【詩集 クリムトのような抱擁】 クラゲの抱擁 = 望月苑巳
更新日:2019年1月27日
クラゲの抱擁
シンと更けてゆく胸の内に
尖った男が住んでいたころのことだ。
部屋の掛け時計が止まっていても
失った人がいれば悲しみの針は止まらない。
夏のひまわり畑で、残酷な黄色が太陽と結婚する時間
喉が渇いて水が欲しくなるほど、青い海原を泳ぎきったあと
クラゲのように抱擁し
たっぷりと恍惚の水に溺れる
それは時間の砂に埋もれた裸体の思想だ。
賑やかで派手なサーカスが、どこか淋しいのはなぜか知っていますか。サーカスのテント裏には、失敗したナイフ投げの名もない弟子や、滑り止めを忘れて落下したブランコ乗りのゴシック体が、紳士のように並んでいるのです。
尖った男が象の調教師で
その昔象に恋したことがあったと、女は知っていた。
振り返ってみれば
人生はすべて借りと貸しからできているということだ。
だから、女は割り切って男を愛したのに
哀しみの時計が針を巻き戻すことはない。
夏の海にいて、なぜ、惨憺たる漆黒の闇を見るのですか。胸の内に深海の流れを見るのですか。あの手のぬくもり、殺気を閉じ込めた頬の陰影。男は嫉妬でほっこりと女の手を食べ始め、女は傲慢な拒絶で男の足を齧ったのです。
夕凪はふたりを繭玉のように包み込み
すなわち原子に帰っていった。
人間は欲望から成り立っているのだから
クラゲの抱擁ほどいやらしく神聖なものはないのだ。
詩集 クリムトのような抱擁
2018年10月25日発行
著者 望月苑巳 (もちづき そのみ)
発行所 七月堂
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