘陵・赤ぼっこ 410m

1.期日 : 2016年12月17日(土)晴れ

2.メンバ: L栃金正一 渡辺典子 武部実 佐治ひろみ 石村宏昭 大久保多世子 
市田淳子

3.コース: 宮ノ平駅~要害山~天狗岩~赤ぼっこ~旧二ツ塚峠~天祖神社~青梅駅


 今日は、青梅長淵丘陵を歩く。天気が良く絶好のハイキング日和である。

 8:45、宮ノ平駅に集合した。メンバーは総勢7名である。山歩きの支度をして出発する。
 駅前の青梅街道を奥多摩方面に行く。左側には、これから行く長淵丘陵が連なってみえる。多摩川に架かる和田橋を渡り、吉野街道に出て稲荷神社の脇を行くと天狗岩への道標がある。

 細い坂道を行き、民家を過ぎると、登山道に入る。落ち葉の積もった九十九折りの道は、急だがしっかりしている。
 しばらく登ると、尾根上の梅ケ谷峠への分岐に到着する。ここから愛宕山へピストンで行くことにする。急坂を下り、平坦な樹林帯を過ぎるとも急に目の前が開けた。9:40に、愛宕山に到着する。

 山頂には、小さな祠と古い標識がある。そばに立つと、青梅の街並みと、先ほど渡ってきた和田橋が赤く色鮮やかに見える。

 山頂で少し休憩した後、分岐に戻る。
 尾根道は広くてしっかりしているが、アップダウンが以外と多い。急な木の根の露出した坂道を登り切ると、林の中の平坦な広いところに出る。

 10:00に、長淵丘陵の最高地点・412mの要害山に到着する。ここにも古い標識がある。

 更に先に進み、急な木造階段を下り、平坦な道をしばらく行くと、天狗岩への分岐に出る。往復で20分位なので、行くことにする。
 急な幅の狭い階段を下ると、今度は急な登りになる。木の根がむき出しになっている踏み跡をたどって行くと、大きな岩場になっている天狗岩に、10:30に到着した。
 天狗岩からの展望は良く、青梅市街地や青梅丘陵などが一望できる。

 展望を楽しんだ後、足場の悪い急な下りを慎重に降り、分岐の尾根道に戻る。更に10分位、行くと左方向が開け、赤ぼっこに10:55に到着する。
 山頂は広々として展望が良く、遠くは筑波山やスカイツリーなどが見え、奥多摩方面は、大岳山、御岳山、三室山等が見える。


 昼食後は、記念写真を撮り、11:45に出発する。広々とした道をしばらく行くと、金網のフェンスがあり、その向こうには日の出町の廃棄物処分場が見える。
 フェンスに沿った道を進んで行き、旧二ツ塚を越え、整然と整理された青梅市公園墓地を過ぎると、長淵丘陵の最終地点の大きな杉の木がある。ここが天祖神社で13:00に到着した。

 お参りをして休憩後は、神社の急な階段を下り、青梅市街に向かう。昔の映画の看板等があるレトロな青梅の街並みを見学し、青梅駅に13:30到着。駅前の喫茶店で、反省会を行った。天気に恵まれ、展望も満喫出来たハイキングでした。


 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№212から転載

愛する熊本城  =  黒木 せいこ   

 私は、ふるさとの熊本城が大好きだ。


 26歳で熊本を離れ、今では、別の土地で暮らした月日の方が長くなってしまった。ふるさとと言えば熊本城を思い出し、それがふるさとの代名詞になっている。

 帰省すると、熊本城をバックに、路面電車が走る風景を、写真に撮ったものだ。私にとっては、これが熊本を代表するふるさと自慢の風景である。
 
 お城は市の中心部にあり、いつも街を見おろし、りりしい姿を見せてくれていた。
 私が小学生のころは、学校の写生大会で何度も足を運んだ。夏には、城のすぐ下にある城内プールによく通ったものだ。
 春には桜が咲き、初夏には鮮やかな木々の緑で満たされ、秋には天守閣のすぐ近くの大イチョウが、見事に黄色く色づく。


 二の丸公園は、市民の憩いの広場であり、四季折々、私たちを楽ませてくれた。
 私の実家は、かつて市の中心部から車で15分ほどのJR熊本駅の近くにあった。それが、2011年の九州新幹線開通にともなう区画整理で、立ち退くことになった。父は亡くなり、母は一人暮らしだったので、立ち退き後は、熊本城のすぐ近くにあるマンションへ引っ越した。

 そのベランダからは、熊本城の天守閣が一望できた。昼間は、天守閣に登っている観光客の姿が見えた。夜はライトアップされて、幻想的な雰囲気になる。母は、まるで城をひとり占めしたような眺めだと言い、とても気に入っていた。                  

「うちのベランダからは、お城が見えるのよ」
 社交的な母は、そう言って、友達をたくさん家に呼んで、ベランダからの眺めを楽しんでいた。


 そんな熊本城が、昨年(2016年)の熊本地震で、甚大な被害を受けた。天守閣の瓦はほとんど落ち、重要文化財の長塀が100メートルにわたって倒壊し、櫓や石垣もかなり崩れた。
 地震の約一か月後、その痛々しい様子を実際に見たとき、私は、涙が出るほど悲しかった。

 今まで当たり前のように立派な姿で存在していた城が、大地震で突然、悲惨な姿になってしまったのだ。私は、自分の基礎となっている土台がガラガラと音をたてて崩れてしまったような気持ちになった。

 大惨事を肌で感じ、私は、心の底から熊本城を愛しているのだと実感した。それからは、テレビのニュースで熊本城の様子が流れると、食い入るように見入った。

 特集番組を見て、城の歴史についても、改めて知ったことがたくさんあった。

 驚くべきことに「武者返し」と呼ばれている石垣は、地震で崩れたのは新しく積まれた所で、400年前の築城当時の石垣は、崩れなかった場所が多かったと報じられた。
 また、城内には籠城に備えて掘られた120カ所もの井戸があり、壁や畳にかんぴょうや芋の根など、食べられる物を埋め込んでいたそうだ。

 熊本城は、築城当時の武士たちの英知が結集された、日本三大名城の一つと呼ばれるにふさわしい城だと、私は再認識した。

 天守閣は残念ながら西南戦争で消失したので、現在の城郭は、1960年に再建されたものである。私は1957年生まれなので、生まれたときには、なかったのである。
 もちろんその当時の記憶はなく、私がもの心ついたときには、すでにあの立派な天守閣が存在していた。


 それが、二度にわたる震度7の大地震の被害で、今は無残な姿をさらしている。
 だが、奇跡的に一本の石垣で倒壊を免れた「飯田丸五階櫓」は、懸命に持ちこたえている。どんな災害に遭っても負けないよう、私たちに手本を見せてくれている。


 元気だった母が、昨年秋に89歳で亡くなり、私には帰る実家がなくなった。母の住んでいたマンションは築浅だったため、地震の被害はほとんどなく、母の荷物もそのままの状態である。だが、今そこには、通勤に便利だからと、姪が一人で住んでいる。
 姪とは仲がいいので、私が熊本へ行くと言えば喜んで泊めてくれる。

 しかし、それは「帰る」のではなく「泊めてもらう」のである。気軽にいつでも帰り、いつまでいても構わないという実家は、もうなくなってしまった。母が亡くなって半年もたった今ごろになって、親をなくすとはこういうことなのだと、ひどい喪失感が襲ってきた。

 そんな寂しさがあるからだろうか、熊本城への思いはますますつのるばかりだ。城の再建のためになんとか力になれないものかと思っていたら、「復興城主」が募集されていると知った。

 1万円以上の寄付で「城主証」が発行され、デジタル芳名板に名前が登録されるそうだ。これはいい機会だと思い、さっそく申し込むと、一か月ほど経って「城主証」が送られてきた。

 熊本市は、天守閣の再建は3年後になる。
 城全体を地震の前の状態に戻すのは20年後、という目標を発表している。長い道のりになるが、復興した姿を何としても元気で見届けたいものである。

今年の初登りは大山(丹沢山塊) = 佐治ひろみ

山行 : 大山(丹沢) 標高1252m

日時 : 1月14日(土) 晴れ

メンバー : L栃金正一、開田守、佐治ひろみ

コース: 伊勢原駅 → 日向薬師バス停 ~ 九十九曲入口 ~ 見晴台 ~ 山頂 ~ イタツミ尾根 ~
柏木林道 ~ 蓑毛 → 秦野

 2017年の最初の山行は大山になった。
 今日の天気は晴れ。しかし第一級の寒波が来ているので、だんだん天気は崩れてくるらしい。山頂はどうだろう。寒いかな?

 伊勢原駅に集合し、8:15のバスで日向薬師バス停まで行く。トイレもある広場で、身支度を整え歩き始める。しばらくは道路歩きだが、途中のお寺の五重の塔や里山風景を見ながらウォ-ミングアップする。

 九十九曲入口からいよいよ登山道だ。名前の通りのジグザグ道を1時間近く登って行くと、見晴らし台に到着する。
 今まで寂しく登っていたが、ここは大勢の人が休んでいて流石である。大山は人気がある。小休止した後、出発する。今までは山の陰の杉林だったが、ここからは葉の落ちた眺めの良いコースである。
 明るくて、キツくて、おまけに雪もどっさりあって、登っていても、とても楽しい。大荷物の登山部の学生さん達と、抜きつ抜かれつしながら、11:55に山頂に着いた。

 

  土曜日とあって、山頂はごった返しの大賑わい。記念写真を撮った後、ベンチを見つけてお昼にする。

 丹沢の好きな所は、この海まで見渡せる景色の明るさだ。寒波の影響で、西の空は薄暗い雲だが、幸い真上は晴れていて寒さも、それほどではない。

 12:30に下山に入る。ここからは3人とも、アイゼンを付け、滑らないように慎重に慎重に下りて行く。そのかたわらを、軽装のトレランのグループはアイゼンも付けず、早足で下って行く。滑って転んでましたけどね。

 表参道への分岐から、私達はイタツミ尾根に入る。この尾根からは、雪をまとった富士山や丹沢の秀峰が眺められるので、好きなのだが、今日はとにかく寒い。
 風の通り道になっているらしく、冷たい風が容赦なく吹き付けて、さっきまでの穏やかさがウソのよう。寒さに耐えながら、ザクザクと下る。

 13:40に、ヤビツ峠付近から蓑毛に下る柏木林道に入る。その頃には雪も無くなり暖かく、皆アイゼンを外す。
 山際の良い道をサクサクと下り、水場を超えると、舗装された道路に変わる。

 14:50 蓑毛バス停に着くと、大勢の登山者が並んでいた。やはり、大山は人気があるなあ。まだ登って無いルートが幾つもあるので、ヒルの出ない時期に、是非また登ってみたい。

 ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№211から転載

富士山、南アルプス、丹沢の全容が楽しめる高尾山 = 賀井省子 

高尾山(599m)                  

日時:2017年1月28日(土)快晴

メンバー:L上村信太郎 ・ 高橋永仁 ・ 賀井省子 計3名

コース:高尾山入口 = 琵琶滝 = 3号路 = 山頂 = ビジターセンター = 薬王院 = タコ杉 = 清滝 = 高尾山口駅


 冬晴れの朝10時に、高尾山口駅を出発した。
 稲荷山との分岐に、キンギョツバキを上村さんに教えられ何度か通っている道だが、見落としていた。

 琵琶滝(びわだき)近くになると、読経が聞こえる。その後、水行が行われるかなと思いながら、脇階段を上り、3号路に合流すると、静けさを味わい、広い道には人影もまばらである。
 上村さんから、照葉樹林、常緑広葉樹、落葉広葉樹の話をしてくださり、一休みした後、頂上への登りに入った。
                 写真はキンギョツバキ

 大岳山、御岳山が、それとわかる特異な山容が目に焼き付いた。

 山頂からの富士は高々とそびえ、南アルプス、丹沢の全容が12時頃なのにさすがであった。

 昼食後、「シモバシラが出来てるかどうかな」と、山頂から紅葉台側へ下り見に行った。だが、斜面が少し乱れ、氷の花は見えず残念である。

 高橋さんは、初めての高尾山なので、帰路は薬王院を目指す。

 茶店では、破魔弓(はまや)と節分の豆が同時に売られている。杉苗の寄付者名には、北島音楽事務所など有名人の名札の連なりを眺めて下り、「10万円かな」と話をしながら、広いコンクリートの参道をたこ杉、野草園を通り、清滝まで下った。

 そうそう!ケーブルカーの乗り口には、北島三郎の銅像が置いてあったので、びっくり。さらに京王線が人身事故で、それぞれ高尾、分倍河原経由で帰路に着く。

 私の歩数計は、22,456歩であり、うれしい限りです。久しぶりの山歩き、ありがとうございました。



ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№210から転載


道志山塊のスケールの大きい御正体山 = 栃金正一

 御正体山、標高1681m

1.期日 : 2016年11月12日(土)晴れ

2.参加メンバ : L栃金正一、武部実、関本誠一、開田守

3.コース : 都留市駅(バス) ~ 道坂隧道入口 ~ 岩下の丸 ~ 御正体山 ~ 峰宮跡 ~ 三輪神社 ~ 熊井戸入口(バス) ~ 都留市駅

8:10に、都留市駅発のバスに乗車した。だんだん標高が高くなるにつれ、周囲の山々の紅葉が美しい。右手には、これから登る御正体山が見えてくる。
 道志山塊の最高峰だけあって、とても大きい。

8:40、バスの終点の道坂隧道入口に到着。

 準備をしてから出発。駐車場脇の道を登り道坂峠に出て、今熊山への道を分け、急坂を登り終わると、目の前が開けた。4等三角点のあるガンギ沢の頭には9:20に到着する。
 ここから道は平らな尾根歩きとなり、左側に丹沢山塊と道志の集落が見える。尾根歩きが終わり急な斜面を登ると、岩下ノ丸のピークに10:05に到着する。
 緩い下りの尾根道をしばらく行くと、道志村の白井平からの分岐に出る。ここからは、ブナ林のなかの急な長い登りになる。八合目あたりを過ぎると、一旦は傾斜が緩み、その後の急坂を登り終わると、ぽっかりと空が開けた1等三角点のある御正体山頂に、11:55に到着する。

 山頂は広々としているが、周りは木々で囲まれており、展望はない。小さな御正体権現の祠があり、皇太子殿下の登頂の記念プレートも設置されている。


 ここで、記念写真を撮り、ベンチに座り待ち遠しかった昼食にする。

12:25、山頂を出発する。山頂から北に向かって、ブナやミズナラ等の樹林帯の道を下って行くと、小さな石の祠と石灯篭がある峰宮跡に12:50に到着する。

 さらに少し行くと、池の平方面との分岐に出る。この分岐を右に行き、三輪神社方面と続く尾根を下る。
 道は急で、昨日の雨で落ち葉が濡れていて、滑り易く慎重に下る。しばらく下ると、尾根の幅が広くなり、道が緩やかになる。
 日が当って美しいブナ等の赤や黄色の紅葉を眺めながら行くと、目の前が開け、治山工事の作業道路に出る。

 並行して登山道があるはずだが、入口がわからないため、作業道を行くことにした。作業道は歩き易く、予定より約1時間も早く、三輪神社に到着した。
 バスの時間があるので、先の熊井戸入口のバス停まで歩くことにした。途中、後ろを振り返ると、日に当たった御正体山が堂々と大きく見える。

15:30の熊井戸入口のバスに乗車し、15:45に都留市駅に到着した。

 天気に恵まれ、美しい紅葉も見られ、道志山塊のスケールの大きい山を堪能できた山行でした。


ハイキングサークル「すにいかあ倶楽部」会報№211から転載

【寄稿・掌品】 春終の三段峡 = 広島hiro子(3)

 実は、以前にも智子は二度ほどこの地を訪れていた。一度は独身時代に、仲間と連れ立って行ったとき。これはほとんど山歩きしながら話したりしていて、肝心の景色を覚えていない。もう一度は10年前に家族連れで訪れたが、小学校の子供には少し酷だったようだった。途中、自然観賞どころか、「まだ~まだ~」と足の疲れを訴える子供の声しか残らなかった。

 やや気を取り直しできたのは、やはり黒淵の渡し舟のおかげだったろうか。さすが日本百景のひとつを誇る渓谷美と冷たく透き通る静かな景観は、子供の情操教育に役立ったと思った。しかし、今では当の子供はまったく覚えていないらしい。

 渓谷好きの智子なのに、三段峡の思い出はいまひとつで、心に染み入るとまでには程遠いものでしかなかった。
 そんな思い出らしい思い出のない三段峡は、今はまるで別もののように輝きはじめている。
自然そのものの息吹を、余計な役割に縛られることなく吸い込めるのはしばらくぶりであった。
 こんな時間をもてたのも、後藤のお陰なのかもしれない。
 昨日の後藤とのファミレスで、彼の話に親身になれなかったことを少し後悔した。


 昨夜、ファミレスに着くなり、彼は仕事で混迷している智子の虫の居所をさらに悪化させた。
「君、前に逮捕されたことがあったよね。あれからどうなった?まあ、金融機関に務めているところをみると、前科もんじゃあないらしいけど?」
 今や大企業に勤める智子にとって、誰にも触れられたくないことを、無神経に言ってのけるのだ。新聞に載ったことも、すべて親戚一同や友人でさえも触れたりしないのに。
封じこめていた思い出が一気に沸き上がる。
「何よ、誰のせいだと思っているの。忘れたわけじゃないでしょうね。24万円のセット商品を私が立て替えたのよ。あなたの成功のために。」
 眼を伏せると、後藤はポケットの煙草に手を伸ばそうとして、止めた。
「ああ、別れて何年もたつのに、忘れずに電話をくれてありがたかったよ。これでも君のために成功したいと思ったんだ。」
「でもあなたは商品のセットを私に送り返してきた。結局やめたかったのよね。一度も私に会いに来なかったわ。電話も出なかったし、居留守?あれはわざとだった?」

 何十年も前の話を、まるでつい先日のように話すもの変だと智子自身で思うのだが、消してしまいたい思い出を穿り出されたことが、無性に腹立しく思えた。


 当時、高校中退で薄給の彼は、結婚当初から金銭的に苦しかった。親と共に同居を余儀なくされたが、その親が大きな原因でもあった。何でつくったかわからない後藤家の舅の借金で、その息子である信宏は給料のほとんどを、家賃の名目で親に渡していた。

 その時住んでいた家は借金のかたに銀行のものになったが、その家に家賃を入れて借家として住み続けた。近所からは借金のかたに取られたとを隠し、家もちであると思わせるために、同じ生活を続けた。息子が結婚式もせず、子供が先にできたことを近所から後ろ指をさされないように、嫁である智子には散歩を禁じた。
「あんたのせいで、信弘は新聞を斜めに置くようになった。あの子は高校の時の先生に、医者にでも何でもなれるといわれるほど優秀だったのに、几帳面でなくなったのはあんたが来たからよ。佑の母ちゃん、毛が三本、毛が三本」
 と孫をあやしながら、歌うようにいい続けていた。さらに小姑の結婚資金を、サラ金で借りてでも人並みにやってのける、世間体を守ることが当たり前の夫婦だった。豪勢な結婚式をした後、返済に苦しくなり、智子に押し付ける形になった。

 智子がチック症にかかり一年半後に初めて実家の父に打ち明けると、後藤家と縁を切るようにと連れ戻された。信弘とは別居中の半年間なんの連絡も取り合わなかった。半年すぎて後藤家に智子が訪れたとき、
「帰ってくれてありがとう」
 という信弘の手を思わず振り払った。その言葉を素直に受け取ることがどうしてもできなかった。離婚届を置いた。間の悪い人だと心で泣いた。


 ネットワークビジネスへの投資には、そんな中卒という低学歴のしがらみから抜け出せるようにと、ちょうど6年経ったとき、智子から誘いの電話をした。相変わらずの貧乏暮らしを遠巻きに知り、ひろの父親としてできるなら貧困から抜け出してほしいという思いからであった。

 電話をすると、案の定、投資の軍資金がない状態であり、信弘からお金を貸してくれと言われた。智子は、自身の資金で彼の商品のセット金額を振り込んだ。しかしその後、彼に会うどころか、電話すら連絡の来ることはなかった。
 智子は、何となく理解していた。とうていネットワークビジネスという過酷なチャレンジに彼が向いていないことを。智子は自分自身の責め、二度と彼のために連絡することはなかった。

「でも結局その会社、つぶれたんだろ?・・・・たしか、出資法違反か何かで上が捕まったんだっけ」
「私に謝りたくてそんなことを蒸し返すの?、それとも何かあなたに迷惑かけたかしら?」
「いや、そうではないけれど。君は以前、格差の世の中を何とかしたいって言ってたよね。でもネットワークなんかで成功なんかしないよ。もしかして、まだそれをやめていないような気がして。思い過ごしかな。」
 何も理解せずチャレンジさえしなかった彼なのに、何十年も経た今になって意表を突く質問を投げかけてくる。素人の勘というものなのか、何なのだろう。智子は彼の想像の通り、大企業に勤める今もその会社と縁を切れずにいた。

 多くのネットワークビジネスや会社が人から搾取する手段であった中で、ここだけは唯一人を最大限に大きくするものであると智子は信じていた。
 今では通販の会社になっていても、その理念には揺るぎがないはずだ。しかしそれを話しても、とうてい彼に理解できることではない。智子は彼に言った。
「安心して、もう佑を心配させるようなことはしてないから。」
 智子がそう説明すると、彼はこういった。
「誰のためかなんて聞かないけれど、あんまり危ないことはするなよ。今は家族がいるんだから。」
 独り言のようにつぶやく声であったが、智子には責められているように聞こえていた。
早くこの話を終わらせたかった智子は、別の話題に切り替えた。
「お義母さんの様子は?」自分でも意外なことを口にしてしまったと思った。
 本来はもう赤の他人で、「お義母さん」と呼ぶ間柄ではない。しかし、それ以外にしっくりとした呼び名がない。


 消費にのせられ、嫁に借金させても体裁を重んじる夫婦への恨みを、年月は包み込んでしまうものなのだろうか。今になってもお義母さんと呼んでしまう自分がおかしいと智子は心の中で自嘲した。
「一度お義母さんから電話があったのよ。15年ほど前、私が今の旦那と結婚して子供が5つのころかな?信を知らないかって。仕事もやめて行方不明になったって。行くところは智子さんのとこしかないはずって、泣きながら。」
「そうか、母さん電話したんだな。君の所にかけるなんて。・・・あれでも、死ぬほど心配したのかな・・・」」
「知らなかった?奥さんも心配されたんでしょうに。」
「今初めて知ったよ。すぐに帰ったけどね。ちょっと僕も病気だったからな。・・・。自分の育て方が悪かったって・・・俺がかえって来た時母が泣いてたよ。」
 詳細を尋ねるのは、はばかられた。きっと心の病もあったのだろう、高校中退してしまう心の弱さのある人、若い時からそうなのだ。昔から、突っ張っているようで、肝心なことは何も言わなかった。
「お義母さん、私の母より5つ上だから、もう80歳になって?」
「うん、生きてたらね。もう父も母も3年前に亡くなってるよ。」
 一瞬、意味が解らない気がしたが、言われてみれは当たり前だ。人の寿命などわかりはしない。そうか、両親の葬儀にも呼んではくれなかったのだと智子は腑に落ちたかに思った。

 たとえ1年でも一緒に暮らし、お義父さん、お義母さんと呼んでいたのは幾ばくかの縁であったろう。別れの一言、せめて、恨んでなどいないことを伝えたかった。
 もちろん、こちらは息子の結婚式にも呼んでいないほど疎遠であったのだから仕方ないことだ。
 過ぎたこと、終わったことは聞くまい。それは今の夫婦で乗り越えるべきものだから。
智子は改めて、すべての思い出を振り払った。
                             【つづく】

四国八十八か所巡礼 歩く(1) 讃岐路 結願へ=原田公平

 まえがき
 退職した2年目、2005年の5月に歩き始めた「四国88か所巡礼」、途中、「地球一周の船旅」に熱を上げたが、10年後の2015年5月より再開し、翌年の2016年10月に結願を目指す。標高745㍍の横峯寺、500㍍の三角寺、910㍍の雲辺寺も終えた。
涅槃の道場、さぬき路は、あと70番の本山寺から88番大窪寺まで19の寺、118㌔と4日間である。4つの山の上の寺もあるが、最後の大窪寺が445㍍で後は低く、天気もギリギリもちそう、順調に推移しそうだと気楽に考えていた。
 歩き遍路はあまくはなかった。いくら「涅槃(ねはん)の道場」といえ、「歩き遍路」はあくまでも修行ということを、最後の最後までおしえられた。
 そのラスト風景を書きました。


 10月12日、週間天気予報では雨。雨で困るのは靴、2つは用意している。
愛用しているのは通気性100%のジョギングシューズで、マメの心配がない。靴の下敷きを2枚重ね、着地のクッションは抜群だ。

 今回も2日目は少し雨にあい、雨用の靴に履き替え数時間歩いただけで豆の兆候が表れ、靴を替えた。だから雨の前にこの遍路を終えたい。

 昨日は88か所の最高峰の雲辺寺を登って下り、30㌔余歩き、70番の本山寺の前の一富士旅館で泊まった。この日はゆっくり8時前に出発。
 広い境内、五重塔に本堂は国宝、ゆっくりする時間はない。さぬきの寺の特徴は、山門に大わらじが多い。

【寄稿・掌品】 春終の三段峡 = 広島hiro子(2)

 信託銀行機関の中でも、投資部門を勤める日丸智子は、12年ほど経た投資のプロだった。
 そんな一見先端の仕事を引き受けてはいるが、もともとは自然大好きの田舎育ちだ。かつて父の実家の母屋では猟犬のポインターを飼い、父はよくいのしし狩りや、きじを撃ちに出かけていたのを覚えている。

 猟にこそついては行かないものの、四季折々の山菜取りはもちろん、海に行けば海の幸を夕暮れの浜辺で思う存分食したりした。素もぐりでサザエやあわびを取ってくる父は、子供心に何でもやりこなす頼もしい父だった。

 小学3年生のときの記憶は、今でも艶やかな深い青の色彩とともに鮮明に心に残っていた。
 山深い笹の茂みで、独り身を潜めじっとしていると、頭上にはじめて見る瑠璃色に鳥がいた。そのつやつやと光る瑠璃色の長い尾っぽの主は、智子の幼い心をとりこにした。
 るり科の中でも今では貴重な「おおるり」という中型の野鳥であった。それは智子にとってまるで昨日のように思い出される、心躍る特別の一枚の写真になった。

 そんな自然のかなで、自由に育った娘にとっては、いくつになっでも山や海は母の懐のようなものなのだ。三段峡の手付かずに近い自然は、智子の幼子心を呼び戻しかけてくれた。

 しかし、昨日まで仕事上のミスでこの世の終わりのごとく悩みながら、今日はどこ吹く風ではあまりにゲンキンだと自分でも思う。それに昨日のファミレスでの会話にもこだわっていた。智子はなるべく後藤に気づかれないように振舞った。

 渓谷の入り口で、そんなことを思いながら、だんだん日差しが強くなる春の日差しを手かざししてよけた。少し先を歩いていた後藤が戻ってきた。
 日差しに顔を曇らせる智子を見て
「まだ、気にしているのか?」
 と智子に声をかけてきた。
 本当は気分が高陽しはじめている自分を隠して彼女は答えた。
「そんな単純な問題じゃないわよ。あっちもこっちも頭が痛いわ。」
「そうかもしれないな、昨日の話しじゃあ・・・まあ、君は忘れるのか得意なんだから、気にするなよな。」
 智子は自分が健忘症に近いことを気にしている。
「一言とげがあるひとね。あなた昔からそんなんだったっけ?」とふくれっ面を見せて、先をきって歩き始めた。
 例にもれず、道の地図、案内が表示されている。
 一日かけて全部を見て回れば、半日は必要だ。しかし昼近くになろうとする今からでは、黒淵まで往復するのが妥当な線だ。
「なんだ。肝心の秘境は見れそうにないわね。行きたかったのに。」
「何なら一泊どまりって手もあるよ?入り口に古い温泉宿あったし。」
「何言ってるの、初めからそれ狙い?」
「何それって。なにか期待してたのかな、俺?」
 中年50歳を過ぎてから、かわれていることに智子は更に頬を膨らます。

 しかし、先ほど赤い橋から見上げた日本式の木造家屋の温泉宿は、今では珍しい趣を漂わせていた。二軒ほどの縁側をそれぞれに持つ部屋は、木枠の全面が透明なガラス張りだ。四季の味わいを深めるにふさわしく、水墨画の日本の風景に溶け込んでいた。

 そういえば、後藤との新婚旅行は、四国を軽のワゴン車で一周する貧乏旅行だった。
 身重で結婚式も上げず二人で泊まった初めての宿が、ちょうどこんな宿だったことをふいに思い出した。
(やっぱ、わたし忘れっぽいんだ。今まで思い出しもしなかったのに・・・
 と感傷に浸っていてはいけない。不倫旅行じゃあるまいし)
 30年前の思い出を打ち切った。

 山道には、他にも板張りの注意書きがいくつかあった。
『落石、倒木注意・・』
 なるほど、遊歩道は自然そのままに、近い道で凸凹だけでなくごろんとした石が転がっている。落石を片すこともできないくらい、頻繁に落ちてくるのだろうか。なんだか不安になる。数百メートルとたたないうちに、すれ違い通るのもままならないほどの細い道になった。

 山裾のからはみ出して積もっている古葉を踏みしめ、自然そのままの道をカサカサと音を立てて歩く。智子は家族に行先も告げず、小旅行のような気分になれないまま、平底ではあるが仕事の普段履きで訪れてしまった。
 そんな智子にあわせてか、後藤は責めるそぶりもなく注意深く歩いてくれた。智子はそんなことにお構いなく、足元の草花を観察し始めた。
 山林の葉隠れの岩場や古木は、薄陽に輝くるきみどり色のこけを重ねる。ところどころに枝ほどしかない山水の流れをつくり、渓谷の本流へと消えていく。ちょうどよい湿りを含んだ山肌は、上等なこけの衣をいくゑにもひろげていた。

 智子はつややかな草花たちを持って帰ろうと、携帯カメラのシャッターをきり始めた。
 新芽をちりばめた木々、やますみれ、正式な名称もわからない一輪草、中には小さくてかわいいリンドウの花が地面からのぞかせている。まるでカメラマンになったように智子が草花を収めている間も、後藤は歩調を合わせてくれた。

 まるきりの異性でもなく他人でもない後藤は、思いもかけず智子に居心地の良さを与えていた。それにもうすうす気が付いていたが、智子はそれ以上に自然に集中した。

【つづく】

【寄稿・掌品】 春終の三段峡 = 広島hiro子(1)

 峡の春終は、智子にとり、かつて感じたことのない別物の趣きを放つことになる。
 同じ景色でありながら、連れ行く人によって、情感の機微というそれぞれの彩が添られてゆく。心に映し出される風景は単なる色ではなく、こもごもの想いと共に、忘れ得ぬ一枚の絆をうつす瞬間だった。
 それはどんな人間にも、ひとつあるいはいくつかを持っている自分自身にしか見ることができない風景なのだ。

 とおにソメイヨシノの見どころを過ぎた広島市内では、緑の桜葉に勢いを増し始めてきている。が、さすがに広島の奥地に位置する三段峡だけに、今が桜の盛りだ。
 三段峡行きの路線バスの終点で降り立つと、智子はあたりを見渡した。
 小さな古びた商店が数件並ぶ。例年よりは遅い桜の見ごろだと茶屋の主人が話してきた。今日は4月21日、春の終わりといえそうだ。
 5月となれば、それは初夏の様相に変化する。今は残り少ない春を満喫するときだった。三段峡の桜は日本古来の山桜だ。自然特有の透けて見えそうな淡い色合いの花びらが、少しばかり舞いながら、まばらに訪れる客たちの歓迎をしているかのように見えた。
 人ひとり分の間を空けて智子の前を歩くのは、今回の旅の友となった4歳年上の後藤信弘であった。
 中背でもやや猫背に歩くために小さく見えたその後ろ姿は、25年前に見たまだ若かりし日の彼とあまり変わりない。変わったとすれば、顔こそしわを刻み、男性の割にはまつ毛を蓄えた美しい目であったものも瞼の筋肉が衰えてややたれ目がちにと変化してしまったことだろう。

 50代半ばにして贅肉に悩まずに済んだのは、今に至っても裕福でいられなかった暮らしぶりからなのだろうか……。世間体ばかりを気にしていた元姑や後藤家一族の面子が思い浮かぶ。
 後藤は、智子の25年前に別れた元夫であった。あまり余計なことは考えるまいと智子は思った。
(わざわざ松山から私に会いに来たのは、別れた息子の様子を知りたいためなんだから。でも、昨日、仕事中に会社の電話から呼び出されたときは心臓が飛び出るかと思うほどびっくりした。それにしてもわたしの仕事のミスが見つかって課がもめているときに架けてくるなんて、ほんとうに間の悪い人……)

 
 一昨日の職場でのミスは痛かった。信託銀行でなくとも金融機関であれば、基本中の基本とされるルールである、
 高齢者にリスクの高いものを勧めてはならないという絶対の決まりを、智子は単なる不注意であっさりと犯してしまっていた。昨日の昼に、総務から呼び出され、ぎゅうの目にあわされているさなかに、間の悪いあの人から連絡があったのだ。

 開口一番に彼は言った。
「佑が結婚したと聞いたよ。はやめに時間をくれないか?」息子の結婚式は、もう一年近く前にすでに済ませている。実の父親の顔も覚えていない佑は、生みの父を結婚式に呼ぶ選択肢を持たなかった。

 それは、智子とても同じことで、話題にさえ上らないものだった。智子の再婚後の結婚生活は20年にも及んでおり、後藤とのほんの1年半の生活は過去のものでしかなかったのだ。しかし、結婚式の招待はおろか、25年もの間一度も会わせる機会をもたせなかったことへの負い目が、智子を前向きにさせていた。
「いいよ、いつがいい?」
「急だけど・・今晩がいい」
 こんな忙しい時に、やっぱり勝手な奴だとイラつき加減に思いながらも、夜にファミレスで会う約束をした。電話を切ってからも、法令違反という重大違反の文字が踊り、目がぐるぐるまわりそうだった。

 今日の週末休日をはさみ、来週には本社への経緯書の始末や支店長をはじめとする上司たちの検印という詰めが待っている。考えれば考えるほど、胃がざわめき、気が滅入る。50歳を過ぎた年齢のせいにはできないが、智子はどの同僚より失敗を繰り返す問題社員であることにまちがいはなかった。
 現社会は女性活躍が持てはやされている。一般人から見れば、大企業に勤める花のキャリアウーマンと見られ、羨む職業なのだろう。しかし内情は相反して、同じ職場内において格差が定着している金融機関特有のドロドロした側面も持ち合わせていた。昔で言う窓際族であった。

 魔の金曜は、仕事を終えても智子を落ち着かせなかった。二時間余り、夜のファミレスで互いの状況を話しているときも、後藤にまで責められるのではないかを身構えさせていた。

「俺なんか、悪いことは山ほどあったと思うよ。でも考えないことが一番だね。
 いつかは時間が解決することが大半だ。そのままにしておけないことは片づけるとしても、感情的な落ち込みには、時間薬が一番だから。」
「ふうん、そうよね、わかっているから」
「わかっている顔には見えないけど?」
「私のことは、あなたと関係ないでしょ」
 学生が多いファミレスの手前、小さく小声で話していても、智子の言葉はやはりドげドげしい。後藤もそれなりに負けてはいなかった。
後藤はコーヒーを飲み干すと、おもむろに煙草を吸い、横を向いたまま智子に言
「もう、帰ったほうがいい。ご主人に心配かけないように。今日のところは何も考えずに寝てくれ。その代わり、明日は休みだろ?久しぶりの広島だから、春の渓谷を堪能したいな、一緒に案内しておくれ。君もストレス発散した方がいいしね」
(前の呼び名、智、よびすてだったな。今は君、なんだ。……)
 ふと昔をよぎる思いを断ち切るように智子は言ってのけた。
「タダの観光ガイドって、ほんと、相変わらず強引だわ。昔から私の意見なんて聞く耳持たないからこうなったっていうのに。でも、お互い配偶者も別の子供もいるんだから、今さら二人の縁なんてもうないけどね。お餞別に付き合ってあげるわよ」
 後藤は礼も言わず、黙ってうなずいた。

 半ば強引に三段峡の観光案内を押し付け、その夜はホテルに帰るという彼の口から、その日のうちに旅の目的を切り出すことはなかった。

 翌日を迎え、薄曇りではあったものの、三段峡は山桜の見ごろだった。智子にとっては、正直せっかくの休みを返上され、うっとうしいというのが本音だったかもしれない。
 それでも、なお癒しを必要とする智子のためにゆっくりと歩いているのだろう後藤の後を、智子は言葉もなくついて歩いた。ぬぐい切れようにないもやもやは仕事だけではないことを智子自身、気が付いてはいなかった。そんな複雑な悩みを抱えたままの智子と比べ、4月後半を過ぎ、遅い春の盛りを迎えた渓谷は、薄雲を交えつつ智子とは対照的に明るかった。

 最初の入り口である赤い大橋から、透き通る豊かな流れが一面に拡がる。涼やかな風になぶられ、新緑の木々を軽やかに揺らす山のやさしさと、岩々をごうと勢い流れる力強さが、一挙に別世界を感じさせた。
 後藤がゆっくりと先に歩をすすめているのを気にも留めず、智子は橋の下をのぞき込んだ。さすがに渓谷だけあって、流水をうけながらも岩々の模様を惜しげもなく見せつける。悴んでいた智子の五感を、くすぐっていくのが解かる。たった数十歩、別世界に入り込んだだけでも、雄大な自然の片鱗を受け、智子の何かが変わっていくのを感じた。

                 【つづく】

【寄稿・写真エッセイ】 やまざくら = 矢澤 春美

 3月から4月にかけての日々は、人それぞれに、卒業、入学、転勤など人生にからんで、ばたばたすることが多い。

 私は3月末に実家から、亡父の25回忌、亡母の13回忌の法要を勤めたいとの連絡を受けた。そこで年度末の計画をいくつかキャンセルして郷里の和歌山に帰った。
 法事のすべては弟一家にお任せにしろ、参列するだけでは申し訳ないからと、ほんのちょっとだけ手伝った。26日の法要の朝、お墓の花の取り替えや、無住の寺の雨戸開けなど、弟の作業の補助をした。

 実は私には、不謹慎な下ごころがあった。お寺の入り口にある、桜の花を観たかったのだ。樹齢は不明だが、相当な古木で、いつもならばこの時期には満開になっている。しかし、ことしは固いつぼみが、しっかりと枝にしがみついたままで、私のあてが外れてしまった。

『写真:白浜駅裏の山桜。ホームで撮影.2017/03/29』

 それにしても、ことしの日本列島はどうかしている。花冷えに違わぬ冷えこみ方である。東京では、すでに桜が咲いている。しかし、新大阪から、白浜方面行きの「くろしお号」に乗り換えて、紀勢線を南下しても、沿線の山並みにさくらは見当たらなかった。
 下車する藤並駅に近づいた頃、左手のみかん山の中腹にわずかな山桜の花を見つけてほっとした。

 私はどちらかというと、さくらの花にさして執心する方ではない。特に夕暮れ時に満開の染井吉野を見ると、不気味な感じがして好きになれない。むしろ、紅い葉っぱと共に咲く、山桜の方に親近感を覚える。


 実家のある吉見集落の入り口に、友人たちが「春ちゃんざくら」と呼んで、花見をしてくれた山桜の大木があった。この木は数年前から勢いを無くし、とうとう2年前に枯れてしまった。
 桜の花盛りには、近在の写真愛好家が何人も来て、カメラを構えていたそうだが、この話も、もはや昔語りになってしまった。

 久しぶりに味わう故郷の春だ。桜の花がないのは寂しすぎるよ。きっとどこかに咲いているだろう。

『写真:友人が「春ちゃん桜」と呼んだ桜。仲良しの松本君(故人)が撮影した』

 私は、翌朝、家の周辺で記憶に残っている、山や谷を訪ね歩いてみた。実家のある吉見集落は、四方が山に囲まれた谷間にある。

 山といっても、多くは拓かれてみかん山と化している。だから、みかん山に登って反対側を眺望するのだ。しかし、その努力の甲斐もなく、山桜の花には出会えなかった。

 午後は弟が援助の手をさしのべてくれ、有田川町の谷のあちこちをドライブできた。
 我が家の東南の方にある、国道424号線で田辺の方に向かい、長い白馬(しらま)トンネルを抜けて、とうとう日高郡の旧美山(みやま)村にまで着いた。
 ここは日高郡龍神村のさらに奧で、標高も高く、もちろん桜の開花は遅い。

『写真:みかん山が続く吉見集落。低い山だが斜度がきつい』

 きょうはここまでと、戻ることにした。
 白馬トンネルを抜けると、有田郡の一方の境である宇井苔(ういごけ)集落で、深く長い谷が続く。「有為の奥山」ということばが浮かんで来た。そこから戻って二つ目の集落を「松原」と言い、私の友人の瀧アツミさんの家がある。

 高校時代は、このあたりは1本の細い道があるのみで、片側は崖になっていて、眼下に有田川の流れが見える。あっちゃんはこの道を通り、1時間以上もかけて、自転車通学をしていたのだ。50年近く経って、友の日々の行き帰りを思うと、恐怖心で山桜どころではなくなってしまった。

「この道こわい。早く帰ろう」
 と弟に言ったが、弟は慣れたハンドルさばきで、今度は別の谷の入り口まで連れて行ってくれた。そこは「西が峯」で、級友の鍛地くんの家がある。ここも、片方が崖の、細くて急な坂道だ。

 私は「いやあ、おおきに。もうええわ、はよいなんけ(早く帰ろう)」と、まだ案内しようとする弟を急かせて帰ってきた。



『写真:高校3年の元日の山登り。千葉山頂上にて。前列左と後列左の男性は、すでに故人である。 

 高校3年の元日に、クラスの仲良しグループの8人が、揃って有田川の河口近くの、千葉山(せんばやま)に登った記憶がよみがえった。
 山の頂から、私の住む吉見の集落が見えた。1本の坂道が吉見にむかって、蛇のようにくねらせて這っている。「家(うち)はあんな場所やったんか」と、ことばに表しきれない思いがこみ上げてきた。
 しかし、友人の何人かは、もっと奥地の人だったのだ。

 30年ほど前になるが、ある会合で同席した男性が、「私は伊豆の山奥で育ったので、すり鉢型思考というのか、高みの向こうを知りたくなる」と言った。その言葉に私も同感だった。私たちは、山のあなたに憧れたのだ。

 ふたたび桜の話。希望を棄てなければ、いつかかは実現できる。3月28日に弟夫婦と妹と4人で白浜へ行った。実家を出て、藤並から、国道42号線を南下して白浜に向かった。
 津木のトンネルを抜けると日高郡だ。日高川にさしかかるあたりから、山桜の花が視界に飛び込んできた。やっぱり南紀だ、やっと桜に会えたと喜んだ。しかし、染井吉野のつぼみは、固く結んだままだった。

 私の今回の帰郷は、山桜のおっかけで終わった。白浜の景勝地に来ても、足の悪い弟に「あそこは前に行ったから、もうええよ」と言って、どこにも立ち寄らず、海岸線を車で通過するだけにとどまった。これ以上を望んだら、山桜もかなしむだろう。

『写真:弟夫婦と妹(前列右) この3人と今回不参加の弟は両親亡き後、物心にわたるパトロンである』