A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・エッセイ】 エッセイがとりもった友情(上)=原田公平

 原田さん(エッセイ作者)のプロフィール

①1942年徳島生まれ
②アパレルメーカー一筋。外国に行くことが多く、海外に関心を持つ
③1993年、50歳記念で道元禅師の中国の寺を訪問。そこで座禅をして旅は行動と悟
④1996年、53歳、インド釈迦の足跡を訪ねて、釈迦の悟った菩提樹の下で座禅する
⑤61歳で退職し、アメリカ一周鉄道の旅、英語に目覚める
⑥2010年、ピースボートで初めての世界一周の船旅、スエズ、パナマ運河に感動
⑦2014年、ピースボート二度目の世界一周 は初めて赤道の南を回り、地球大発見する

撮影 : 宮内幸男さん 2014年1月29日、ウユニ塩湖(ボリビア・南米)にて

     「18回総合写真展」の準大賞作品  


ウユニ塩湖の水平線  (2014年2月13日 船上・エッセイ教室提出作品)

 ボクは見渡す限り山ばかりの田舎で生まれた。常に山の向こうに何があるかを想像しながら育ち、果てしない地平線を見るのが夢だった。

 61歳の時、アメリカ一周鉄道の旅で、ニューメキシコ州、アルバカーキーからテキサス州のエルパソまで、500㌔をバスに乗る。視界は360°砂漠の地平線の世界で、車窓に魅入った。地平線に沈む夕日も圧巻だった。

 バスの程よい揺れでうつらうつらしていた。突如、真っ暗な地平線に長い光の帯が現われた。これ、何!眠気が吹っ飛んだ。メキシコとの国境のエルパソの街の火だとわかるには、少し時間がかかった。あの瞬間に見た地の果て、地平線の光の帯の光景は、強く記憶された。

 このシーンがボクの最高の地平線風景であったが、それを上回る光景に出合ったのである。

 81回の船旅、オプショナルツアーはチリのバルパライソから8日間の「マチュピチュとウユニ塩湖」である。しかし期待たっぷりのツアーが、とてつもない苦痛の旅となった。

 4000㍍の世界は呼吸が苦しく、眠りは浅く、夜は何度も激しい頭痛に悩まされた。
 世界最も高地の都市、4100㍍のボリビアのラパスの後、ウユニ湖観光が始まった。

 トヨタのランドクルーザーに4人乗り、7台が列を成してウユニ塩湖に入っていく。季節は雨期、いい時期だったのだ。塩の結晶の上に約5㌢の水が一面に張っている。東京都の3倍の広さ、見渡す限り水平線、ところどころの山並みの起伏が心をなごます。

 ドライバーは何が目印なのか、ゆっくりとゆっくりと右に行ったり左にと、そして着いた。
 塩湖にぴったりの真っ白な長靴を履いて、湖面、いや湖上に立つ。白い雲、青い空、足元は亀甲模様の白い塩の結晶で、白とブルーだけの別世界、ウユニは3700㍍の天空の鏡に着てきた真っ赤なジャケットと黒い襟巻姿に柄の帽子も湖面に映り、高地を忘れて天界を楽しむ。


 現地ガイドさんが、「今日は夕陽の条件が揃っている」と話すので、待つ。椅子が出され熱いコーヒーとケーキが用意されていた。
 やがて地平線、いや水平線に夕日が沈んでいく。船では何度もみた光景だが、ウユニはちがっていた。空には少し雲があった、しかしこれが最高の条件だという。

 どれほど待っただろうか、太陽が沈んでしばらくして西の雲が輝きだした。そして段々と強くなり、すべての雲が真っ赤に、いや黄色やオレンジに一気に燃え出した。それが湖面にも映し出され、空と湖面が真っ赤になった。
 と現地のガイドツアのトシさんが全員一列の並んでください、写真を撮りますと、万歳をしたり、いろんなポーズをする。

 10㌔もある大型カメラを持参の宮内幸男さんは列に加わらず、色んな角度からカシャカシャと連写で撮っていく。

 ウユニから船に戻り数日間は、ひたすらに過酷な条件下にあった身体を休めた。元気になった頃、宮内さんの写真の発表会がホールで行われた。多くの一般参加者もいる。
 私たちが主人公となった写真が次々と大きなスクリーンに映し出される。小道具とカメラアングル、卓越したカメラワークから新しい写真の世界がかもしだされる。だれもがウユニをさらに堪能させてもらう。そして写真は続く・・・
 会場が一瞬静まり、そして歓声が上がった。

 水平線の夕焼けの下に参加者全員が横一列となり、燃えるような夕焼けと黒い人のシルエットである。水平線の上に、そして下に、2つの光景が神秘的な「一枚の絵」となった。
 ボクの水平線の思い出が、書き換えられた瞬間である。
 カメラマン・宮内さん、ありがとうございました。
 天空の鏡、究極の水平線、いや我が人生最高となるだろう絶景の思い出となりました。
 

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