寄稿・みんなの作品

「眠れぬ夜の百歌仙夢物語 八十三夜」  望月苑巳

 うっかりマグロの女房どのに「アイロンで顔のシワをとれば」と言ったら、
「あなたの足のニオイを先に取りなさいよ」と言い返された。
 天に召されたばあちゃんもさぞかし笑い転げているだろう。笑い過ぎて落ちてこないといいけどな。
 痒いのでふと腕を見たら真ん中に赤い切り取り線がある。
「それは蕁麻疹でしょ。バカな事言わないで」
 またばあちゃんに笑われるかな。
相変わらず焼肉定食、失礼、弱肉強食の我が家である。楽しいな。


 朝日新聞に掲載されているピーター・マクミランの詩歌翻遊「星の林に」は目からうろこ、なるほどと感心させてくれることが書いてある。日本人が見落としてしまう事をちゃんと発見してくれているからだ。例えば、


 梅の花誰が袖触れし匂ひぞと春や昔の月に問はばや
                (新古今和歌集、春上、源通具)

 この歌について「もののあわれ、儚さなどは日本の美学としてよく言われるが、連想についてはあまり言及されないような気がする。しかし私は、連想が日本の美学の基礎にあると思う。今回の歌はまさにごちそうのような作品だ」と書いている。
なぜか。
昔の月に問はばや、という部分。つまりこの作者の過去に何があったのかと想像を膨らませ、「伊勢物語」第四段にある歌、


 月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとのみにして
                 (古今和歌集巻十五、恋歌五)

 を連想させるからだと断じている。
 在原業平のこの名歌は、昔、五条通の邸においでになった皇太后の向かいに住んでいた女とねんごろになったが、ある日姿を消した。男は未練から翌年も梅の盛りにその家にいったが、女と過ごした昔は過去のものだとしみじみと知り尽くして泣いたというもので、この相手は後に清和帝の女御になった二条后のことを指す。
 つまり源通具の歌が「この梅の香りは誰の袖が触れて移った香りなのですか」と問う趣向だから、「春や昔の」のその根底には連想という共通のキーワードがあるというのだ。
しかももう一首


 色よりも香こそあはれと思ほゆれ誰が袖触れし宿の梅ぞも
                (古今和歌集巻::読み人知らず)

 という歌も提示して、この二首からの本歌取りだと捉えている。
そもそも西洋の詩の発想には月に向かって尋ねるという発想がないという。
また別の日の原稿では「キーン先生…桜よ墨色に」という見出しの話が出ている。キーンとはもちろん、日本文学を世界に広めてくれた文学者、ドナルド・キーンさんのことだ。

私事だが自分もドナルド・キーンさんには二度お会いして名刺も頂戴したことがある。一度は日本ペンクラブで講演された時、二度目は東銀座の東劇で偶然の出会いだった。足腰は弱られていたが、まだご自分で歩けるほど元気でいらした。亡くなる前の年だったと記憶している。

話を戻そう。ピータ―は「キーン先生の死はまさに黒というイメージがぴったりだったのだ。失われたのは色だけではない。光も失われたのだ。先生の死によって、世界から大いなる光がひとつ消えてしまったように感じられた」という。それは、この歌に触発されたからだ。


深草の野辺の桜し心あらば今年ばかりは墨染に咲け
                (上野(かむつけ)岑雄、古今集巻十六、哀傷歌)

 この歌は堀川太政大臣藤原基経が薨じたときに詠まれた一首で、深草の野に咲く桜よもし心があるならば今年だけは墨染の色に咲いておくれ、というとても直截的な惜別の歌だ。墨染とは告別式に着る僧侶の喪服の色のこと。したがって「源氏物語」の薄雲巻にも引用されている。憧れの人だった藤壺宮が亡くなって意気消沈した光源氏がこの歌を口ずさむ場面だ。
ちなみに令制によると薨去とは皇族や三位以上の貴族の場合に使われ、四位、五位では卒去というのだそうだ。いやー、知らなかったな。
 ともあれ、ピーターにとっても師と慕うキーンさんの死にはショックを受けたという事だろう。
こうしてみると和歌の面白みがますます湧いてくる。ありがとう、マクミラン。


新型コロナウイルスのせいで友人にも会えず、酒を飲みに行かれない日々が続いている。最初のころは散歩と称して近所のスーパーへ用もないのに買い物のふりをして暇稼ぎをしていたが、ついに東西南北すべてのスーパーを制覇して、ついには仕方なく家で晩酌ならぬ昼酌と相成った。秋でもないのに顔が紅葉している。
布袋様のような腹、どうしてくれるんでい! と月に向かって吠えても近所から苦情が出るだけ。怖いのは自粛警察と称する、自分だけは正しいと考え違いしているバカ者どもの出現。
新聞を読んでいたら、小さな子供ふたりと公園で遊んでいたら警官から職務質問を受けたとか。誰かが警察に通報したからだ。
でもバカなと思う。そもそも昔疫病が流行った時、菌を分散させるには公園がいいと公園が作られたのだという。そこは誰もが自由に羽を伸ばせる空間のはずだ。何かが間違っている。いや、そんなことも分からない輩が、オカミのいうことに右を倣え。それ以外は敵である、なんていう付和雷同、大政翼賛会的発想が怖い。クジラが空を飛んだって驚かねえ。オイラは誰にも束縛されねえぞ。


 地下鉄に乗った。
幼稚園ほどの男の子と一緒のお母さんが乗ってきた。走り出したら男の子が叫んだ。
「急に夜になった!」
 きっと初めて地下鉄に乗ったのかもしれない。
 以前朝日新聞の「あのねのね」という欄を読んでいたらこんな文章が。
「ユリの花が生けてあった。〈めしべは女の人で、おしべは男の人なんだよ。男の人は周りで、うっとりしているんだよ〉と言った」
八歳の女の子はあなどれないと実感した。
 夏の夜、孫の煌が遊びにやってきた。
 なぜか緊張している。
「どうしたの」と聞くと、後から入ってきた煌の生産者が蚊取り線香を持っている。
「そうか、それでキンチョーしていたんだね」


         ふぁいるをだうんろーど縦書き PDF


【関連情報】

孔雀船は1971年に創刊された、40年以上の歴史がある詩誌です。

「孔雀船」頒価700円
発行所 孔雀船詩社編集室
発行責任者:望月苑巳

〒185-0031
東京都国分寺市富士本1-11-40
TEL&FAX 042(577)0738

「寄稿・みんなの作品」トップへ戻る