A040-寄稿・みんなの作品

【寄稿・小説】 足払い (上) = 外狩雅巳

著者の横顔

 外狩雅巳(とがり まさみ)さん

 北一郎氏の評では、外狩雅巳の作品は「現代の社会思想の変遷を見事にえぐり出した作家」と言う。
 作者自身は、「同人誌続けておりますが、社会派としての矜持は忘れないで執筆したい」と熱意を語っている。

  文芸同志会「詩人回廊」より


足払い (上) 縦書き 印刷して読む場合もこちら

  小説 「足払い」 (上) 外狩雅巳

 汗と体臭の満ちた場内に一歩足を踏み入れると八時間の単純労働にゆがんだ肉体が闘志をむき出しにして緊張を作る。
 その瞬間の快感の目のくらみを通過して今日も相馬は蘇生した。


 密生した胸毛のすべてに汗の玉をしたたらせたそのぶ厚い肉塊がたたきつけるようにかぶさって、したたかに後頭部を畳の合わせ目に打ちつけられる。
 真赤に燃えて乾いた喉の奥に、鼻から吸い込んだ春草のそれに似た青畳の香りが一抹の清涼さを運んで、極限まで疲労した肉と筋のすべてに屈服を拒否させる最後の戦いへと駆り立てる。
 巨体の胸の下でガッシリと決った「上四方固め」。
 カァーッと充血させた顔面をふりみだし、相馬の四肢が拘束からの解放を求めて牙をむく。
 汗がふき出して流れ込み目がかすむ。払う手も、ふるい落とさんがための体も固定を強制され続ける。

 肉体がそれを確認した時から相馬はケダモノになる。絞め技が首を襲う。止められてしまった呼吸の中で経過する時間は死のイメージを広げる。その時相馬の肉体を吹き抜ける快感。
 寒稽古の熱気の中でわずかの二時間がまたたく間に肉体の消耗と共にすぎてゆく。
 燃えつくした心身に今日も冷水が心地良い。やっと本当の一日が終わった実感にひたり込んでいる相馬の耳に、シャワーの音を引き裂いて同僚の誘いの声が聞こえてくる。
「打ち上げだ。飲みに行くかー。ソオマよーっ」
「前祝の景気付けに一杯どおだよぉ」
 N工業本社代表として明日から相馬は全日本実業団柔道大会に出場する。オリンピック代表選考を兼ねた今回は、全国から実力充分の強豪が集まってくる。三十代半ばになろうとしている相馬には荷の重い大会が、それでも何かしら心弾む期待感をもたせてそびえ立っている。


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 目の前をせわしなく左右に体を動かして重心を低く摺り足で後退する相馬の隙を窺っていた対手の身体がふっと沈んだかと思うと、丸まった背と腰が胸の前へスッポリとはいり込んで来た。「背負い投げ」にやってきたその対手の腰が胸に付く寸前、突然に相馬は後退を前進に切り換えてその腰を抱え込みに出た。そのまま体重を掛けてのしかかっていく。当然後退して腰を落として防御するとばかり相馬の動きを計算していた。その逆をついた攻め。
 技の決まる寸前のバランス移動中のもろいその背へ腰へ、相馬の体重がかかる。その重みを受け止めかねて対手はよろめき、そしてたたらを踏んでしばらくこらえた後で崩れるように前へ倒れ込んでいく。そのまま背にしがみ付いて相馬は馬乗りになっていく。

 驚愕の顔付きが振り向く。信じられないといったその目。その振り仰いで持ち上がった顔の下にできた隙間に相馬の左手が滑り込んでいく。衿に達すると強く握りしめて引く。
 それを背中まで引き付けた時、「後ろ袈裟固め」が完成する。喉の所で空気の出入りがストップして三十秒。指先がしびれて感触が無くなっても相馬は耐えた。背に乗せた相馬を三十センチも跳ね上げるほど、相手はもだえ苦しみ暴れ回った。その顔面をゴシゴシと畳の縁に押し付け、反撃する闘志を絶望感へと変えていく。

 相馬の胸の中で何かがフツフツと煮えたぎってくる。背筋を上がってくる密やかなエクスタシー。
「一本。それまでっ」
 主審の勝利の宣言を、まるでオモチャを取り上げられた幼児のような気持ちで聞く。スッと引いてゆく快感。勝利の喜びは湧かない。


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 左へ左へ。対手に合わせて摺り足で重心を移動する。自然体で構えて自在に対応する。気張らず軽々しくもせず。押さば押せ、引かば引け、なるがままに動く。重心はよどみなく畳面を滑らす。左へ左へ。
 一回戦をH商会代表と戦い、一本勝ちしていま二回戦。
 場外が近づいてそちらへ気がいった。上から二段目、スタンド席のちょうど真ん中に水色のワンピースを見つける。京子だ。
 右足の前を風が動いた。微かな風圧を感じて本能的に腰を引く。スタンドに京子を見たその相馬の一瞬の気の緩みにつけ入って、対手の技が仕掛けられてきた。対面していたその顔が思いっ切り後ろを振り向いて、つられて身体全体が鋭く回転する。危機を察して素早く引こうとしたその相馬の腰の前にすでに対手の尻がピッタリと密着されようとしている。

 これで組み合った腕を抱え込まれてしまえば、あとは腰と脚を跳ね上げて身体を持ち上げられ、そして空中で半回転しながらその対手の汗に濡れた胸に相馬の胸が接続しながら、試合場の畳の上へ墜落するしかないのだ。
 二回戦の見せ場を作って「払い腰」の大技の餌食となり、敗北の肢体をそのビヤ樽のように横太りした男を胸の上に乗せて観客に晒す。N工業からの後援者達の目前でそれがいま現実となりつつある。京子が見ている。
 相馬の対応はしかしすでに効力は大きく減らされてしまった。引き付けられ抱え込まれようとしている左腕を振り切ること、それのみがこの時点での唯一の防御策なのだ。セオリー通りの相馬は左腕に力を込めて引きもどそうとするが、それこそ勝敗の分かれ目と知っている対手の握力には万全の力がこもっている。

 引かれる。引き付けられる。そして抱え込まれるその寸前、相馬は我知らず暴挙に出てしまっていた。
 握った対手の衿口から手を離して、そしてその手で相手の顔面をつかもうとした。技への対抗、精一杯つっ張っていたその衿口の手を離したらもう身体を支えていることは出来ない。グラリと揺れて自分から技に掛かっていくその過程で手がその男の顔に届いた。いや正確には顔の中の鼻のその先端にやっと伸びた。

 そこから幸運が始まった。入ってしまった。スッポリと伸ばし切った指の先が、中指と薬指の先が二本、二つの穴の中につき刺さってしまった。それはまったくの偶然であり故意に行なった反則といったものではない。そして割れて血の滲んだ爪の角が柔らかな内側の粘膜にくい込んだ。

 息を荒くして穴を大きく広げて鼻から酸素を取り込もうとしていた矢先にそれがストップしたので、対手にとってそれは一瞬目の眩むような衝撃であったらしく、喉の奥から不快な擬音を発しながら顔が横に振られた。指は抜けた。すぐ抜けた。審判すら正確には事態をつかみかねるほどその短い時間の中で、いくつかの動作が、しかし裂けた爪の角にかすかに血と数ミリの粘膜を引き連れて終わった時、局面は大きく変わっていた。

 アクシデントに、万全だった対手の技の仕掛けが綻んだ。鼻の穴が詰まった。驚いて振り切った。
 不完全な形でその「払い腰」の技は終った。もつれ合ったまま二人は崩れ落ちるように畳の上にへたり込んでしまった。割って入った主審が二人を立たせて改めて試合の続行を宣告する。
 左へ左へ。再び二人の重心が畳の上を移動する。

 この男もB自動車の代表として企業の名と自分の立場を背負っていま相馬に立ち向っているのだ……と考えるとその赤い点のような血の滲みの見える鼻の穴をこちらに向けている横太りした対手に、何とはなしに同情を感じてくる。
 こうやって自分は会社で伊藤と十年間に渡ってN工業本社代表の座を争ってきて今やっとその頂点に立っているのだ。会社と社員達の名誉と声援を一身に受けて今ここに自分がいる。こうして二人は競わなければならない立場にいる。
 何のために、会社のためにか。俺もこの男もそんなことを目指して柔道に打ち込んできたのだろうか。相馬の心の中で小さな揺れが少しずつ広がっていく。


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「S大学柔道部出身の伊藤です。仕事でも力いっぱいねばり腰を発揮してガンバリます」
続いて何人かの自己紹介の後で順番が相馬のところへ回ってきた。販売事業部の朝礼の折、五十音順で新入社員が初出社の挨拶を行なった時のことだった。
「私は相馬です。伊藤君と同じ職場ですのでよろしく」
 口下手な相馬には伊藤に先に言われてしまった言葉以外を捜し出すことができなかった。高校そして大学時代、いつも伊藤が一歩先を歩いていたことがこの会社でもまた繰り返されようとしているのだ。
 そして独身寮に入居して販売事業部の二つの課にそれぞれ配属されてから十年、相馬が伊藤の前に出たことは一度もなかった。

 無数に生産されてくるN工業各地工場の完成品。その商品はすべて本社販売部で捌き切らなければならない。多くの販売代理店、そしてその先の得意先企業、商店、公社等々。

 入社して四年がたって、相馬は流通管理部へ配転された。伊藤は主任販売員になっていた。四年間相馬は受け持ちの得意先を連日足まめに回り、どんな小さな注文も地を這うようにして拾い集めてきたつもりだった。伊藤はしかし小さな客は他の部員にまかせて、弁舌と押し出しを武器に大企業に乗り込み、次々と大口の顧客を開拓し、入社の自己紹介を実地で証明していった。
「構わんですよ。まあここは私にまかせて見てはくれませんか。私も男です。半端な仕事はしませんから」
 電話口でそんな大声で笑いを放っている姿を一度相馬は目撃したことがある。三十歳にもならぬのにその腹の出た堂々たる長駆がダブルの背広いっぱいに自信をみなぎらせていた。
 その長身と体重をもって仕掛けてくる大技。「跳ね腰」は見る者の目を見張らせるような見事な決まり方をする。小柄で貧相な相馬の「送り足払い」のチマチマとした仕掛けぶりとひかえ目な決まり方。
 大向こうをうならせる伊藤の立居振る舞いは当然彼を柔道部長へと押し上げていた。
 副社長が社員を連れて声援したその年の全国大会でベスト4に入った。補欠にもなれなかった相馬は病気と偽って応援には出向かず、深酒に沈んだ一日だった。

 伊藤は係長代理になっていた。
 立ち込める煙草の煙の中で男達が受話器に口を押し付けるようにして声高に叫んでいる。女達が次々に書類を写し記入し整理している。コール音で受話器が飛び上がっている。そこでもここでも。飛びつく女。両手で受話器を握る男も見られる。販売部は戦場だ。
 片隅に来客用応接ソファがある。大手代理店の幹部達を相手に伊藤がソファにそっくり返っている。
 例の豪傑笑いが室内に流れていく。一番出世で係長の座を射止めた男の迫力がまたひとつビジネスを成功へと運んでいる。

 京子が来客への茶菓を盆に載せてそんな伊藤達の応接ソファへ近づいていった。目が合うと伊藤はひととき対話を止めて京子の視線に対峙する。きびしい管理職の顔がふっとゆるんで柔らかなまなざしで京子の目礼を受け、客にその茶をすすめる。


 空になった盆を持って帰る京子の何気なく見やった窓の外ではいま工場から大量の商品が入荷してきた。運送業者の運転手や助手達が上半身裸の姿で次々に大きなダンボール箱を肩に負って倉庫に運び込んでいる。その中のひとりにN工場の社員が入って男達を指図しながら自身もトラック助手達の倍も肩に乗せキビキビと働いている。流通管理部の大きな商品倉庫の前には数台のトラックから入荷された段ボール箱が山と積まれている。

 かなりの時が過ぎ新たな来客へ麦茶を運ぶ時、京子はその青年を再び窓の外に見つけた。もう日が傾き出し荷は大半が運び込まれ、あと少しで終了するところであった。立ち止まって青年は額の汗を作業服でぬぐっている。同じ社員として特に何という気ではなく、京子は帰りがけにひとつ残った麦茶のコップを持ってその倉庫の前に来た。
「御苦労さま。どうぞ冷たいものでも」
 立ち止まって確かめるように京子の制服を見てから青年は笑顔になって手をコップに差し出した。ひといきでグイグイと飲み干してしまってから残った氷片を齧り出した。
「いやあ、うまかったあ。ありがとう」
 礼を言いながらまた青年は額の汗をぬぐって顔を上げた。陽に焼けた浅黒い顔の中で歯の白さがまぶしい。はだけた胸に流れ落ちる汗を見つけた時、京子はふっと健康な男の匂いに包まれた気がした。

 それが相馬と京子の出会いだった。            【つづく】

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