長州戦争から150年、高田藩戦没者たちの法要=広島・海田町
ことしは幕末の長州戦争から、ちょうど150年の節目の年です。芸州口の戦いで、越後高田藩は多くの犠牲者を出しました。
『長州戦争 高田藩戦没者 第150回大遠忌法要』が、平成28(2016)年8月7日、広島県安芸郡海田町の明顕寺で行われました。
「西国街道・海田市ガイドの会」では、明顕寺の境内も史跡案内しています。芸州口の戦いも組み込んで説明しています。
こうした有志が、同寺のご住職さんに、150年忌の法要をお願いしたところ、快く承諾してくださいました。
長州戦争の芸州口の戦いは、慶応2(1866)年6月14日に戦火が開かれました。長州藩の西洋式の最新鋭銃、さらに地の利にたいして、幕府軍は重装備で、旧式の兵器で惨敗だった、と一般に言われています。
兵器の差も確かですが、戦争には戦術や兵力とは別の要因もはたらきます。
越後高田藩は前年(1865)5月に越後を出発し、しばらく大坂にとどまり、海田市に到着したのが、同年12月です。さらに、芸州口の戦いまで、半年以上も、海田市の陣営で待たされました。
あげくの果てに、先陣予定だった芸州広島藩が不戦を表明し、後方支援部隊の越後高田藩と彦根藩がとともに、長州藩との境界で戦うはめになったのです。
最前線の兵士たちは、1年余も遠征疲れしており、戦意が高まらないまま戦いに臨み、長州藩兵に圧倒され、後退ばかり。
越後高田藩は慶応2(1866)年8月7日に、「宮内の戦い」で、大量30人の戦死者を出しました。
その後、援軍にきた幕府歩兵部隊と紀州藩兵が最新銃で応戦し、長州軍を押しもどし、さらに芸州広島藩が廿日市まで押し寄せた長州に怒りを持ち、宣戦布告をしました。
毛利敬親の命令で、長州軍はたちまち岩国まで退却しました。
最終的には、長州藩は藩境の拡大にも、さして勝利にもならず、幕府軍は初期の犠牲者だけが目立った戦いになりました。
(同年9月2日には、宮島・大巌寺での停戦協定で終止符を打ちました)。
それから歳月は150年も流れました。越後高田藩の祥月命日となる8月7日に、海田市ガイドの会では芸州口の戦いで命を落とした人をしのび、法要をさせていただきました。
写真・文 土本誠治さん(広島市在住)